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ハルヴァイト・ガリュー

   
         
判っている。判られている。

  

 ミナミが自宅に戻ったのは昼を過ぎてからだった。

「ただいま」

 玄関から一直線にリビングへ入り、相変わらずソファに寝転んで本を読んでいるハルヴァイトの傍らに立って呟くと、恋人は薄笑みを浮かべた唇で小さく「お帰りなさい」と答えただけで、それ以上何も言おうとしない。

「……触っていい?」

 唐突に囁いたミナミの何が可笑しかったのか、ハルヴァイトは開いたままの本を胸の上に載せ、小首を傾げるようにしてミナミに答えた。

 否定や拒絶である訳もなく。

「どうしました?」と言わない代りに、朗らかに微笑む。

 ミナミはハルヴァイトから目を逸らさずに、そっと伸ばした指先で本の上に置かれている手に触れてみた。大きくて骨ばった手。今まで何度も触ったし、これからも。

「不思議だと思わなかった訳じゃねぇんだよな…。あの事故の関係者に、会った事ねぇってのさ。でも、なんだろ…、安心してたのかもしんねぇ」

「何がですか?」

 さらさらと手の甲を撫でる感触。

「ミラキ卿」

 そうとだけ言って見つめてくるダークブルーの双眸からこちらも目を逸らさずに、ハルヴァイトは短く苦笑い交じりの溜め息を吐いた。

「珈琲を煎れて置きましょう。着替えていらっしゃい」

 ゆっくりと身を起こしながら、ハルヴァイトがミナミの手を握る。ミナミはそれに抵抗する事もなく、軽く引き寄せられて身を屈め、押し付けられた掠めるようなくちづけを受け取って、すぐにハルヴァイトから離れた。

 二階に上がって着替えを済ませたミナミは、一旦廊下に出てから考え直して部屋に戻った。

 ネットブックス接続用の本型端末が幾つかと、ソフト。立ち寄った書店でつい衝動買いした地表の観測写真集。小さな観葉植物。ドレイクのくれた置時計。飾っているかどうか必ず見に行きます、と意気込んでいながら見に来る機会を逃しているマーリィが、無理矢理ミナミに押し付けた真白い少女と赤い美女の写真と、陛下の肖像写真…。

 それらの収められた本棚に紛れ込んでいる一冊の…赤い背表紙にうねった金文字の踊る「本」を取り出して、ミナミはもう一度部屋を出た。

 ハルヴァイトがヘイルハム・ロッソー事件で拘束された時、黙って彼の部屋から持ってきた本。臨界式文字で書かれたそれをミナミに読むことは出来ず、あの臨時議会の前夜、ベッドに置き去りにして、二度とここへは戻ってこないのだと覚悟を決め部屋を出たのに…。

 ハルヴァイトに連れられてこの家に戻り、もうどこへも行かなくていいと言われた日、この本は、なぜかベッドと壁の隙間に落ちていた。

 隠れるように。

 抵抗するように。

 ここに。

 ミナミの手に。

 残った。

 ミナミはそれをあまり不思議だとは思わなかった。元々この本は、望んでミナミの手に渡ったようなものだったし。

 それで、今どうしてその本をハルヴァイトに返そうと思ったのか定かでないが、とにかくミナミは、その分厚い本を手にして階下に戻った。ぐずぐずしていたつもりはなかったのに珈琲は出来上がっていて、リビングが琥珀色の香りでいっぱいになっている。

 ミナミがリビングに入ってソファに落ち付くとすぐ、ハルヴァイトがカップをふたつ手にしてキッチンからやって来た。彼はすぐにテーブルに置かれている本に気付いたようだったが、それについては何も言わなかった。

 もしかして、判ってたのか? とミナミが訝しそうな顔をする。

「確かにあなたの言う通り、ドレイクが手を回したというのも理由ではあります。本当のところ、当時議会で糾弾された貴族院議員の手前、被害者である二名の家族も声高にわたしを非難出来なかったんでしょうね。

 当時の第五小隊のヘイゼン小隊長が階級を返上、転出してしまった事で、残ったのはわたし、ドレイク、アリス、それと、身分詐称で軍に所属していたウォルなんですから、下手に騒ぎ立てても潰されて終わりだろうと思われたのかもしれません」

 サーバーからカップに注がれる珈琲。立ち上る湯気はふかふかと柔らかく、微かに俯いて淡々と語るハルヴァイトの鉛色を霞ませた。

「知られて困るような事はありません。間違いなくあの事故は起こり、ふたりが命を落とし、わたしは、救われた」

 それだけ。とでも言うように、ハルヴァイトが珈琲の香るカップをミナミに差し出す。それを受け取って小さく頷いたミナミは、少し疲れたように溜め息を吐いた。

「それ、今更どうこう言うつもりねぇし、それどこじゃないしさ。ブルースくんがゴネなきゃ、こっちの準備万端でもっと清々しい気分になれたのにな、って程度なんだよな、俺も」

「…デリとタマリの件を?」

「ああ。それもちょこっと聞いた。そっちも、俺達がどうこう騒ぐ事じゃねぇだろ。タマリはどうか判んねぇけど、デリさんは…怖いらしいし」

 余計な事などしたら。

 苦笑いのミナミに頷いて見せたハルヴァイトが、ソファの背凭れに身体を預ける。

「デリは自分の事を自分で解決出来ます。タマリは自分の信条を貫き通すでしょう。アントラッド少年のように、誰かに八つ当りでも出来たらいいだろうにとドレイクは言いましたが、残念ながら彼らはそう出来るほどか弱くないですよ」

「あんたほどやる気ねぇ訳でもねぇしな」

 すかさず言い返されて、ハルヴァイトが苦笑いした。

「それは、同感ですね」

 そう、ハルヴァイトには出来たはずなのだ。ブルースに言い訳する事も、ここにいないヘイゼンに謝って見せる事も。

 しかし彼はそうしなかった。

「……そういう事にしとく」

 ミナミは呟いて、煎れたての珈琲に手を伸ばした。

「正直、朝から色んな事あり過ぎ、俺。もう今日は疲れたから、何も考えたくねぇ」

「? まだ何かあったんですか?」

 きょと、と鉛色の目を微かに見開いたハルヴァイトに、ミナミはルードリッヒの事やクインズの事、それから、ついさっき聞いたばかりのヒューの身の上などをかいつまんで話した。

 ハルヴァイトはそれに時々頷いたり笑ったりしたものの、口を挟もうとはしない。

 全てを話し終えて溜め息を吐いた、ミナミ。そのちょっと疲れた横顔に薄い笑みを向け、最後に彼は一言だけ言った。

「全て起こってしまった事ですが、終わってしまった事ではないですよ」

 リビングに静寂が戻る。

 いつもこうだとミナミは思った。ミナミが話し、ハルヴァイトはそれを黙って聞いている。意見を述べたりしない。意見が無い訳ではない。しかし彼は、多くを語らない。

 流されるのではない。ただ受け止めるのでもない。これからどう振る舞うのかは、その時が来たら決める。

 必要なのは、データ。

 手の中にあるのは、情報。

 そしてハルヴァイトは、情報処理能力が桁外れなのだ。

 だから。

「話変わるんだけどさ」

「なんですか?」

 気負ったりしない。

「この本、あんた…なんで何も訊かねぇの? 俺に」

 ミナミはカップをテーブルに戻し、置き去りにされている赤い表紙の本を指差した。

「何か足りないなとは思ってたんですが、別に重要な書物でもなかったので、まぁ、あればいいかな、くらいで」

「よくねぇだろ。一応これも機密文書じゃねぇのか?」

 呆れた。

 溜め息混じりに突っ込んだミナミがソファの背凭れに身体を預けると、ハルヴァイトは本気で小首を傾げ唸った。

「どうせ誰も読めないでしょう? だったら盗んでも意味ないですし」

「つか、無くしたら困んだろって」

「誰も気付きませんよ」

 気付かなければいいのか?

「しかもここにあるし」

 間違ってる。

「…あんた、部屋の本、在庫整理しろ。命令」

「う……。それはもしかして、アイリー次長としてですか?」

 引きつった笑顔で見つめてくるハルヴァイトに、ミナミは無表情に頷いてやった。

「いろいろひっくるめて、あんたは少し部屋をどうにかしろ」

「…………面倒…」

 この期に及んでも抵抗するハルヴァイトの素知らぬ横顔に盛大な溜め息を吐き付けてから、ミナミが小さく笑う。

「つっていきなり生活態度改められたら、気味悪ぃけどな」

 ソファにだらしなくひっかかってくすくす笑う、ミナミ。その笑顔は穏やかで、儚くて、ハルヴァイトは、持ち上がって顔にかかる金色の髪を掻き揚げた恋人の細い指先を見つめ、その指先が自分の頬に触れた奇跡だとか、か弱い腕が自分を抱きしめた幸せだとか、もっとはっきりと、あの日、あの時、一瞬で恋をしたあの青年が今こうして目の前に居る幸運に感謝する。

「…差し上げますよ、あなたに」

 言ってハルヴァイトは、テーブルに鎮座した赤い表紙の本をそっとミナミの方へ押し遣った。

「…つか、よくねぇんじゃねぇ? それ」

「いいですよ。どうせこれは…他の誰にも「見せるつもりなどなかった」ものですから」

「? どういう意味?」

 恋人の口から出た意外な一言に、ミナミが背凭れから身体を浮かせる。

「見せるつもりなかったって?」

「写本がファイラン王室に保管されているんですよ、これはね。多分王室ではその「写本」を「原版」だと信じているはずです」

「?? でも、だったら…か、この原版は王室に返した方いいんじゃねぇのか?」

「原版にあって写本では削除されている部分があります。何十年か何百年か経ってこの本を読める誰かが出てきた時、写本を「写本」としてこれを翻訳し王室に渡すかどうかはその誰かが決めればいい事で、わたしはこれを翻訳せずに置くべきだと、そう思いました」

 内容を見た上で。

「写本はありきたりの「創世神話」に少しの事実を書き込んだものですが、この原版には、最初の「電脳魔導師練成」の理論とその方法、実験の結果が書き込まれているんですよ」

 練成、と聞いて、ミナミは一瞬惚けたようにハルヴァイトを見つめた。

「ああ…。最初の魔導師って」

「人造人間だったんですから」

 そういえばそんな事を議会の日にウォルが言っていた、と思い出すのに、瞬き一回もかからない。

「一部を創世神話として王室に献上し、事実は特定の魔導師にしか読み取れないデータとして遺す。それで先人は、無闇に魔導師を増やさないよう細心の注意を払ったはずなんですが、時を経て、アドオル・ウインは極めて似通った技術を開発してしまった。人工子宮という技術が継承されていたんですから、先人も、いつかはこの理論が明るみになると予想はしていたようですがね」

 断定的且つ冷静なハルヴァイトの言葉にミナミが首を傾げると、恋人は笑顔でテーブルの上に置かれた本に人差し指を載せ、「読めば判ります」と言った。

「翻訳した臨界式ディスクも差し上げますよ。きっと、何かの役に立つと思いますから」

「何の役に立つ?」

「……何かのです」

 ハルヴァイトは薄っすらと微笑んでいた。赤い表紙の本から一瞬浮かせた人差し指。すぐに掌を開いた彼は、まるで埃か何かを叩くようにまた赤い表紙を叩いた。

 ぱん! と空気の破裂するような甲高い音。その余韻が残るうちにテーブルに描き出された、小さな電脳陣。真円のそれが発光し本を付き抜けて中空で数回回転すると、すぐ、あの、エメラルドグリーンの円盤が陣の中心に出来上がる。

 電脳陣が撒き散らす光の粒子を一瞬で固めたディスク。

 それが、ゆっくりと赤い表紙の上に降り立った。

「アドオル・ウインの周囲を固めていただろう後天性違法魔導師たちは、ある程度この理論に当てはまる方法で練成されたと思って差し支えないでしょう。だったら、あなたにはこの本を受け取り、読み解く、……権利と責任がある」

 だから、なのか?

 この本がミナミから離れない理由は。

「これに魔導師のひみつが書かれているとすれば、それは、わたしの秘密でもある」

 呟いて、ハルヴァイトはミナミに微笑んで見せた。

「……キス、してもいいですか?…」

「いいよ」

 囁きながらミナミは、テーブルを回り込んで来るハルヴァイトを見つめていた。

「いいよ」

 手を伸ばし、傍らに移動して来たハルヴァイトの手にそっと触れて、彼はタマリが同じ言葉を二度呟いた意味を悟った。

 それは。

 瞼を閉じるとすぐ、唇にほんのりと暖かさを感じる。

 ゆるぎない意志なのだと、判った。

           

   
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