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番外編-8- 平和的同時多発恋愛事件

   
         
(2)メリル・ルー・ダイ

     

 転がるような勢いで人工林の中にあるオープン・カフェに飛び込んで来た漆黒の長上着が、華奢なガーデンチェアにタックルして、ようやく停まる。

「そんなに慌てなくても…」

「待たせてごめんなさい、メリルにーさん」

 ラウンドした背凭れに掴まって息を切らせていた少年、アン・ルー・ダイの顔を覗き込んだ、待ち合わせていたらしい兄、電脳魔導師隊第九小隊事務官メリル・ルー・ダイがおどおどと口を開くと、アンはようやく顔を上げてにこりと微笑み、椅子を引いてそれに腰を下ろした。

 色の薄い金髪に冬の晴天を思わせる水色の双眸の弟を間近で見つめ、メリルは改めて居住まいを正した。そう、頭では判っているし、何度も遠目に確認したりもしていたが、実は、ルー・ダイ家の次男が弟魔導師の制服姿を極近くで見たのは、これが初めてだったのだ。

 漆黒の長上着と艶消しした長靴に、真紅のベルト。左腕に掲げられた腕章には、ファイラン王家の紋章と電脳班を示す文字が刺繍されている。

「―――意外と、似合ってる」

「はい?」

 何を言われたのか判らなかったアンが、電脳魔導師隊事務官の鮮やかなブルーの制服を着込んだ兄を不思議そうに見返す。薄い金色の巻き毛と紫がかった青い目と、他人にとやかく言える立場ではないが、いつまで経っても二十歳そこそこにしか見えない(実はメリルは、キャロンと大差ない年齢なのだが)顔を、無言で凝視してしまった。

「それだよ、その、制服」

 細い指先でぴしと指差されて、アンはなんとなく自分の胸元に広げた手を押し付けた。それから少し考えて、ああ! とようやく何かに気付き、ちょっと照れた顔で色の薄い金髪を掻く。

「特務室の制服は完全オーダーメイドなんで、身体にしっくり来るようになってるんですよ。だから、ぼくでも借り物みたいにならなくて…」

 本気で制服が「身体に合っているかどうか」だと思ったのだろうアンが、袖の太さもぴったり、と言いながら腕を上げてみせるなり、メリルは堪えきれずに吹き出した。兄が言いたいのはそういう事ではなく、少年そのものが、黒い制服を着て魔導師の腕章を付けても違和感がないという意味だったのだが。

 健やか過ぎるというか、天然過ぎるというか。

「なんでそこで笑うの!」

 丸めた背中を震わせているメリルを一瞬きょとんと見つめてから、アンはテーブルにしがみ付いて抗議した。自分の言動の何がそんなにおかしいのか、少年には全く見当が付いていないのだ。

 しかし、それには答えずひたすら笑い転げているメリルから拗ねた顔を背けて、アンは傍を行き過ぎようとしていたウエイターを呼び止め、ランチセットを二つ頼んだ。かしこまりましたと微笑んで会釈した黒いベストの青年ににこりと笑みを返し、しかし、未だ笑み崩れたままの兄に顔を向け直す頃にはそれも消えている。

「もー。待たせて退屈させたのは申し訳なかったけど、そんなに笑わなくてもいいじゃないかー」

 弟の拗ねた顔にごめんと謝りつつ、メリルは安心している自分に気付く。

 少年は、こういう顔も出来るのだ。そしてそれを…あの日まで兄らしい事など一度もしなかったメリルに、見せてくれるようになった。

「―――ごめんね、アン」

 もう一度、色んな意味を込めてメリルが呟く。

 アン少年は、何の衒いもなくにこりと微笑んだ。

        

        

 バターロール、ブラックペッパー味とレモンハーブ味のソーセージ、シェル型マカロニの入ったミネストローネ、それから、食後にはコーヒーとフルーツの盛り合わせ。それが今日のランチで、足りないと思えば追加でバイキングを注文しカウンターに並んでいる中から好きなものをチョイスするのが、オープンカフェで摂る昼食のスタンダードスタイルだった。

「たまに、バイキングに並ぶだろ? あれ…酢豚」

「あー。あれ、ぼく好き」

 バターロールを千切りながらメリルが言うと、ミネストローネを啜っていたアンが頷く。雑多に並ぶバイキングメニューに特筆すべき点は殆どないが、中には利用者から非常に評判のいいものも幾つかあった。

「食べたいなって…思う時もあるんだ」

 苦笑交じりに言うメリルは胃腸が弱く、アンより小食だ。

「でもさ、追加料金払うほど、量は食べられないよ」

「あー。なるほど」

 メリルが行儀悪くフォークの先で示したバイキングカウンターに視線を流し、アンは納得した。

 丁度お昼時だからか、今日もカウンターの手前は兵士やら近衛兵やら技師やらで賑わっている。ランチの量が少ないとアンなどは思わないが、時折一緒になるギイルなどは必ず追加注文しているし、デリラもどちらかと言えばよく食べる。

「アンは、たまに頼むんだ」

 バイキングの事を指しているのだろうメリルの、ちょっと意外そうな声に正面を向き直したアン少年は、てへへと笑いながら肩を竦めた。

「いや、美味しそうなものがある時だけ、誰かのヤツつまみ食いで」

 ソーセージの付け合せになっている生野菜をフォークでつつく、アン。

「大抵はデリ…コルソン砲撃手ね、が一緒なんで、ちょっと分けて貰ったり、アリス事務官と二人で一人分頼んで、美味しそうなトコだけ少しずつとか、キース部隊長が一緒の時は必ず頼んでるから、少し食べさせて貰ったりとか…」

 そこで言葉を切ったアン少年の表情が、一瞬不可解に曇る。

「…ランチ自体は必要ないから、バイキングだけ頼んでくれとか言う我侭な人がいたり、とか」

 言われて、メリルはきょとんと目を見開いた。

「バイキングって、ランチ注文しないと頼めないんだからしょうがないけど、その人は…」

 もしかして好き嫌いが激し過ぎて、ランチに食べられるものがないとかそういう理由なのだろうか、とメリルが首を捻る。

「ランチでさえ多過ぎだって。だから、バイキングのライスを少しと二品くらい料理があって、あとフルーツも少し、とか、そのくらいしか食べない」

「それは随分小食だね」

 色の薄い兄はそれでなんとなく、陛下のお傍に寄り添っている金髪の衛視を思い出した。背が特別低い訳ではないけれど、ほっそりとしていて綺麗な人。メリルにさえ小食だと思わせるくらいだから、きっと彼なのだろうと。

 しかし。

「元々小食らしいけど、職務中は特にハラに半分入ればいいって、下手すると、普段食べないカロリーの高い甘いものだけとかで済まそうとするんだよ、身体に悪いからやめた方がいいですよって言ってるのに!」

 アンはフォークを握り締め、なぜか、メリルを睨んだ。

「ぼくの言う事なんか、ちっとも聞いてないんだから!」

 一人白熱しているアンを呆然と見つめ、メリルは内心不安になった。

 珍しく感情も露な弟に、果たして…人生相談などしてもいいのだろうか?

 しかし、他にこんな話しを気軽に繰り出せる相手もいない。

 兄の葛藤など知る由もなく、アンは何か支離滅裂な不満(?)をぶつぶつと口の中で繰り返しながら昼食を済ませ、なんとかそれに追いついたメリルがトレイを返してコーヒーとデザートを受け取った頃には、一応、冷静になっているようだった。

 では、さて、この話題をどう切り出せばいいのか。

 メリルはまた悩んだ。

 急に難しい顔で押し黙った兄を見つめ、アン少年がふと首を傾げる。

「ところでにーさん、ぼくに何か用事あったんじゃないの?」

「え!?」

 いきなりの直球に肩を跳ね上げたメリルが、あたふたと顔を上げたり下げたり蒼くなったり赤くなったりするのをぽかんと見つめる、アンの水色。

 天蓋の向こうには突き抜けた青空が広がり、騒がしい昼食時も落ち着きを取り戻し始めた、人工林の只中。友人らしい数人のグループが和やかにテーブルを囲んでいるオープンカフェには他に、一人黙々と読書にふける者や、明らかに恋人同士と思われるカップルなどもちらほらと目に付いた。

 その中に混ざり込んだ、色の薄い小柄な兄弟の間に、奇妙な静寂が漂う。

「―――あのね」

 何の飾り気もない白いカップの縁に指を置いたメリルが消え入りそうに呟いて、アンは先を促すようににこりと微笑んだ。

 ゆっくと、深呼吸。メリルはきっぱりと顔を上げて弟を見つめ、ぽつりと一言漏らした。

         

「スキだって、言われた」

       

 多分その一言が、忙しさの余り遠くへ蹴飛ばされていた様々な「事件」の発端になろうとは、まさかアンもメリルも想像していなかっただろう。

 数多の人の暮らす真円の世界。

 複雑に絡み合った日常。

 少し前、都市の基盤を引っくり返す勢いで発生した「あの未曾有の災害」が向き合った天使と悪魔の愛の囁きだったように、ささやかながら、ここでもまた当たり前に運命は回り始める。

 いっときの。

 継続の発端になるかならないか。

「事件」は、密かに開始する。

  

   
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