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    バンビーナ狂詩曲    
       
5)

   

 どれかが動く。何かが動く。それは今日でなければタイミングが悪いし、今日でないならなーんにも動く必要なんかねぇよ。

 と。いつでも自信たっぷりの相棒が言えば、

 あんたの言う事間に受けるあたしもあたしだわ。せめてもの救いは、あんたの「予想」が今まで大外れした試しないってくらいかしら?

 と。いつもと同じに相棒は冷然と答える。

 所詮。

 平和ボケに浸っていられたのも、ニコルがバスターズにシュアラスタを訪ねて来てから、そのバスターズのオーナー・モルグに「シュアラスタ」と…ダメ出しされるまでのほんの一瞬。

 まぁどうせ、悪党なんてこんなものだ。今更悲観するほどでもないし、第一、チェスもシュアラスタも悲観などしていないのだし。

 何もかも判ってました。と言いたげなシュアラスタの薄笑いに、タリスは不覚にも、慌ててニコルの腕を掴み力任せに引っ張り寄せようとしてしまった。

「!」

 それに驚いた少女が琥珀色の瞳を大きく見開いてタリスを見上げる。その口元でくゆる細葉巻の、甘だるい喉に絡むような香りに得体の知れない恐怖を抱いて、ニコルは彼の手を振り払おうと闇雲にもがいた。

 青色の闇で陰影をつけた、見知らぬ男の脂ぎった顔。その向こうに仄白く見えるのは、最早冷たく見下して来るだけの元・愛しいひと。半円を描くようにして少女と男と青年を囲んだ、黒服の男たち。

「い……………、いやっ!」

 ニコルは空いている腕を突き出し、タリスを撥ね退けた。

 一瞬緩んだ腕を渾身の力で振り解いたニコルは、転がるようにして、木立の間から街道の中央に出てやる気なく紙巻き煙草をくゆらせているシュアラスタと、彼の右脇に突っ立ったままのチェスに向かって走る。

 ニコルは、判っている。

 誰もが「悪党」と罵る彼らこそ、市井の市民よりも「裏切り」を嫌う事を。

 領主の娘に生まれてしまったからこそ、判っていた。

 本当の所を白状しないまでも、彼らは…金貨さえ渡せば絶対に、裏切らないという事を。

 悲しいかな。

「そう」であり続けなければならないという…宿命? を。

 駆け寄って来るニコルを目だけで追っていたシュアラスタは、娘が無事自分とチェスの背後に回った所で視線をタリスに戻した。確かこいつ昼間の統治庁舎にもいたな、などと暢気に思い出しつつ、フィルター近くまで火の進んだ吸いさしを地面に吐き捨てて、また新しい紙巻きを唇に載せる。

「…貴様ら、何者だ……」

 忌々しげに絞り出された問いかけを、チェスが鼻で笑った。

「何もクソもないでしょう? こんな深夜に囲いの外に出ようってんなら、あんただってあたしたちを訪ねるわよ、きっと」

 湖面を渡る冷え切った微風にも似た、耳に痛いほど澄んだ声。それに含まれた嘲る笑いが不愉快で、ついに、タリスは領主の秘書という顔をかなぐり捨て、ぎゅっと眉を寄せた。

「悪党か…」

「あんたは悪人だけどな」

 間髪入れず答えた男の声に何か思い当たったのか、タリスが目だけをぎょろりと動かしシュアラスタの顔を凝視する。月明かりしかない街道でありながらその青白い光に浮かんだ嫌味な二枚目面に覚えがあったのか、タリスはほんの少し目を見開き、次には、自嘲気味の小さい笑いを細葉巻の間から滑り出させた。

「…とんだイレギュラーだな…。まさか、昼から監視されてたとはね…」

 はは、と力なく笑いながら、タリスが俯いて短い金髪を掻き毟る。

 ちなみに、昼間統治庁舎でシュアラスタがニコルとタリスに出会ったのは本当にただの偶然なのだが、偶然さえ自分の思い通りだったと相手に思い込ませて利用し尽くすのを常套手段のひとつに加えているシュアラスタは、タリスの呟きに涼しい顔で紫煙を吐き付けただけで、何も言い返そうとしなかった。

 そういう、男。自滅を誘う。綿密な計画を練るような相手に限って、こういうイレギュラーに対処出来ないものなのだ。

「判ったよ。降参するにはまだ早いけれどね。…ニコル。…それともフロウ・アキューズか? どっちでもいい…。そっちがその気なら…僕にも考えがある…」

 がっくりとうな垂れて虚ろに地面を見つめたまま、タリスが疲れ切ったように呟く。

「理想主義万歳だ。

 その理想を現実にするフロウ叔父さんも、万歳だ。

 その叔父さんを支えるエンローネ叔母さまも、

 華のように大切にされてまっすぐ育ったニコルも、万歳だ!」

 タリスは甲高い声でそう叫び、両手で顔を覆った。

「誰も信用出来ない理想主義なんて、クソ食らえ!」

「…まぁ、一応領主殿の肩を持つなら、フロウ・アキューズは鉄壁で、アンタは凡人だったってトコだろ」

「あら、あんたが領主誉めるなんて珍しいわね」

「珍しかねぇよ。鉄壁の理想主義。正体も定かでないそれを追いかけるために、目に見えて触れて納得出来るモンしか信用しない。それってつまり…」

「極めて悪党的」

 顔を見合わせて肩を竦め合う、美男美女。お互いを捉えた双眸が何を考えているのか、それは、間近にいたニコルでさえ判らなかった。

「…まだ、殺すなよ」

「どうかしらね。努力はするわ」

「じゃぁ、判った。お前が間違って誰かを「吊るす」前に、俺がお前を「逃がして」やるよ」

「ま、うれし」

 言い合って素っ気無く顔を背け、天を仰いでいるタリスに視線を戻す、悪党ども。

「さぁ、シナリオ換えと行こうや、小悪人のダンナ。俺達は、アンタがどこでウイリー・ハンスと知り合いになったのか、全部知ってるぜ」

 今度は挑発。

「後ろの方でちっちゃくなってるコワモテにーさんらの、正体もな」

 言ってシュアラスタは、くわえていた真新しい紙巻き煙草を指で弾いて、空中に飛ばした。

 弧を描く、朱色の軌跡。

「御大の目的はアキューズ領主区そのものか? ええ? 「朱(あけ)」のみなさん」

 シュアラスタの声が闇に溶け込み、紙巻き煙草が地面にはたりと叩きつけられた、刹那、ウイリーを囲んでいた男たちが一斉に…掻き消えた。

            

           

「だからつまり、じじぃが心配したのは「こっち」なんだよ」

 咄嗟にニコルを抱きかかえて木立の間に転がり込んだシュアラスタが、娘に一瞬だけ笑みを見せてまたも街道に飛び出す。

 その場に取り残され呆然とするタリスとウイリー。確か、「屋敷」から借りていた用心棒は全部で七人。どれもこれも痩せぎすで背ばかり高く、やたら無表情。となんだか薄気味の悪い連中だったが、まさかこの土壇場で逃げ出すとは、とタリスが顔を真っ赤にして喚こうとした、途端、傍らを吹き抜けた真っ赤な疾風に煽られて、ふたりは同時に地面にひっ転がった。

「邪魔よ、あんたたち! 死にたくないなら這ってでも逃げなさい!」

 疾風が、艶やかなピンクゴールドの髪を翻して怒声を張り上げる。深紅のショートコートから覗くすらりとした足が地面を掴み、腰を落とした迎撃態勢で周囲に視線を走らせた、と思うなり、疾風…チェスは、剣帯から一振りのサーベルを抜き放った。

 華奢な腰に吊った皮製の帯。その帯には、がんじがらめに封印したと表現するに相応しい、ボロ布でぐるぐる巻きにされた細長い鞘がぶら提げられていたのだ。

 しかし、そのみすぼらしい「衣装」を脱いだ裸身は、まるでチェスのように華やかで美しい白磁の刀身を黄金のレリーフで飾った、宝剣だった。

 頭上の歪な月を貫くように掲げられたサーベルの表面で、火花と金属音。時置かず、地面に転がったタリスの鼻先に小ぶりなナイフのようなものがばらばらと幾つも降り注ぎ、男が情けない悲鳴を上げて身を縮める。

「チェック。間違い無いわよ、相棒? 「連中」ご愛用の楔だわ」

「オーケイ、チェス。強制執行許可だ!」

 シュアラスタの声が聞こえたと思う間もなく、またも掻っ攫われてタリスとウイリーが悲鳴を上げる。何がどうなっているのか、次には、軽々持ち上げられたふたりは乱暴に街道の隅に叩き出されたではないか。

 恐怖に怯えた顔で天を振り仰いだタリスの目に飛び込んだのは、あの朱色。薄笑みを絶やさない口元でくゆる、紫煙…。

「残念だったね、あんた。自分を信用してくれない領主に抗議して、お嬢さんを抱き込み次の領主にのうのう収まろうなんて底の浅い計画なんか、結局さ、誰かの計画の一部でしかなかった訳だ」

 嘲りでもない、同情でもない、ただ目の前の事柄を捌くだけの、無感情なセリフ。

「あんたが思ってるよりも、アキューズ領主区は…美味しい場所だったって、それだけさ」

 そう言い置いて、タリスとウイリーを街道脇の草むらに放り出したシュアラスタが振り返った、刹那、木立の隙間で微かに銀光が煌いた。

 軌道上にいたチェスが飛び退く。

 楔という名のナイフに似た投擲専用の武器は、だから、障害物に邪魔される事もなく一直線に、佇むシュアラスタ目掛けて走った。

 笑う。朱色の炎を目指し。

 耳慣れない轟音と、銃口炎。突然の出来事に驚いた鳥たちが木々の頂上から群青色の闇へと逃げ去り、月は歪み、空気が凍りつく。

「動いたら撃ち殺されると思えよ、てめーら。でなくったって、無駄に長生きさせてやる気はねぇけどな」

 笑いを含んだ声でそう機嫌よく言い放ったシュアラスタの手には、いつの間に抜いたものか、鋼の塊が握られていた。

 回転弾倉式拳銃。一般には「リボルバー」と呼ばれる。しかしそのバカでかいリボルバーは「実用品」であり、金持ちが金メッキを施して壁に飾っているアレとは、まるで違うものだった。

 拳銃は、南部レキサル帝国の輸出品。専門の職人はレキサル帝国にしかおらず、入手出来ても手入れ出来ない。派手な音とばら蒔かれる薬莢というはったりの利いたスタイルがいかにも悪党好みではあるが、手入れを怠ればすぐに使い物にならなくなる繊細さがネックになって、携帯している悪党に会うのはなかなか難しい…。

 だからその気障ったらしいリボルバーを愛用している悪党を、彼らはふざけて「ガン・ファイター」などと持ち上げて呼んだ。

 専門の、拳銃使い。

 チェスが知る限り、刃物を携帯していない悪党はシュアラスタだけだ。

「俺ぁ、早撃ち自慢じゃないんだがな」

 と、こんな嘘っぱちを平然と言って退け、まるで身体の一部か自分自身でもあるかのようにあの鉄の塊を扱うのも。

「相手は?」

「七人」

 片や宝剣を捧げ持った絶世の美女。片や鉄の塊を振り翳す稀代の二枚目。はったりだけなら大陸一。しかし、そのはったりだけでやって行けるほど、悪党なんて甘くない。

 穏やかともいえる夜気がゆらりと動いた。

 身を縮め、目の前で何が展開されようとしているのか判らないタリス、ウイリーと、少し離れた場所で硬直しているニコルを置き去りに、チェスとシュアラスタは同時に地面を蹴り放し、静寂の闇が満ちる街道の中央を躱わして左右に飛び離れる。

 幾筋もの光。中空で閃いたそれがたった今までふたりの頭部があった空間を貫き、しかしその時には既に、チェスは低い体勢のまま地面を滑り込んでいる。

 真白い軌跡が何もないはずの空間を薙ぎ払う。その剣速は高音の風切り音を響かせるだけで、刃の煌きさえ残さない。

 炯炯とした輝きだけを旋廻させて、飛び離れた「朱」を追う、グランブルー。

「…朱色ってくらいなんだから、派手な衣装で登場して欲しいわね、まったく!」

「朱(あけ)」とは、彼ら…朱の皇帝一族と名乗る暗殺者どもが使う「楔」という投刃に紅い文字が刻まれているから付いた通り名で、実際の「朱」どもは黒い装束身を包み、闇に紛れて忍び寄って来るのだ。

「はは! だったらお前のほうが「朱色」みたいだぜ、チェス」

 闇の中を疾走する深紅のショートコートを目端にシュアラスタがくつくつと笑うと、チェスは答える代わりにまたも虚空を斜めに斬り払った。

 ばさっ! と衣擦れの音。微か。それに目を細め、一旦後退して間合いを取ったチェスが、濡れたラズベリーの唇に婉然とした笑みを刻んだ。

「隠れてないで出てらっしゃい。あたし、焦らされるのは好きじゃないのよ」

 甘い囁き。

 闇が、さわさわと動く。

 切っ先を地面に向けて無造作に突っ立ったチェスの周囲で、風が巻いた。途端、轟音、続けて三射。チェスの真後ろ、距離で五メートル以上離れているシュアラスタのリボルバーが火を吹き、彼女の長い髪が弾丸の行き過ぎる衝撃に煽られて舞う。

「そいつは知らなかったな。覚えておこう」

「あんたは忘れていいわっ!」

 言い放つのと同時にチェスは、ぶら提げていた宝剣の切っ先を跳ね上げながら、右足を軸にその場で半回転した。

 斜め下から掬い上げる斬戟。螺旋を描く切っ先が背後に迫っていた黒装束の胴体に食らいつき、目玉だけをぎょろつかせた覆面の男が、くぐもった呻きとともに地面に沈んだ。

 瞬間的に刃を返し峰による打撃を打ち込んだものの、実は、チェスと来たらシュアラスタも舌を巻くようなバカ力なのだ。当然、その彼女に一撃食らった男は眼球をひっくり返して四肢を痙攣させ、完全に落ちてしまった。

「殺すなとは言ったっけな…俺も」

 落とすなとも付け足せばよかった。と苦笑いのシュアラスタが、銃口を持ち上げる。

 その動きを見ていた訳でもないのに、チェスは反射的に身を沈め、落ちた男を抱えて路肩に転がり逃げた。

(とりあえず、ひとりは確保した…。となったら、あとは用なしだわ。まぁ…連中が大人しく吊るされてくれるかどうかは、判らないけど)

 群青色の中で繰り広げられる、何か。

 殺しか。

 それとも復讐か。

「…お嬢さんの駆け落ち騒ぎじゃなかったっけ? これって」

「ニコルが「普通のお嬢さん」だったら、それで済んだんでしょうがね」

 ふざけた答え。

「忙しいならあたしに構わなくてもいいわよ?」

「あ? あぁ。ほどほどだよ」

 街道の真ん中、チェスの消えた付近に佇んだまま、シュアラスタは周囲を窺っている。残る六つの気配は間違いなく…そのシュアラスタに集中していた。

「相変わらず人気モンね、あんた」

この暗殺者どもは末端に至るまで、まるでシュアラスタを知っているかのように…しつこく付け狙って来るのだ。彼、だけを。

「顔も売りだからな、俺の場合」

「ふうん。ねぇ、手伝ったげようか?」

「いらない」

「…あっそ」

 いつもシュアラスタが言うみたいに素っ気無く答えたものの、チェスは倒れた覆面の傍らに膝を突いたまま、辺りの気配に神経を注いでいた。余計な事をしたら一週間は文句を言い続けられるのだろうが、巻き添えに出来ない一般市民を方々に置いたままでは断然シュアラスタが不利なのだ。

 手伝うのは、殺されたら困るから。とチェスは、自分に…言い訳した。

 助けるのではない。

 利己主義に、相棒を無くしたら自分が路頭に迷うから。

 そうでなければならない。

「あたしはあんたを、守ってる訳じゃないわ」

 そう口の中で彼女が呟いた途端、シュアラスタの出方を窺っていた気配が、一斉に動いた。

 速い。

 風を孕んだ衣擦れの音が、四方から聞こえて来る。きっとマントか何かなのだろう。それは逆に、黒装束の正確な位置と足取り、動きを「見えない」ものにしていた。

「いいね。その卑怯臭ぇトコがまた、いかにも暗殺者っぽいな」

 呟いて、途端、翻った幾つもの黒が、佇むシュアラスタに襲い掛かる。

 円形の一角が不意に崩れた。いや、高速で襲い掛かったひとりが、まともに顔面を強打されて吹っ飛んだのだ。

 二重三重にも聞こえる雑音の中でどうやって相手の正確な位置を確かめたのか、シュアラスタは左に握り直したリボルバーのグリップで手近なひとりをぶん殴り、それを追いかけて円陣からするりと抜け出していた。

 闇の中で踊るように旋廻する、長い手足。確かに彼は気障なガン・ファイターでもあるが、得体の知れない体術をも駆使する。

 全方向全距離をたったひとりでカバー出来る、正体不明の色男。

 間合いを取ろうと飛び離れた黒装束を、弾丸が掠める。それで隙が出来たと踏み込めば、待ち構えていた爪先が顎を狙って跳ね上がる。

「毎回の事ながら、ホント、デタラメな男よね」

 射出反動で浮いた銃身を手首で押さえ込んでは足下を狙って一撃吐かせ、匕首を身体の正面に構えて後ろから体当りして来たひとりを紙一重でやり過ごし、交差して、その背中を思いきり蹴っ飛ばし地面に叩き伏せる。

 チェスはその、ノミみたいに跳ね回る黒装束と、その黒装束を危なげなく遠ざけては決定打を出さずににやにやしている(だろう)シュアラスタを眺めながら、がしがし金髪を掻き回した。

「でも、これっていつもと同じパターンじゃなくって? ええ? シュアラスタ」

 左右から同時に飛びついて来たふたりを前に転がって凌いだシュアラスタが跳ね起きるのと一緒に、チェスは宝剣を鞘に収めて突っ走った。

「て事は、そろそろでしょ! この、バカっ!」

 ひた。と地面に伏せた、黒装束。

 その間を疾風のごとく走り抜けたチェスは、この期に及んでも紙巻き煙草を吐き捨てないシュアラスタに飛びつき、そのまま街道脇まで転がって頭を抱え込んだ。

 ドン! と鈍い地響き。背中を舐め過ぎる、生暖かい衝撃。

 びちゃびちゃと柔らかいものの叩きつけられる音と、見知った匂い…。

「…………あーあ」

「あーあじゃないわよ!」

 チェスは、気の抜けたシュアラスタの呟きに猛然と抗議しながら上半身を持ち上げた。

 歪な月を見上げて、シュアラスタはまだ紙巻きをくゆらせている。その彼を地面に組み敷いた格好で見下ろしたチェスの頬を、一筋、黒い液体が流れ落ちていた。

「自爆ってのは、どんな気分なんだろね?」

「知らないわよ、経験無いもの」

 月からチェスの美貌に視線を移したシュアラスタが、硝煙と紙巻きの香りが染みついた指先で彼女の頬をそっと撫でた。

 擦りつける、赤黒い体液。生暖かい匂い。

彼らはなぜか、シュアラスタ捕獲に失敗すると、必ず、腹に抱えた爆弾を使って自爆し消えるのだ。

 その理由をチェスは知らず、シュアラスタは……。

「そんなにまでしてやるやつか? あの…大将が!」

 憤る。

 向ける矛先の見付けられない抑えた怒声を喉の奥に押し込んだシュアラスタが、色っぽく覆い被さっているチェスを乱暴に振り払って地面に転がし、長い足を組んでその場に座り込んだ。

 訊いても答えないだろうし詳しく聞いた事もなかったが、正体不明、と言われている「朱の皇帝一族」とシュアラスタの間には、はっきりとした「確執」が隠されているとチェスは思った。

(だから多分、極秘にアキューズ領主区の動きを監視してたパパ・モルグがニコルの件をシュアラスタに教えて来た。それで、ありったけの情報で弾き出される最悪の状況を全部並べ、シュアラスタは…動いた)

 底の浅い悪知恵程度の騒ぎが、そうでなくなったのは…。

「あんたが首を突っ込んだから」

「…だったら愉快だな。「死神」は二年前に廃業したつもりなんだが、看板架け替えた方がいいか?」

 地面に寝転がったまま顔の上に腕を翳して囁いたチェスを見もせずに、シュアラスタがそう吐き捨てて立ち上がる。

 その、背中。猫背気味で痩せた、背中。

 一生消えない傷跡と過去を刻んだ、頼りない背中。

「そんな真似してみなさいよ。そしたら今度はあたしが、あんたを…吊るすわ」

「それはいいな。そのときは、頼む」

 薄笑いで言い捨てたシュアラスタが新しい紙巻きを唇に載せマッチを擦った、途端、昏倒していたはずの男の身体が呆気ない爆音と共に空中に四散し、誰かの悲鳴が深夜の街道にこだました。

  

   
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