番外編-3- リミット/ライン |
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ドレイクにお前ひとりで大丈夫かと問われたとき、実の所わたしは、何を指して彼がそう言ってきたのか判らなかった。 まだ新しい、運び込まれた荷物も整っていない執務室。身体に馴染んでいない黒い制服の落ち着きが悪い事。思いの他狭い空間に並んだデスクが邪魔な事。魔導師隊の執務室にあったものより心持ち小さめの応接セット。アリスのデスクを囲んだ見慣れないオペレーションシステム。指示を仰ぎにやって来て居付いたギイル。 それらを考え直し、見回し、それからようやく自分の手の中にある「アドオル・ウイン」に視線を落としてわたしは、「ああ」と気の抜けた答えをドレイクに返した。 「大丈夫でしょう?」 彼の質問に対するものとしてその答えは明らかに不適切だろうが、そんな事はどうでもいい。大丈夫か、と問われたわたしの返す答えは「適切」なものであるよりも、わたしらしく答えにすらなっていないくらいが丁度いいはずだ。 だからといって別に。 といつものようにくだらない「思考」を脳内で固定したまま、わたしは「昼には戻ります。報告と確認はその後に纏めて」と言い残し、呆れたような苦笑いのアリスに微笑んで見せてから、電脳班執務室のドアをくぐった。執務室は王下特務衛視団執務室内部に置かれていたから、必然的に、わたしは一旦特務室へ顔を出す事になる。 だからといって別に、ドレイクを含む周囲の人間がわたしに、「全く意味のない質疑応答」を望んでいる訳ではないと判っている。子供の頃に比べれば劇的に聞き分けも物分りも良くなったわたしには、その質問がわたしを案じたものだとも、判っているのだから。 手にしていた臨界式ディスクを長上着のポケットに入れたのは、別に意味のある行動ではなかった。強いて言うならば、フルサイズロムを三枚収めても余裕のあるポケットが上着に備え付けてあるのだから持って歩く必要はない、程度だろうか。 ロムをポケットに入れながら後ろ手にドアを閉ざし、微妙に空気の緊張した特務室内には目もくれず、廊下へ続くドアへと爪先を向ける。別段ここに用事はないので、デスクに着いて顔を伏せている衛視たちには声をかけず、スルー。 伸ばしかけた指先が届く直前にドアノブが勝手に遠ざかり、わたしは足を止めた。 廊下にはなんの気配も足音もない。視覚情報を空間情報に切り換え数列分解すれば、なぜ自動でないはずのドアが勝手に開閉しようとするのかすぐに判るだろうが、そもそもそんな真似をしなくとも、外の気配が読めないという事実だけで、ドアの外に居るのが誰なのかは一目瞭然だろう。 「ああ、すまない。居たのか」 戸惑いなく開け放たれたドアの外に立っていた銀髪の男、ヒュー・スレイサーが微かに目を眇めて笑みのようなものを浮かべ、呟く。居たのかと言われれば居たと答えるだけなので、わたしは小さく肩を竦めて彼の言葉を肯定し、一歩ドアの横へと退去した。 どこから戻って来たのかなどというありきたりの疑問も浮かばない。彼は常に職務に忠実であり、そして、このセクションにおいての忙しさは一、二を争う。だから彼はなんらかの任務行動で室外にいたのだろうし、その任務を終えたか、一旦ここに戻る必要が出来たから戻って来ただけなのだろう。 どうでもいい、というほど無関係ではなくなってしまったが、基本的に、ヒュー・スレイサーの行動は彼のものであり、わたしには関係ない。 無言で退けたわたしに小さく会釈して、彼は執務室へ踏み込んだ。普通の人間ならばこのわたしの、無関心または投げやりに見える反応に対し不快な表情のひとつも浮かべていいはずだろうが、彼はそんな無駄を犯しはしなかった。 ヒュー・スレイサーは、わたしの知る誰よりも受け止めて理解し、見過ごす、または納得するのに長けていた。彼はとても我侭で自尊心が高く、自己中心的だとわたしは分析する。しかしその「我侭」も「自尊心」も「自己中心的思考」も、ヒュー・スレイサーという人間の根底に叩き込まれた「護るために戦うもの」という「志(こころざし)」を歪めないために鎧っているように思えて、それが。 どこかしらわたしと似ているように思えて。 頑なではないまでも、知らずに打ち解けるのを避けていた。 正直、そう気付いたときには愕然とした。この一年半近い間には、幾度となく感じた自らの劇的な内情の変化に驚かされたものだが。 果たして数年前であったなら、わたしはヒュー・スレイサーと自分を「どこか似ている」などと思えただろうか。自分を誰かと同じレベルで考える日が来るとは、夢にも思っていなかった。 律儀にも会釈して通り過ぎたヒュー・スレイサーの態度が少し可笑しかったのだろう、わたしの口元が微かに歪んだ。不愉快ではないその気持ちが、逆に居心地悪いくらいだった。 「…機嫌がいいな。だが、お前がにやにやしてると薄気味悪いから、もうちょっと仏頂面でいろ。部下が怯える」 別ににこりともせず、こちらに顔も向けずに素っ気無く言い放った涼しい横顔に視線を流したわたしがどんな表情をしていたのか、ヒュー・スレイサーの後に立っていた儚い気配がふっと笑う。 癖の強い金髪と透き通った緑色の双眸。誰かに似た中肉中背の平均的な立ち姿に顔を向ければ、彼はついに堪え切れないような小さな笑いを漏らした。 ルードリッヒ・エスコー。 怯える部下が彼でないというのは明白で、わたしは小さく首を傾げた。 「うちの班長は、本当、凄いですよね、ガリュー班長?」 見知った青年が掴み所のない笑顔を満面に浮かべて小首を傾げ返して来る。その意味が判るようで判らないわたしは、意味もなく「はぁ」と生返事を返した。 「ガリュー班長の機嫌の良し悪しが空気で判るのは、アイリー次長くらいのものだと思ってましたよ、ぼくは」 言って、にこり、と取って付けたような笑みを浮かべ直してから軽く会釈し目前を通り過ぎる、ルードリッヒ。始めて会ったのはいつだったか、数年前ではあるのだが、それ以来今日まで、わたしの記憶にある彼の表情のほとんどは、あの意味のない笑顔だった。 彼の笑顔には意味がない。これもまた鎧であって、本来の笑顔ではない。それはエスト卿と似ているようにも思えるが、本当は、フロイラインの笑顔を複製(コピー)したものだ。 真実を隠すための笑顔。辛い現実を滲ませないための笑顔。しかし、そう成りきれない苛立ちを隠さない笑顔。 そうですか? と、こちらは曖昧な薄笑みで答え、わたしはようやく特務室から廊下へ出た。その頃になるとヒュー・スレイサーの言葉の意味も、ルードリッヒの意味のない笑顔も、どうでもよくなっている。 しかし、人間は連続した思考を持つ生物だとわたしはうんざりと思う。こころを空っぽにして何も考えず、自分を解放して休ませてやろうと思う時、実は、「こころを空っぽにして何も考えず自分を解放して休ませてやろう」という思考にわざと囚われているのであって、本当に何も考えていないのではない。 考えない。それは、無理だ。 正常に生き、正常に暮らし、正常に人間であろうとするならば、それは夢のような話だ。 結局人間は考えて行動する生き物なのだから、仕方がない。仕方がないから、わたしも思考する事をやめない。 残念ながら、「正常」とほど遠い回路を組み込まれたわたし自身は、思考を「故意に止める」事が出来たし、ある時まではその「思考しない」というのがわたしの時間の大半でさえあった。 ただし、それはとてつもなく脳に負荷を掛ける。 それに気付かなかったわたしは、人間という生き物でさえなかったのだろう。 考える事で自分を戒める必要があると、その時わたしは気付いた。それ以来わたしはただひたすらに考え、無関心に「それで?」とリピートするためのコマンドを思考する脳に返し、また、繰り返し考える。 灯りを抑えた廊下を歩きながら、わたしは考える。以前冗談で思考する事柄のカウントを取ってみようと思い立ち、それから数ヶ月経つのだが、新たに思い浮かんだ「それ」についてわたしが考える回数がここ最近飛躍的に多いのに、ちょっと呆れた。 ルードリッヒの笑顔を見ていると、必ずといっていい程連鎖的に思い出されるのは、タマリのあの、空洞の表面を覆った完全無欠の笑顔。 彼の笑顔には隙がない。隙どころか、何もないのだが。あれはわたしでさえ感心せざるを得ないほど完璧に、彼の全てを覆い尽くしている。 喜びも悲しみも同情も侮蔑もない。 何も嘆いていないし何も後悔していないし何も望んでいない。 わたしはわたしを不幸だと思う事などないし、この先もそう思えないだろうし、最近はちょっと幸せな気持ちになったりなどしているが、そもそも、自分にはあまり関心がない。それで周囲にも関心が薄く、繰り返される思考は氾濫する情報と別次元から侵食して来ようとする文字列を抑えるためだけに脳内でループしているのだから、素っ気無いとか無愛想とか仏頂面だとか言われて然るべきだが、あそこまで完璧に喜怒哀楽を持ち合わせていながらその全てを「笑顔」で凍らせたタマリには、舌を巻いてもいい。 彼の笑顔は悲壮だ。 頑な過ぎるこころの現れでもある。 時々思う。怒りにまでは達しないが、冷笑程度ならば浮かぶ。今のわたしであればタマリのために怒ってやる事も出来るかもしれないが、それは正直面倒だ。 彼を知る大抵の人間は、タマリを「頭が悪くてやかましい厄介もの」のように言う。確かに、小柄で華奢で少女のような顔立ちを強調するかのように振る舞い、良いも悪いもなく思った事を口にして笑ってばかりいるあの姿を見れば、そう思うのは容易いだろう。 非常階段を使って本丸一階まで降り、正面大扉ではなく他の施設へ繋がる内部通路方向へと顔を向ける。そこでわたしは一旦タマリに関する思考を停止し、城内地図を脳内に展開して行く先の確認をしてみた。 「…………」 遠いな。殆ど隔離状態じゃないか。 率直な感想と微かな溜め息を吐いて、歩みを再開する。時折すれ違う衛視が仄かな笑顔で会釈して来るのに軽く頷きながら、あれは誰だろうと思う。深紅の腕章も鮮やかな、わたしと同じ黒い長上着。だとしたら特務室の衛視で、近衛兵じゃないのか、と面倒な嘆息を内心で吐き、今度特務室の人員データを管理システムからダウンロードして、識別記号を振ってみようなどと考える。 「…………………」 そこでわたしは、またちょっと可笑しくなった。そうじゃないだろう、と自分に言い聞かせ、…、そこで思い出しかけた名前は意図的に脳から追い出す。 内部通路はそう広くなく、窓がないために天蓋越しの陽光も射し込まず、ひどくひんやりしていた。これから際限なく一日一往復以上ここを通るのかと思ったのは単なる確認で、それについての感想はない。 タマリに関する思考を再開する。一時停止を解除するのと同じ事だ。 タマリは、自分の容姿に見合う「タマリ・タマリ」を完璧に作り上げ、演じ切っている。彼は彼を憐れんでいない。彼は彼を救いたいとも思っていない。 彼の境遇は、わたしと似ているようで、似ていない。 彼は生かされてしまった。わたしは救われてしまった。彼は傷付いた。わたしは落胆した。彼は全てを生きようと決心し。わたしは全てから逃げ出そうと思った。 どちらが強いのか、それは明白だ。 だから、タマリを口汚くこき下ろす連中を見ると可笑しくなる。別に言って利かせるつもりなどないが、暢気なものだと思う。 果たして誰に出来るのか。冷静に考えて見た目に見合う自分を作り上げ、その幻影を固定し続ける事が。 それになんの意味と利点があるのかわたしには判らなかったが、タマリにとってはとても重要らしく、彼は、わたしがそうだと気付いていると知りながらも未だそのスタイルを崩していない。 大抵の人が無意識に思い浮かべる「タマリ・タマリ」を正確に再現し意味もなく、何もなく、笑ってばかりの彼は。 ただし、そのスタイルがタマリの望む通り最期まで貫き通されるのかどうか、わたしには予想出来ない。 薄暗い廊下を、城の敷地外れに近い、今は使用されていない旧式のシステムを保管している倉庫方面へと進みながら、思う。 人は結局、弱い生き物だと。 孤独で身は護れないと。 結局。 わたしは無人の廊下を歩きながら、長上着のポケットから臨界式ディスクを取り出した。 この男の事を理解したいとはこれっぽっちも思わないが、感覚として、まったく道の領域に存在しているエイリアンだとも思えない。…この男からしたら、わたしの方は完全に別の世界の名もない生き物なのかもしれないが。 アドオル・ウインがわたしを罠に嵌めようとしたのは、なぜだった。 あの男がイルシュを使って「noise」騒ぎを起したのは、なぜだった。 結局あの男が自ら城に赴き正体を明かしたのは、なぜだった。 欲しいのもが欲しかっただけだ。 彼は言った。 「…これは、愛だ」 それが理解出来ない。したくもない。 ついつい溜め息が漏れる。なんだか最近のわたしはどうも…情緒不安定だな。 と思った途端に、足元を仄かに照らしていた非常灯が激しく明滅し、弾けた。 薄い硝子片が、壁から吹き出すかのように廊下へ散らばり、暗くなった足元を激しい火花が照らす。何もしないうちから物損被害を出すとは、予想外だった。 仕方がないので足を止め、ちょっとだけ考える。ロムを再度ポケットに突っ込んで腕を組んだわたしは、火花とか弱い騒音を撒き散らす非常灯の残骸を見下ろした。 証拠隠滅が妥当か。というか、それ以外の選択肢が思い浮かばない。 メンタル的にプラスかマイナスか、というくだらない附加選択については、二秒ほど悩んだ。我ながら今日はおおらかな気持ちだと自覚したのは、二秒もそんなどうでもいい事柄を悩んだのと、じゃぁ前向きに対処するという事で、と決着したからかもしれない。 急ぎの任務を抱えている訳でもないし、ここで多少時間を食っても問題ないだろう、というのも、理由だったのか。 だからわたしは煩く火花を散らしながらじりじりと喚き立てる非常灯から数歩離れて、どこか地下道のような印象のある内部通路の壁に背中を預けた。 破損した非常灯への電力のみを一時カット。配線経路上に割り込ませた伝導体プログラムを使って、電流を迂回させる手法を選択。どうせなら内部通路の電力供給を全部カットしてしまえば簡単だろうが、証拠隠滅という後ろめたい行動を取る人間は、多分、そんな派手な行動は取らないだろうから、面倒でも、他の設備に影響の出ない方法を選択する。 正面足元で瞬いていた火花が急に姿を消し、しかし、それ以外の非常灯や天上に設えられている電灯は相変らず暗く朧な灯りで廊下を照らしていた。そういえば、「光」という記号だけが臨界に存在しないのはなぜだろうと思ったが、思っただけで、それ以上突き詰めて考える気は起きなかった。 「非常灯」という現実面における「物質の集合」を分解。構成するために必要な要素数と物質数が許容範囲内にある事を確認して、一旦、砕けた非常灯の部品を「文字列非構築状態で臨界側」へ収納する。 半壊した非常灯を中心にした青緑色の電脳陣が、壁から床へと途中から直角に折れ曲がりつつも回転する。電脳陣が存在しているのは臨界であり、現実面で観測出来る電脳陣は臨界から漏れてくる残光でしかないのだと思い知るのは、こんな風に、影絵のごとく自在に変形する陣を見るときだけだった。 数字と。 文字と。 記号と。 懐かしい訳ではない。 慣れ親しんだものである事に変わりはない。 「……………」 臨界に駐屯していた文字列が整然と並び、「非常灯」という設備がゆっくりと現実面に構築されるのを見ながら、わたしは小さく笑った。 数字と。文字と。記号と。 そういうものでこの世を作り上げるだけのわたしが何であったのか、今となってはもう思い出すことも出来ない。 結局、わたしも「人間」だった。だから、息継ぎしない文字列に囲まれて孤独で鎧っている事が出来なくなった。いつの間にか。「ドレイク」という記号が、「アリス」という記号が、「アン」という記号が、「デリラ」という記号が。その他の、わたしに関わる記号たちが自らの意思を持ち好き勝手に動き出すまで相当な時間と紆余曲折を要したとしても、結局わたしは、それらから身を隠し続ける事が出来なかった。 無関係を装い。無関心に生きるのは。不可能。 きっかけはなんだろうか。 破損した非常灯が回転する電脳陣の中で徐々に朧な姿を取り戻し始める。明らかな文字列が固定されて進行しない存在を再構築するのは、時間的にスキップしても構わない単純作業だったが、わたしはわざとのように順序良く、ゆっくりと作業を進める。 雑な仕上がりで傍の目を誤魔化すのは容易いけれど、それでは、証拠隠滅の意味がない。 わたしがわたしを「人間」だったと思い出すきっかけは幾つもあっただろうから、自覚するのは面倒だった。とにかく、あれだ。とそれについてはどうしようもなく投げやりで乱暴な答えを出そうとする自分が、少し可笑しい。 所詮わたしは、目の前で再構築されて破損前と変わらぬ形状を保つ「非常灯」のように簡単な物質の塊ではなかった。自分が思うよりも複雑な「造り」に正直面食らったりもしたが、よく考えればそれは当然の事であり、驚くべきではない。 そういう事でしょう? と誰も答えない問いをその場に取り残し、わたしは迂回させていた通電を正常に回復させて、また薄暗い廊下を歩き出した。 何が。 誰が。 どれがきっかけでも、構わない。 長上着のポケットに忍ばせた同行者は今、臨界という牢獄で何を考えているのだろうか。 それも、どうでもいい。 背後で小さな光がぱちぱちと瞬きし、壊れたはずの非常灯が弱々しく足元を照らした。 ひとりで何もかも解決する事は出来ない。 この簡単でありきたりな答えを出すまで、わたしはどれいくらい遠回りしたのか。 そしてわたしはこの答えを、「あれから」何百回思い浮かべ、納得したのか。 それもどうでもよかった。きっとわたしは明日…、もしかしたら数時間の後には、また同じように同じ思考を繰り返し、その答えを確認するだろう。 くだらないほど愚かなわたしは。 随分人間みたいになったものだ。
そういえば今日はあの恋人の顔を見ていないなと、わたしは、今日始めて思った。
2004/07/15(2004/08/03) goro
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