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最終更新日15/06/25

コラム

コラム359

非常識

  この頃、他人と話していて自分を含めて人間は非常識であり、常識といっているのは他人との多数決で成り立っているように感じます。

考え方の相違や日常生活での相違は当たり前にあふれていて、それらの相違点を 自己の価値観で正しい、間違っているという話を今まで人との会話の中で当たり前にして来ましたが、それらの相違点自体が人それぞれの生活の中で確立した事であり、それらが自分の生活と違う生き方をしてきた他人に適用するのは結構困難の場合がある気がします。

例えば物事の考え方ではなく、実家で味噌汁の具の話で、きゅうりを入れると言う話をしたら、ほとんどの人が「そんなの知らない!!」と言われましたが、農家などに関係する人だと結構、きゅうりを味噌汁に入れると言う話にします。

話す内容が知らない人と知っている人によって常識になったり非常識に変わってしまうと言う事。

これはあくまで生活習慣の他人との違いですが、人は自分の経験や環境の中で自分の話しをしますが自分の話が他人に常識として受け止められるのか非常識として受け止められるかは他人と話してみない厳密には限り分からないのが事実です。

その為、何気無く話した事が常識なのか非常識なのかは分からないし話す人によってそれも変わってしまう場合があると言うことになります・・・・。

ただ、個人が常識と捉えている事が他人に取って「正しい」「正しくない」と言う話になると難しい話で他人とは話してみない限り自分の価値観が他人に通用するとは限らないと言うことになってしまいます。

ところがこれら自分と他人との相違点に何となく気づいているのならいいのですがまったく気づいていない人も多く、それらの違いが対立を生んだりややこし くなります。

私が思うに人それぞれに非常識な面は必ずあってそれらが他人と混ざりあって常識と非常識が緩和されているだけで非常識の程度が他人によって受け入れられたり受け入れられなかったりしているに過ぎず、それらの相違点を上手く接していけるかは人それぞれの社会性だったりしている気がします。

昔ゲームセンターでクイズゲームで自分の選択した回答が常識か非常識かを当て るゲームがあったのですが(タイトル忘れました)
このゲームで常識と非常識を分けているのはアンケートによる多数決であり、数の「多い」「少ない」で判断している常識であって人や数が変われば常識といっていることが非常識になってしまう曖昧なものだと記憶しています。

そのため、自分が身近な限られた人とのみ接していれば自分の常識が強くなって、自分の知らない人と付き合うと非常識の面が強くなるような気がしますので接する人の質で自分自身の常識が変化してしまう曖昧なものだろうと感じています。

いまだに人と話すと何が「常識」で「非常識」なのか分からなくなってしまいますけどね (汗)。

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