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    9.アザーワールド オペレーション    
       
(6)

            

               

 早朝、ミナミの持つ携帯通信端末に入った短い文字通信。

 彼は無表情にそれを見つめ、溜め息も吐かず、ただ見つめ、内容を確認するとすぐにそれを消去(デリート)して、端末を制服の懐にしまった。

 アドオル・ウインという男の顔に、覚えはない。

 でも、間違いなくあれが…。

「議事堂の天使」

 そうミナミに囁きかけたのは、言い続けたのは、恨んだのは、憎んだのは、その全部を合わせても足りないほど愛していると啜り泣いたのは、後にも先にもたったひとりだけだった。

 最初の男。

 記憶にない顔。

 顔のない男。

 しかし、唯一ミナミを「名前のないもの」とは思っていなかった男。

 ミナミは部屋の中央に突っ立ったまま、その時が来るのをじっと待ち続けた。

         

       

 その日の朝。

 珍しくミナミは、衛視の制服を着て登城すると言った。

「? 休暇はもうお終いなんですか? 身体の方は、大丈夫そうに見えますが…」

 別に行かなくてもいいのに。といいたげなハルヴァイトの顔に、ミナミは薄く笑って答えた。

「いんだよ。休暇なんてほんとは…アンタが家に居るから、俺も居ようと思っただけだし」

「…………………。具合悪いんですか?」

 まさかそんな答えが返って来ると思っていなかったハルヴァイトが、瞬きもしないでミナミを見つめる。

「どこも悪くねぇし、いたって…正気」

 言いながら、腕のクロノグラフに視線を落す。

「じゃぁ今のはあからさまに喜ぶ所?」

「ううん」

 囁いて俯き、ミナミは首を横に振った。

 途端、なぜかこんな時間なのに玄関の呼び鈴が鳴る。それに驚いて振り返ろうとしたハルヴァイトを引き停めるように、彼は淡々と言葉を続けた。

「失望するトコだよ」

「?」

 呼び鈴は一回。それでいきなり玄関が開け放たれ、なぜかどやどやと数人が屋内に踏み込んで来る気配。ハルヴァイトにはその雑音も、ミナミの言葉の意味も判らなくて、ただリビングの出入口に背を向けたまま、不吉な予感に凝り固まった。

 ミナミが、顔を上げたのだ、その瞬間。

 いつもはどこか胡乱な、それでいて静謐な観察者のダークブルーに、まるで澄み切った深海に光を吸い込んでしまったかのような青白い光が射し込む。

「王都警備軍電脳魔導師隊第七小隊隊長ハルヴァイト・ガリュー。お前を、ヘイルハム・ロッソー殺害の容疑により、ウォラート・ウォルステイン・ファイランW世及び王下特務衛視団準長官ミナミ・アイリーの命令によって、即時拘束、連行する」

 背後から、固い声。同時に両腕を衛視に取り押さえられ、ハルヴァイトは反射的にそれを振り払おうとした。

「抵抗するな、ハル。…ぼくは、お前を床に這わせるのを躊躇しないよ」

 それに、はっとして振り返ったハルヴァイトを冷たく見つめていたのは、漆黒の衛視服に身を包んだ…レジーナ・イエイガーだった。

「……………レジー…」

 呆然とした呟きから目を逸らし、衛視に手で指示してハルヴァイトの両手を特注の手錠で拘束させたレジーナは、ミナミに視線を据えて小さく会釈した。

「王下特務衛視団準長官ミナミ・アイリーには、陛下より貴族院臨時議会へ出頭命令が下されました。議会は、五年前の次長殺害未遂の殺人示唆容疑者として、本日、アドオル・ウイン卿の喚問を行う事を決定し、次長の証言を求めています。告訴人、ミナミ・アイリーとして、ご同行願えますでしょうか」

 ミナミは告げられた内容に頷き、踵を返したレジーナの後に着いて、歩き出した。

「…ミナミ、それは……………一体、どういう事だ」

 黙り込んでレジーナの宣告を聞いていたハルヴァイトが、直前を行き過ぎようとしたミナミの横顔にそう吐きつけるなり、ミナミがあの冷え切ったダークブルーの双眸でハルヴァイトを見上げる。

        

 俺には俺の生れた「罪」があり、それに縛られたくないから、もう行こうと思う。

 きっと俺は今から大勢の人の前で、あの小さな部屋になぜ閉じ込められたのか、どうして惨めに、人形か何かのように慮辱し続けられたのか、それを披露されて、そういう風に最初から決まっていたのだと幽霊でも見るような目つきで見られると思う。

 でも俺はそれをどうとも思わないけど、…ハルヴァイトが…、そういう俺をただ側に置いておくという事を純粋に「護ってくれているのだ」と判ってくれない腐った連中に、あなたが、まるで俺を人とも思わず床に這わせた連中と同じだと思われるのは我慢がならないから、俺はどうしようもなく壊れたまま、…行こうと思う。

 一年で俺は、たくさんの人に出会ったし、親切にして貰ったし、あなたを振り回しもしたけど、あの部屋を出て必死になって生きてきた中で、一番幸せだった。

 どうぞ、あなたは、あなたに関わる全ての人を許してやってください。

 これは全て俺の我侭で、本当に、誰も悪くないんだから。

 どうぞ、俺が愛したファイランを、護ってあげてください。

 俺は、あなたの居るこの場所に、どんなに冷たくされても、虐げられても、憎む事さえ出来そうにないから。

 最後まで勝手な事ばかりで、ごめん。

 ひとつしかない約束さえ守れなくて、ごめん。

 でも俺は、あなたが護ろうとするこの都市がもう少し平和でいてくれて、ここに住む人がもう少し幸せになってくれるために、俺でなくあなたがきっと…傷付いてしまうと判っているけど、もう、行きます。

 本当に、ありがとう。

 それから……………。

         

 ミナミはハルヴァイトを見つめたまま、たった一言、本当に言いたい事を避けて、一言だけ呟く。

       

「さよなら」

     

 震える薄い唇から吐息のように漏れたそれを耳にした時、ハルヴァイトは瞬きするのを、やめた。

 彼はその瞬間――――――――――――。

  

   
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