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16.全ての人よ うらむなかれ

   
         
(24)

  

 その頃、特務室は新たなパニックに陥っていた。

 もうこうなってしまってはどうしようもないのか、タマリは頭を抱えて室内をうろうろと歩き回り、スーシェは何度もソファから腰を浮かせてはまた座り、アリスとアンは手を握り合って蒼褪めたままじっと動かず、デリラは廊下に繋がるドアの前に仁王立ちして他の入室を拒み、ヒューとクラバインは…。

「どうする?」

「まぁ、もう少し様子を見るしかないでしょう」

「妥当な意見だな」

「妥当というよりも、打つ手がないだけかもしれませんが」

「それも、妥当な意見だ」

 難しい顔で平然と言い合って、それぞれ室長室に続くドアの左右に背中を預けて佇んでいた。

「つかてめーら落ち着き過ぎなんだよ!」

 ふにゃぁ! と声を殺して叫んだタマリがヒューに飛び付き、引っ叩かれて床に沈む。

「…とか言いつつ、班長も相当慌ててると思いますけど…」

 白目を剥いて足元に転がって来たタマリをそそくさと回収したジリアン(運悪く執務室に居合わせ、この騒動に巻き込まれた)が、スーシェの隣りに小さな身体を放り込みつつ、ぽそりと漏らした。

「手加減してあげましょうよ…タマリ魔導師に」

 加減なしで首筋に入った手刀一発で完璧に落ちたタマリの様子に、思わずジリアンの口からも溜め息が漏れる。

 などと一見平和そうな室内、電脳班執務室に繋がるドアの前には、ミナミが蹲っていた。ウォルをドレイクの元に送り届けて引き返して来た青年の集中力は、いきなりここで途切れたのだ。それでもまさか悲鳴を上げてどこかに逃げ去るでもないのだが、とにかくミナミは、後ろ手にドアを閉ざした途端、両手で頭を抱えてがたがた震えながらその場に座り込んでしまった。

 普段は何を考えているのか判らない無表情を貫く青年のこうした恐慌状態をそれぞれが目にしたのは、タマリとスーシェを除けば、ない訳ではない。こういう時ミナミは大抵目を閉じない。長い睫の先と唇と全身を可哀想なくらいに震わせ、真正面を見据えて、自分の額に爪を食い込ませるほど力一杯小さな頭を抱えて、しかし、絶対に、周囲から目を離そうとしないのだ。

 それほどの、恐怖。目を閉じたら再現されるのは悪夢か、現実か。

 さすがに、始めてこれを見るハメになったタマリとスーシェは、心底怯えたし慌てた。思わず駆け寄ろうとしたふたりを停めたのはデリラで、その時彼は、ただ首を横に振っただけだったが。

 近付いてはいけない。触れてはいけない。怯えさせてはいけない。

 錯乱したミナミの髪に触れ、頬に触れ、掠めるようなくちづけを捧げ、抱きしめられるのは、たった一人だけ。

 その人は、ここに存在しないけれど。

 だから彼らは待たなければならなかった。ミナミが自力でその状態から抜け出すのを。差し伸べられない手のもどかしさに耐えなければならない。

 共有するのは苛立ちだろうかとヒューは、震えるミナミの痩せた肩を見つめて思った。それでも、青年は充分「強く」なっただろう。触れた触れないではなく、何かもっと違う部分で。

 何が変わったのか。ああ、そうか、とヒューは、何気無く口を開いた。

「ミナミ、お前、吐かなくなったな」

「……………」

 恐怖に潤んだダークブルーが、驚いたように振り上げられヒューを捉える。正直それは、は? と言いそうな顔だった。

「いや。お前、以前はそういう状態になるとすぐトイレに駆け込んだだろう?」

 何を言い出すのか、この男は。という視線に晒されながらも、ヒューは平然としている。その涼しい顔を見上げていたミナミは、ふと眉を寄せてから両腕を下ろして床に尻を突き、自分の腹部をさすってみた。

 言われてみれば、そうかもしれない。とりあえず、こう、込み上げて来るものは今の所ない。

 それがなんだというのか、ミナミは自分の手に落としていた視線を、再度ヒューに向け直した。

「まぁ、俺は医者じゃないから詳しい事は判らないが…」

「吐き気つうのはさ」

 それまでスーシェの膝枕で寝込んでいたタマリが、急にぴょこんと上半身を起こしミナミに笑顔を見せる。それに、うん、と頷いた青年の多少は落ち着いたらしい様子に、ソファの肘掛より外に膝から下をはみ出させたまま、彼は続けた。

「色んな原因あんのよね、医学的に。その大部分は面倒だから割愛すっけど、まぁ、みーちゃんの場合に思い当たる要因としては、つまり、心理的なモンでしょ」

 臨界式医療師というちょっと耳慣れない資格を取得しているタマリが、いつもの調子でつらつらと語り出す。

「身体が何らかの不調を訴える信号って類の吐き気じゃないわな、そういうのは。不調を訴えてんのは、気持ち。こころ。下手すると、吐かなくちゃ、って脅迫的に思うから吐きたくなるつうのもある。

 んで、まー、今まではあっただろうそれが今日はないってのは、なんだろね…」

 んと。とちょっと難しい顔をして顎に手を当てた男が、急に顔を上げ、にぱ! とあの枯れ果てた笑みを見せる。

「難しいトコ抜きにすんならさ、そんな悪くねーって事じゃね?」

(つうかそれでいいのかよ)

 内心思いきり突っ込んでから、ミナミは急に顔を顰めた。

 そういえば以前、ミナミは言われなかっただろうか。青年の健康は、突っ込みに比例しているとかなんとか…。

 それから、リイン。

 以前ハルヴァイトとミラキ邸を訪れて執事頭のリインに髪を切って貰った時も、確かにミナミは途中何度もその手を停めさせた。しかし結果として青年はあの執事に髪を切って貰ったし、その後、別に吐き気を訴える事もなかったはずだ。

「………………」

 難しい顔で押し黙り電脳班執務室のドアに背中を預けたミナミは、立てた両膝の上にそれぞれ両腕を預け、項垂れて床の一点を見つめたまま動かない。その様子を心配そうに見つめるスーシェの肩を背中で押して、タマリはぴょんとソファから飛び出した。

「アタシの本職は魔導師でさ、医者じゃないから治療も回復もしてあげらんないけど、みーちゃん? 調べて判断するって事くらいは出来んだよ」

 言いながらゆっくりとミナミの正面に近付き、適当な位置で足を停めた彼が、ひょいと膝を抱えてしゃがみ込む。

「視界を覆ってたモンが退けたんだ、みーちゃんの中でね」

 顔を上げたダークブルーの中で、タマリはにこりと微笑んだ。

「…………………」

「これって重要な事だと、アタシは思うな」

 囁くように言って、タマリはさっさと立ち上がった。

「ねー、どうせレイちゃん出て来るまでなんも出来ないんでしょー? だったらさー、みんなでお昼食べにいこーよー」

 翻る深緑色の長上着。深紅の腕章には、懐かしい「F」の刺繍。華奢な、今にも折れてしまいそうな身体と、黄緑色の小さな頭。

 枯れ果てて行こうとするくせに、そういう風に振る舞うくせに、ただ消えるのではなく、彼が彼として、魔導師を生き尽そうとする。

 三十二人分の人生を。

 たった独りで。

 でも、本当はそうでなく。

 ミナミは、背中を預けていたドアを頼りに、立ち上がった。

「ん? 何、みーちゃんも行くかい? ランチ」

 肩越しに振り返りったタマリに頷きかけてから、ミナミが室内を見回す。

 安堵の表情と、ほっと落ち着いた空気。誰かが何か言うでもなく、でも、誰もがミナミを見つめていて、青年は、少し困ったように首を竦めてから、ヒューに視線を流した。

「さっき朝食? 摂ったばかりだろう、ミナミ。それでもまだ何か食う気なのか?」

 からかいを含む言葉と一緒に放物線を描いて飛来した小豆色の手帳を開き何か書き込みながら、ミナミがうんと頷く。そういえばお腹減りましたね、と未だ固い表情のアリスを振り仰いだアンが小首を傾げて亜麻色の瞳を覗き、再度、ね? と言いながら彼女の手を引いて、ドアへと爪先を向けた。

「確かに、丁度いい時間だしね」

 ドアの前に立っていたデリラが呟いて、アンたちに先んじ踵を返して退室しようとするのを横目に、ミナミは広げた手帳をジリアンに示して見せた。と、眼鏡の青年から返って来る、了解のウインク。

「室長も行かれますか?」

 ジリアンの、ミナミから流れた視線がクラバインとヒューの頭上で止まる。

「陛下がいつお戻りになるか判りませんから、わたしは隣りに」

「判りました。あ、それで、班長?」

 軽くクラバインと視線を交わしたヒューがドアの横を離れてジリアンの背後を通り過ぎようとした時、彼は、急に何か思い出したような声を上げて流れる銀色をその場に留めた。

「なんだ?」

「これなんですけど…」

 と、意味もなく(……)、モニター上で展開している資料を指差したジリアンにつられて、ヒューがそれを覗き込んだ、瞬間。

 待ってましたとばかりにミナミは手に握り締めていたあの手帳を、ぺしん! とヒューの額にぶつけてやった。

 極、至近距離で。

「…………」

「別に、見てくれなくてもいい書類です」

「…………………………」

 最後まで真面目な顔を保ったまま、律儀にも、ミナミに頼まれてヒューをわざと呼びとめたジリアンが、オチを言い切る。

「あと、是非ぼくにもバニラアイスお土産に持って来てください」

 はい終わり。行って行って。と手でヒューを追い払ってからジリアンは、拾い上げた小豆色の手帳をデスクの片隅に置こうとした。

 特務室の、それが、ルールだったから。

 しかし。

 ひょいとそれを掴み取られて、思わずぽかんとする、ジリアン。

 渋い顔で背後を通り過ぎたヒューが奪ったものかと目を瞬けば、たった今まで自分の手にあったそれは、ミナミの細い指に包まれている。

「というか、今のは卑怯だぞ、ミナミ!」

 聞こえない。というジェスチャーなのだろう、手にしていた手帳をすかさずくわえて、両耳を塞ぐミナミ。

 わぁわぁきゃぁきゃぁと騒ぎながら廊下へ消えた一団を呆然と見送ってから、ジリアンがふと口元を綻ばせる。

「やっぱり、ガリュー班長って怖いなぁ…」

「…? どこがです?」

 室長室に戻ろうとドアノブに手を置いたままクラバインは、ジリアンの漏らした独り言みたいなそれに、思わず問いかけてしまった。

 いや、色んな意味で本当に怖いというか、恐ろしいというか、それは、判るのだが。

「だって室長、今までアイリー次長を外と隔ててたのは、つまり、ガリュー班長ですよね?」

 タマリの言った「視界を覆っていたもの」とは。

「それが消えて視界が開けたから、逆に、アイリー次長はあんな風になるって判っても、陛下やミラキ副長に触らなくちゃなかったんですよね?」

 見えたから。知ったから。そして、自分がしなければならなかったから。

「でも、アイリー次長はいっときだって、ガリュー班長を「忘れてる」訳じゃないですよね」

 それどころか。

「…………………ああ…。なるほどね」

 ようやくジリアンの言いたい事を理解して、クラバインは溜め息みたいに呟いた。

「これだけ周りが良く見えるようになったから、余計に、足りないものが…目立つのか」

 確かに、それは怖いな。とクラバインも思う。

 もしそれをハルヴァイトが見越していたのだとしたら…。

「最悪、と言いますか…」

 ミナミが本当に壊れてしまう日は、きっと来る。

 あの硬い殻を壊すのは、きっと、あの悪魔に違いないとクラバインは、少しだけ笑った。

  

   
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