鎌倉時代
@逸話と伝説の頼朝、義経  A武士は刀では戦わない(一所懸命の武士)  B元寇と神風と特攻隊  

C生徒に悪人として自覚を問う(親鸞と悪人正機)  D踊念仏をみんなでやってみる(一遍と踊り念仏)

@逸話と伝説の頼朝、義経  

いわゆる源平の合戦やその登場人物である源義経や源頼朝は、逸話だらけである。逸話が多すぎて、それらを全部話していると生徒たちも食傷気味になるくらいである。以下に私が授業で話したことがある、源平の合戦や義経らに関する逸話を列挙する。

a1180年富士川の戦いで源頼朝の軍勢が夜襲のために近づいた時、川辺の水鳥の一斉に羽ばたいて飛んでいく音に驚いて、平氏の軍勢が逃げて決着がついたこと。それほど、平氏は都暮らしが長く貴族化し武士らしくなくなっていることの具体例としてよく述べられる。

b1183年倶利伽羅峠の戦いで、木曽(源)義仲が牛の角の松明に火をつけて平氏の軍勢を攻撃した話。

c源義経が子どものころ牛若丸と称し、鞍馬寺に預けられ、裏山のカラス天狗たちに武術を教わったこと。都の母親に会いに行ったとき、母親から来ては行けないと叱られ、とぼとぼと五条大橋を笛を吹きながら歩いていて、武蔵坊弁慶に出くわしたこと。弁慶は刀を集めるのが趣味で、ちょうどその日はあと一本で千本という記念すべき日だったこと。弁慶が牛若丸に刀をよこせといっても、牛若丸はそれどこれではなく無視して通り過ぎようとしたこと。そこで、弁慶が長刀で牛若丸に斬りつけたところ、牛若丸は長刀をかわし、橋の欄干に飛び乗るなど、弁慶の長刀での攻撃をジャンプでいとも簡単にかわしたこと。弁慶が疲れ果てた隙をついて、牛若丸は笛で弁慶のスネ(いわゆる弁慶の泣き所)を叩き、決着がついたこと。弁慶はそれ以後反省し牛若丸の家来になったこと。(実は、弁慶は源氏を支援するために武器集めをしていた、牛若丸が通るのを待っていたという説もあること)

d源義経が兄頼朝と対立し、奥州藤原氏に追いつめられて自害する時、弁慶はその自害場所の前で最後まで敵を追い払うために戦っていたこと。その時、弁慶に何本もの矢が刺さりハリネズミのようになりながら、最後は立ったまま弁慶が息絶えたこと。

e源義経は美男子や美少年のイメージがある。NHK大河ドラマでも滝沢秀明が演じたようなイメージである。そこで、生徒に美少年の武士の絵、義経の本物の肖像、後の時代に義経として描かれた挿絵の3つを並べてどれが本物の源義経の顔か当てさせる。生徒は、本物の義経の顔を選ばない。ところが、正解を知って驚く。義経の肖像は現代人の感覚ではとても美少年には見えないのだから。

 

A武士は刀では戦わない(一所懸命の武士)

武士の生活等について理解する単元があるが、そこでは、本来の武士のあり方について説明する。そして、ドラマ等で描かれる武士像には誤りがあり、当時の本当の武士の姿を説くと生徒はおもしろがる。その際、わかりやすい説明のため、私はおもちゃの刀2本(太刀、脇差)を差して実際に切るまねをしながら説明する

a武士は必ず1対1で戦う

テレビの鎌倉時代や平安時代の合戦のシーンでも武士たちが集団で入り乱れて戦っている映像が流れる。しかしそれはウソであることを指摘し、武士は必ず1対1で戦うのがしきたりであり、集団で戦うことを卑怯と考えていたことを説明する。こうした武士の1対1の戦いをなんというかと発問をする。生徒が答えられなかった時、私はヒントで「よく野球などのピッチャーとバッターの1対1の雰囲気を盛り上げるためにアナウンサーが使う」「ピッチャー松坂対バッター清原の○○○○の戦いです」などという。答えは「一騎打ち」である。そして日本人は今でもケンカをするとき「タイマンはる」といって1対1の戦いをヨシとすること。だから、日本人は野球が好きで、サッカーは今ひとつなことなどを告げる。

具体的な1対1の戦いについて。自陣の中から飛び出て名乗り(自己紹介)をする。すると敵陣からもその武士に対して名乗りをする武士が現れ、その二人の一騎打ちが始まる。一騎というのは馬に乗っている武士のこと。武士とは馬に必ず乗っていること。テレビでよく馬に乗っていない武士が鎧兜を着て戦っているが、あれもウソ。鎧兜は重たいので馬に乗らないと戦えないことなどを説明。

b武士は刀では戦わない

名乗り終わったあと、一騎打ちで最初使う武器はなにか、生徒に発問する。答えは弓矢だが、生徒は驚く。馬に乗りながら、弓矢を射ったり回り込んだりしながら戦う。ところが、お互い鎧兜をつけているので、なかなか当たらない。テレビで鎧の上から矢が刺さって武士が死ぬシーンを見かけるがあれもウソ。鎧はもっと頑丈。矢が目とか脇とか兜のてっぺんの穴とかから刺さらない限り、弓矢だけでは決着がつかない、そのうち矢が尽きる。そして、はじめて刀を抜いて戦う。ところが、刀も鎧のせいで効果がない。よくテレビで鎧の上から切られて死ぬシーンがあるが、それもうウソ。鎧はそんなに弱くない。刀の刃がボロボロになる。刀でも決着がつかないと、最後は、馬に乗りながら取っ組み合いになり、馬から落ちる。そして、相手を押さえつけた方がとどめをさすために、脇差しを抜き、相手の喉を突く。こうして決着がつく。だから、武士にとって一番大事なのは弓矢の技術であり、そこから、流鏑馬、笠懸、犬追物などの騎射三物という武士の修行について教科書通り説明する。この説明の時、私は実際におもちゃの刀を抜いて、演じる。生徒はおもしろがって見ている。

c一生懸命の語源

「一生懸命」という言葉の語源について説明。もとは一字違うがなにかと発問すると答えられる生徒もいる。昔は「一所懸命」といって、武士が先祖伝来の土地(領地)を命がけで守ることを差した言葉だと説明。そして、このように武士とは、自分の土地を守るために武装した人たちであり、土地を持っているのが武士の基本属性であることを説明する。

 

B元寇と神風と特攻隊 

 元寇の単元では、前置きとして、日本は島国で大陸の東の端にあるので、めったに外国から攻められたことがないこと。これまで日本を攻めてきた外国勢力は、鎌倉時代のモンゴル(元)、そして、太平洋戦争のアメリカがあると説明。ここで、元寇と太平洋戦争を「神風」というキーワードで結びつける準備の説明をしておく。

 そして、モンゴルがどのような国だったか、詳しく説明する。モンゴル人は羊を飼うために馬を使い、子どものころから馬とともに生活し、馬に乗るのが非常に上手な民族であること。そのため、モンゴルは楽器や民話も馬関連のものが多いことを説明。ここで私のもっている馬頭琴を取り出す。この馬頭琴は妻がモンゴルに行って来た時買ってきたものであるが。そして、この楽器がなにかを発問。さらに、この馬頭琴に関連する民話を生徒に尋ねる。小学校の教科書に載っているため、生徒も「スーホの白い馬」と答える。スーホの白い馬のストーリーを簡単に説明したあと、このようにモンゴルは馬関連のものが多く、馬に乗るのが上手。そして、馬が得意であることは戦争をするのに有利であること、当時モンゴル軍は馬に乗って戦争をし、領土を拡張し、世界史上最大の国家を作り上げたことなどを教科書のモンゴル帝国の地図などをみせながら説明する。モンゴル軍はヨーロッパの一部まで領土としたこと、このため今でもヨーロッパの一部では、親が子どもを叱るのに「そんなことするとモンゴル人が来るよ」というような叱り方をするらしい(私の高校の時の世界史の先生が言っていた)。

このモンゴルは高麗(朝鮮)も征服し、次に日本の征服も企てるようになったことを、チンギスハーンやフビライハーンや元の成立の説明のあとする。そして、鎌倉幕府執権北条時宗のところに服属を促す手紙が届いたこと。北条時宗は若干18歳ないし17歳で、この難局を乗り切るために執権に就任したことを伝える。17,18歳といえば、授業を受けている高校生たちの年齢である。そこで、生徒たちに聞く。外国が攻めてくるかもしれないから、日本の総理大臣やってくれと言われたら君たちの年齢で引きうける気になるかと。多くの生徒が首を横に振る。

文永の役の様子を「蒙古襲来絵巻」を用いて説明する。その時、日本の武士がまず名乗り(自己紹介)を日本語でし、モンゴル軍に笑われたこと。自己紹介しているうちに攻撃されて、卑怯だと考えたと思われること、さらに、モンゴルが集団戦法で攻撃してくることも卑怯だと思っていたと考えられることを説明すると生徒も笑顔をみせている。

やがて、文永の役、弘安の役という蒙古襲来も2度とも暴風雨のおかげで、元の船が沈没したため日本は元の襲撃を退けることができたこと。この偶然の暴風雨を鎌倉時代の人々は「日本の神々が日本を守るために吹かせてくれた風だ」と考え「神風」とよんで称えたこと。さらに、その考えが700年後の太平洋戦争の時にも生きていて「日本は外国と戦争しても神々が守ってくれ、神風がふくので負けない」という考えに繋がっていったことを説明する。

そして、時代が鎌倉時代から突然太平洋戦争の時代にスリップし、太平洋戦争で日本が負けそうになり、1945年沖縄がアメリカ軍に攻撃されはじめた。その時神風は吹いただろうかと生徒に問う。生徒は当然吹かないと答える。その答えを受けて、「神が風を起こさないなら、自ら風となって、戦闘機でアメリカの戦艦に体当たりする特殊部隊が編成された。その部隊の名前はなにか。」と発問する。生徒は「神風特攻隊」と答える。何百年も前の元寇の時に生まれた「神風」という言葉が、こんな時代に影響を与えたいたことを強調する。神風特攻隊の攻撃力が爆弾、飛行機の体当たりのエネルギーでものすごい威力があり、うまくいけば、一機の戦闘機の体当たりで一隻の戦艦を沈める可能性もあったことなどを説明。そして、本物の神風特攻隊の映像をNHK『映像の世紀 世界は地獄をみた』のDVDを使ってみせる。

 

C生徒に悪人としての自覚を問う(親鸞と悪人正機)

 鎌倉新仏教の説明は、各宗派の祖師、著作、本山、簡単な教えを羅列的におぼえさせようとするだけで、表面的な説明にとどまることがある。生徒も意味もわからず、テスト対策として形式的に暗記しようとするだけである。もう少し、教えの本質にせまれないだろうか。どれか一つの宗派、祖師にしぼって掘り下げてみるのもよいのではないか。
 親鸞の悪人正機説をせめてもう少し、生徒が「なるほどなあ」と思うくらいに理解させたいと思い、次のようにした。
まず、死後の世界として極楽と地獄があることを説明。黒板に極楽の絵と地獄の絵をざっと書く。そして、生徒に発問し、極楽には善人がいくのか悪人がいくのか質問する。生徒は普通「極楽にいくのは善人だ」と答える。
 次に、生徒に小さい紙を配付し、そこに、「自分のことを善人と思うか、悪人と思うか」さらに「そう思う理由」を書かせる。必ず「善人」か「悪人」かどちらか答えよ、「どちらでもない」はだめだというような制約をつける。生徒はおもしろがりながら、紙に回答する。そして、お互い見比べて、「善人」と書いた人を「おまえのどこが善人だ」などと冷やかしたりしてなごんでいる。
 すぐに回収し、教師が善人と悪人に分別し、それぞれ束ね、善人の人たちのものは、黒板の極楽の絵のところにまとめて磁石で張り付け、悪人の人たちの紙は地獄の絵のところへ張り付ける(その際、「悪人と書いた人ごめんね」のようにフォローしながら)。
 そして、法然、親鸞の教えの説明に入る。親鸞の悪人正機の教えになる。悪人正機はいうまでもなく「善人より悪人の方が極楽にいくことができる」という思想だが、生徒に説明したあと、「どうして善人より悪人の方が極楽にいきやすいのか」か発問し、さらに生徒の思考を促すためまた、別の用紙を配付して、「悪人の方が極楽にいきやすい」理由をについて、自分の考えを書かせる。生徒はキョトンした顔をしながら解答にとまどう。そのような中、少しずつヒントをいっていく。

 ヒント1 最初に自分が悪人であると回答した生徒の紙を黒板(地獄の絵)からはずし、一つ一つその理由を読む。そこには、「悪人 親にうそをついたことがあるから」 「自分は悪人 遅刻したり、あまり真面目にいきてないから」 「悪人 親に反抗するから」などと書かれている。勘のいい生徒はこれだけで気がつき、別紙への解答をはじめる。

ヒント2 佐野は悪人の理由を読み続け、それを1つ読むたびに、「そりゃ親にうそつくぐらいあるだろう」「遅刻もするだろう」と彼らの書いた理由にフォローを入れる。
さらに何人かの生徒が気づき、解答を記述し始める。
 つまり、自分のことを悪人と書いた生徒は、その理由のなかで、自分の悪人たる理由を正直に反省的に書いていることに生徒たちは気づくのである。親鸞の悪人正機説における、悪人も煩悩ある自分に気づき、阿弥陀如来の救済にすがる以外ないという自覚のある人間のことを指していると考えるが、自分のことを悪人と書いた生徒の意識と共通するものがあると考える。

 悪人と書いた生徒=悪人という自覚=正直で反省的な人=悪人正機説の悪人=極楽にいきやすい

 ということになる。この際、善人と書いた生徒は自動的に「自分の欠点に自覚のない人」ということになってしまうので、「善人と書いた人ごめんね」とフォローを入れる。
 この作業によって、生徒は悪人正機説を自分自身の問題とからめて、主体的に理解すると考える。自分が善人か悪人かをみつめる親鸞自身の視点に多少とも近づくことができるかもしれない。
 私は親鸞に対して思い入れがある。親鸞の思想のすばらしさ。悪人正機という発想は、自分自身をだめだと思っている人に価値を認める思想。「自分が教員に向いてないのか」と何度思ったことだろう。だけど、「教員に向いてないという自覚がある教員」の方が、「自分は教員に向いていると思いこんでいる教員」よりマシかもしれないと、親鸞の思想にふれるなかで、ある日なぐさめられた。
 公家や寺社や武士(荘園領主)たちに支配され階層的宗教秩序にあえぐ民衆に、末法の世に生きる人間は平等に悪人であると主張して、勇気を与えた親鸞。その親鸞の思想を少しでも生徒に伝えたいと思ってこの授業を試みた次第です。

D踊念仏をみんなでやってみる(一遍と踊り念仏)
 法然、親鸞の説明のあと、同じ念仏系の宗派として一遍の時宗を取り上げる。一遍はすべてを「捨て」て後生を願って念仏することが一番大切なこと。念仏のためには手段を選ばず、念仏の札を配布(実物のコピーを生徒にも配布)したり、そして、教科書の絵にみられるようなことまでやったといって、教科書の踊念仏の絵を見せる。そして、生徒に、なぜ念仏と踊りが結びつくのか考えさせる。生徒はわからない。そこで、浄土宗のHPを教室のパソコン上で開き、生徒たちにプロの僧侶の本物の称名念仏を聞かせる。念仏は「ナムアミダブツ」と唱えるのだが、連続して唱えるときは「ツ」を省略し、「ナムアミダブ」「ナムアミダブ」と繰り返した方が唱えやすいしリズム感が出る。実際、僧侶たちが複数で鳴り物を慣らしながら、念仏を唱えるところを聞かせる。すると、リズム感もよく美しい声の僧侶たちの念仏の繰り返しが教室に響き渡る。

そして、生徒に質問する。念仏は何拍子か。「ナムアビダブ」の唱え方だと念仏は3拍子になる。ヒントとして、手で3拍子を振ると生徒は答える。念仏が3拍子でワルツのリズムと同じであり、リズム感があって体を動かしたくなること(実際のその時生徒の前で念仏に合わせ体を動かしてみると生徒は笑う)。一遍の僧侶たちがみんなで繰り返し念仏を唱えていたら一人の弟子が一遍にたずねた。「念仏していたら、踊りたくなりました。踊ってもよろしいでしょうか。」 念仏のためならあらゆる方法を許容した一遍は「踊りたければ踊ればよい」と答えた。そして、一人の僧侶が踊り出したことで、みんが念仏を唱えながら、鐘を鳴らし踊るようになった。こうして踊念仏がはじまったと説明。この時代、ディスコやダンスなどなかった。でもダンスは楽しい。この時代のダンスのようなものだったのではないか。実際、この踊念仏が発展して現在の盆踊りの起源になっていくことを説明すると生徒は納得する。

この授業の最後で、実際にみんなで念仏を唱えていると踊り出したくなるから、みんなで一斉に唱えてみようと提案する。生徒たちはとまどう。私は「せえの」といって念仏を唱えても、ほとんどの生徒が笑うだけで、唱えない。この踊り念仏を唱えていると踊り出したくなるかの実験は、生徒たちの躊躇でなかなか実現しない。かつて、一つのクラスだけ、本当にみんなで念仏を一斉に唱えたことがあった。でもそれも長続きせず、みんな笑い出し、踊るところまではいかなかった。