記憶の中の他人    
       
   

  

 鷹司半兵衛という名の男がいる。今時廃れ気味のソフトリーゼントに高級なダークスーツを着込んだ、朝から晩まで色の濃いサングラスを外した事のない、私立探偵で相棒がビーグル犬で助手が金髪高校生の、どこを取っても怪しいとしか言いようのない男。

 その、どこか飢えた肉食獣を思わせる気配を纏った半兵衛は、夜更けを待って、駅前のアーケードへと向かう。

 朱色の鳥居、稲荷は商売の神様。その門前には、気紛れな辻占売りが小さな小さな店を張る。テーブルと丸椅子が二脚の、店と言うには頼りなさ過ぎるのだが。

 蜥蜴野散歩道という名の男がいる。色の薄い長い髪を背の中程まで垂らし、円筒形の帽子と同色の着物を優雅に着た姿は、その顔立ちと同じに一目で男だと判断するのは難しい。

 一見して、彼を彼だと見極めるのは、難しい。

 朧な、その人。

  

  

 その日も、半兵衛は散歩の店じまいを待ちながら、一人、二人と遠ざかっていく客を眺めてしばらく過ごした。

 目に停まる。最後の客は、派手な化粧の女だった。

 女は直前の客が小さな丸椅子から離れるのを最後まで待たずに、いきなり散歩の顔をしげしげと覗き込んで、満面に笑みを浮かべた。

「清志郎君でしょ!」

 酔っているらしい、かなり張り上げたきんきら声に驚いて、散歩がきょとんと彼女を見上げる。

「やっぱりそうだ。ほら、あたし。高校の時同じクラスだった…」

 彼女は遠慮会釈なくどすんと丸椅子に腰を下ろし、テーブルに頬杖を突いて、懐かしそうにぺらぺらと喋り始めた。

 散歩が、不意に奇妙な表情をする。

 眉を寄せて唇をきゅっと噛み、戸惑っているような腹立たしいような顔で、所在なく、彼女から視線を逸らす。

 何がそんなにおかしいのかけらけら笑い出した女の背中を睨んだまま、半兵衛は寄りかかっていたアーケードの支柱を背中で突き放し、大股で二人に歩み寄った。

「悪いが、多分人違いだ」

 不機嫌そうな低い声に女がぎょっと振り返り、散歩は……。

 青ざめて震え、頼りなく、半兵衛に向かって細い両腕を伸ばした。

「? やだ…人違いなんかじゃ……」

「人違いだ。……帰って貰えないか」

 半兵衛は言いながら今の今まで外さなかったサングラスを外し、深紅の光を回す真っ黒な瞳で彼女をじろりと見下ろした。

「すまない」

 呆然とする女を振り返りもせず軽々と散歩を抱き上げ、半兵衛は足早にその場所から逃げ出した。

 数年前のあの事故より以前の散歩から、彼は、彼をさらって、逃げた。

  

  

 庵ではなく半兵衛の事務所兼自室に連れてこられても、散歩は彼の首に回した手を解こうとはしなかったし、半兵衛も無理にそれを引き離そうとしなかった。

 華奢だが決して小さくはない散歩をくっつけたままベッドに寝転がり、冷え切った肩を抱いて、しばらくじっと彼の様子を窺う。

「……彼女が話していたのは、誰の事でしょう」

 微かな呟きに、半兵衛は微かな溜め息で応えた。

「さぁな」

「彼女が知っていると言ったのは、誰のことですか?」

「……さぁな」

 ぎゅっとしがみついてくる散歩の背中を見つめ、流れる柔らかい髪を弄ぶ。

「私の半分? それとも…」

「さぁ」

 散歩が急に、半兵衛の肩を掴んで突き放すように身を起こす。睨んでくる瞳から視線を逸らさず、半兵衛は彼の眼鏡を指先に引っかけて取り上げ、無造作に放り出した。

 足下の辺りで、ぽすん、と小さな音。

「お前の半分。俺なら三分の一。それが今現在……数が合わない」

 溜め息混じりにそう吐き捨てる。面倒そうに。どうでもいいよと言いたげに。

 見下ろしてくる散歩の、ほつれて額にかかる髪をゆっくり撫で上げ、噛んだ唇に指先で軽く触れて、半兵衛はふと口元を歪め笑った。

「……ハラ減ったな」

 その呟きを耳にした途端、散歩が顔色を変え、半兵衛から身体を引き剥がそうとした。

「あ! うそ! ちょっと…! 半兵衛!! こんな時にどうして交代するんですか!」

 咄嗟に散歩の両手首を捉えた半兵衛は、彼をぐいっと引き寄せて掻き抱き、くすくす喉の奥で笑い出した。

「そんなに都合良くぽんぽん替わるか。腹が減ってるのは俺だ、俺」

「じゃぁほら! 何か美味しいモノでも食べに行けばいいじゃないですか!」

 じたばた暴れる散歩の細い腰に腕を回して上下を入れ替え、やや乱れた襟元にうきうきしながら彼をベッドに貼り付ける。

「そういやお前、この前の仕事の報酬、俺に払ってないだろ」

 その言葉を耳にするなり、ひくっ、と散歩の頬が引きつった。

「ツケが込んでるぜ、散歩先生。ここらで一つ、盛大に払っとかないか? 今後の為にも、な?」

 完全に押さえ込まれて、抵抗するのも無駄な努力だと察したのか、散歩が困ったように眉を寄せ暴れるのをやめる。

「………」

 本気じゃ無いくせに、と言いかけたが、どうも半兵衛のにやにや笑いがひどく気になった。

「知ってるか? 俺はおまえが思ってるより、ずっとドライな部分も持ってるぞ」

 だからつまり、感情的になりさえしなければ「大丈夫」と暗に含み、半兵衛は、追い打ちをかけるように付け足して笑った。

「おまけに、この部分は純然たる「ビジネス」だしな」

 言い置いて、慣れたウインク。

「折良く邪魔な犬猫も居ない!」

 散歩はその時心底、今日こたろを庵に置いて出たことを後悔した。

 楽しげに笑い続ける半兵衛の唇が頬に触れると、彼は観念したように、小さく溜め息を吐いてそっと目を閉じ……。

「邪魔な犬猫はいないんですけど、おじゃまな助手は健在ですよ、半兵衛さん」

 思い切り半兵衛を突き飛ばして、床に叩き落とした。

「タケ君!」

 飛び起きて乱れた裾を掻き寄せながら、散歩は狼狽えるように視線を揺らめかせた。健全な(多分)男子高校生に教育上あまりよろしくないところを見られたのと、思わず諦めそうになった自分が情けないやら恥ずかしいやら、といったところ。

 いつの間に入ってきたものか、秀武が金髪をがりがりかきながら、ふーん、と半眼でベッドの下に転がった半兵衛を見下ろす。

「タケ! お前、今日は家に帰る日じゃなかったのか!!」

 そのままの姿勢でぴっと指を突きつけられても一向に動じたふうなく、秀武が、なぜかおたまで半兵衛の額をごんと叩いた。

「だぁっ!」

「これは僕の話を聞いてなかったバツです、半兵衛さん。今月は爺ぃ急用のため、実家に帰る予定なーし! さっ、散歩先生、二人で美味いあんこう鍋でもいただきましょう」

 なぜ…あんこう鍋?

 踵を返した秀武に引きずられて部屋を出ながら、散歩は困ったように笑った。

 ふてくされたようにタバコをくゆらす半兵衛の黒い瞳の中で、深紅と紅蓮が、一瞬だけ明滅する。

 三分の一の半兵衛と、半分の自分。それはとてもややこしくて理解の範疇を越えた関係ではあるけれど、それでも、いいような気がした。

 今日のような偶然さえなければ、誰も散歩を見咎めたりはしない。出来ない。するはずもない。

 あの日から……散歩は、「彼」でなくなったのだから。

 「彼」は、とうにこの世を去ったのだから。

「散歩先生?」

 秀武に呼ばれて、散歩はようやく何かを思い出したような表情で彼を顧みた。

「なんですか? タケ君」

 繋いだままの手に視線を落とした秀武が、はにかんだ微笑みを口元に瞼を閉じる。

「いえ……、なんでもないです」

 掴んでいても、見えていても、いつも消えそうな希薄な気配。それに一抹の不安を覚えた秀武が散歩を呼んだとは、気付かない。

「さっ、冷めないうちにねっ」

 顔を上げた秀武の声に、散歩が微笑んで頷いた。

  

 唯一理(ことわり)から逸れていない彼の呼ぶ名前こそが、今の自分なのだと納得するように。

  

See you next!!!  20000823 sampo