@沖縄出身タレントの活躍から沖縄の歴史文化を知る
1)最近テレビで沖縄出身タレントの活躍がめざましい。まず、今から沖縄の歴史を勉強するということから、沖縄出身で活躍しているタレントをあげさせる。安室奈美恵、MAXからはじまってスピード、キロロ、DAPUMP、最近では、ガレッジセールなどの名前が生徒からあがる。そこで、これらのタレントの特徴はなんだろうときく。歌だけでなく踊りも得意というようなことに話をもっていく。そして、沖縄出身のタレントはなぜこんなに歌や踊りが得意なんだろうとたずねる。生徒は首をかしげる。以上が授業の導入である。
2)次に実物教材として沖縄の三線を用意する(三線は安いもので2万円。カ
ンカラ三線で8000円ぐらいで手に入る。私は修学旅行の下見でカンカラ三線を買ってきた)。そして、三線で一曲かなでる(私は練習して、「安里屋ユンタ」や「島唄」を弾けるようになった)。沖縄のお父さんは普通これが弾ける。夜になると家族で三線を引きながら歌い踊るらしい、というようなことを話す(沖縄のみなさん、本当ですか)。NHKの「ちゅらさん」の堺正章がやっているお父さんもいつも三線を抱えていた。沖縄の結婚披露宴では、余興にレベルの高い歌や踊りがさんざん催され、あげくの果てには新郎新婦も踊り出す、という話もする。こんな風にタレントばかりでなく、沖縄の人たちはみんな歌やりが大好き。沖縄の結婚式の話もする。
3)そこで、沖縄の歴史をたどり、やがて琉球王国が成立する話をする。そして、琉球王国の主要産業が貿易であったことを語る。貿易に必要なのは諸国との平和外交。そして、外国の客人をもてなすために、歌や踊りが重視されたことを説明する。
4)そして、平和を愛した沖縄がやがて日本とアメリカとの戦争において絶大なる被害を受ける話に続けてもよい。
A連歌をつくってみる
連歌は室町時代に大流行したようである。そこで、5・7・5→7・7→5・7・5→7・7を繰り返す室町時代の言葉遊びだというような教科書的な連歌の説明、さらに資料などをみせて具体的な連歌の有名作品をみせたあと、実際に生徒に連歌をつくらせる。発句は私がする。
発句(上の句) 「今日もまた 日本史やるよ がんばろう」(5・7・5)
生徒は配布された用紙にこれに続くうまい言葉を7・7で考えさせる。最初はとまどっているが、前後左右を見比べながらつくっていく。最優秀作品は私から賞品が出る旨生徒に伝える。その間授業をゆっくりとだた先に進めてもいい。生徒は授業を聞きながらも一方で連歌を考える。授業の終わりに生徒の連歌を回収する。
次の時間には前回生徒が考えた連歌の下の句を列挙して配布する。生徒はおもしろがってみる。そして、生徒に挙手で投票させ最優秀作品を決定してその場でその生徒に消しゴムなどの粗品を渡す。
これまで以下のような下の句が最優秀を獲得している。
「よしみつ、よしつね どっちが先かな」
「歴史の旅へ 出発しよう」
「オレには無理だ ささないでくれ」
B郷土の英雄武田信玄の虚像
戦国時代は、人気のある時代で、戦国時代や戦国大名を勉強したいから日本史の授業を選択したという生徒も多い。相変わらず戦国時代を中心とするドラマが作成され、また、戦国時代をテーマにしたゲームソフトも大ヒットしている。
私は、戦国時代や戦国大名の領国経営について勉強する単元で、やはり郷土山梨の英雄武田信玄を取り上げて詳しく説明する。武田信玄に関しては以下のようなイメージで生徒たちもとらえている。
a最強の戦国大名であり、病死しなければ、武田信玄が全国統一したかもしれない。
b政治的にもすぐれ、信玄堤等を築き治水や領国発展にも努力した
c老練な知略家、「動かざること山のごとし」のイメージ
授業では、最初は、これらのイメージの通りに内容を展開し、武田信玄を山梨(甲斐国)の英雄として褒め称える。
そして、徐々に信玄の英雄としてのイメージを崩していく話をする。
最初、信玄がどんな顔だったか、三つの顔の絵をプリントで呈示し確認する。次の3人のうちどれが武田信玄か。一つ○をつけよ。

生徒たちは当然のように一番左の絵に○をつける。この絵は武田信玄像として伝えられ、信玄のイメージはこの絵を元につくられてきた有名な肖像であるが、近年の研究で、武田信玄の像であることが疑われているものである。しかし、甲府駅前の武田信玄の銅像はじめ、武田信玄はこの絵のイメージが強い。老練な知略家、体格もよく「動かざること山のごとし」の雰囲気で信玄にぴったりである。真ん中は武田信玄の永遠のライバル越後国の戦国大名上杉謙信、そして、一番右は間違いなく武田信玄(晴信)の若いころの肖像である。
生徒たちに手を挙げさせると、ほとんどの者が左の絵に○をつけていることがわかる。正解は右の絵であることを告げると生徒たちは驚く。左の絵は最近信玄であることが疑われているが、そうすると甲府駅前の信玄公像も間違いということになり困ってしまう、武田信玄は信長と戦う直前に病気で死ぬが結核や胃ガンが疑われている。いずれも痩せる病気であり、左の絵のイメージより、
右の細い信玄のイメージの方が死因との関連が考えられること、さらに、ドラマや映画では昔は信玄は左の絵のような役者が演じていたが、最近の信玄は右の絵のイメージに当てはまる役者(例えば中井貴一)が演じていること、有名なゲームソフトに『戦国無双』というものがあり、そこに登場する武田信玄はなぜか仮面をつけているが、それは信玄の顔がわからなくなってきたのでゲーム作者も困ったからではないか、などと関連する説明をすると、生徒たちは関心をもって聴いている。そして、すでに、ここで、生徒たちはこの授業では武田信玄のイメージが崩れていくことを予感する。
次に、武田信玄の有名な考え方として、次の穴埋めをさせる。
人は( )、人は( )
この( )にはなんという言葉が入るか。
これは『武田節』などで有名な一説であるが、最近の生徒たちは知らないことが多い。そこで、武田信玄は「人は堀、人は石垣、人は城」といって、領国内にお城を造らない方針だったこと、優秀な人(=家臣)たちがいるので城は必要ないと考えていたこと、それほど家臣や人を重要視するすぐれた武将であったことなど、イメージ通りに解説する。さらに、武田の戦略が攻撃される前に攻撃する方針だったので守りのための城は造らなかったなどと一通り説明する。生徒たちは納得したような顔をしている。
しかし、ここで突然信玄のイメージを落とす話をする。家臣を大事に思うから城を造らないというのは変なこと。家臣を大切に思うなら、家臣の命を守るために城を造るべきであること、さらに、城や石垣を造らなかったといわれているが、最近の発掘で、石垣が出てきていることなど、説明するとまた、生徒は信玄のイメージを崩され驚く。
次に、武田家の旗は有名であるが、なんと書かれていたか、ようするにこの旗はなんとよばれる旗かを風林火山の旗のレプリカを取り出して質問する。この発問には生徒は「風林火山」というように正答をする。 私は大きめの風林火山の旗をもっており、以後それを黒板に張り付けたまま授業をする。
そして、ここに中国の孫子という戦争の仕方が書かれた古典からとられた文章が書いてあること、そして、「はやきこと風のごとく、しずかなること林のごとく、侵略すること火のごとく、動かざること山のごとく」と書かれているが、それはどういうことなのか、生徒に質問する。この発問に答えられる生徒はまずいないので、解説をはじめる。これは戦い方の四つのパターンを示したものであること、「(1)風のように早く攻撃する、(2)林のようにゆっくり攻撃する、(3)火のように激しく襲いかかる、(4)山のように動かない、といういろんな攻撃の仕方を使い分けなければいけないよ、同じパターンばかりで攻撃していては勝てない」、という意味だと説明し、さらに、これは戦争ばかりでなく、スポーツやトランプなどのゲーム、さらに恋の駆け引きなどにも応用できることを述べる。私はバスケットボール部の顧問をしているが、バスケットでも、速攻、遅攻など使い分けること、さらにリードしているときは、林のようにゆっくり攻撃することやディフェンスを山のよう固めることもすることなど、局面によって攻撃リズムを変えないと勝てないこと、麻雀などのゲームでもそれは同じであることを説明すると生徒たちはよろこんで聴いている。さらに、恋愛においても、相手をくどくのに同じパターンばかりではだめで、風のようにはやくメールを繰り返し送ったあと、しばらく山のように動かず突然メールを送るのをやめれば、相手が気にするようになって振り向かせることができるかも、などと話す。さらに、J1に昇格した郷土山梨のサッカーチームであるヴァンフォーレ甲府の「ヴァンフォーレ」は「風林火山」の「風林」の意味であることを説明する。
さらに、武田信玄の家臣の一人山本勘助に注目させる。2007年のNHK大河ドラマ『風林火山』の主役である。井上靖の小説『風林火山』あるいは三船俊郎主演の映画『風林火山』では、勘助は50歳ぐらいになってから信玄に軍師として仕えるようになったこと、勘助は上杉謙信を破り、北の海から南の海まで中部日本を縦断する領土を持つことが夢であったこと、しかし、啄木鳥戦法を上杉謙信に見破られ、その責任をとるため、自ら家臣を率いて上杉謙信本陣に突っ込もうとして討ち死にしたことなどを話す。特に、啄木鳥戦法を見破られ、武田の陣営の背後から上杉軍が攻撃してきたことを知り、勘助が動揺し信玄に詫びた時、信玄が「まあ、勘助気にするな、戦いははじまったばかりだ」と信玄が勘助を慰める映画のシーンを話すと生徒はよろこんで聴いている。
上杉謙信との5度の戦い(川中島の戦い)は結局引き分けだったが、その後病気をおして信玄は全国統一めざし、京都めざして進軍する。その時、浜松城に籠もる徳川家康との戦い(三方原の戦い)の話も生徒がよく聴く。
家康は武田軍の接近に伴い、浜松城に籠城して戦い、時間を稼ぎ織田の援軍を待つ作戦にでる。しかし、その家康をあざ笑うかのように、武田信玄の軍勢は浜松城を素通りしてそのまま行ってしまう。若い徳川家康は、バカにされたと思い、浜松城を出て武田軍を背後から鶴翼の陣形で襲おうとするが、それは信玄が家康をおびき出すための作戦だった。逆に武田信玄に三方原で魚鱗の陣形で待ち伏せされ、袋のネズミ状態となり、家康軍は無惨な敗北をする。あの全国統一を最後に成し遂げ、江戸幕府を開いた徳川家康でさえ、武田信玄に負けたのだから、武田信玄が戦国最強ということになる、などと説明。その後、信玄は、先を急いでいたため、家康を深追いすることがなかったので家康は助かったこと。さらに、次は織田信長と戦うはずであったが、その直前で武田信玄が病死したため、武田軍は全軍引き上げたこと。信長も家康もよろこんだことなどを伝える。
ここで、もし、信玄と信長た戦っていたらどっちが勝ったか、という質問を生徒にする。
その答えは、出さない。ただ、伝説の話だがと断り、信玄が死ぬときに3つの遺言を残したことを話す。
3つの遺言とは、
a死後3年間は自分の死を隠せ(そのために影武者をたてろ)→これは黒沢映画『影武者』で有名な話だが、これはまったくの伝説であろう。信玄は自分の死後はしばらく大人しくし領国経営に専念しろというようなことを言ったのが誇張されたか。
b上杉謙信とは仲直りせよ
c織田信長には気を付けろ
さて、この遺言は守られたか、特に、信玄の跡継ぎ武田勝頼は守っただろうか?それは次の織田信長の長篠合戦のところで確認しようということにして授業を終える。
実際は次の授業の話だが、次の授業では信玄の虚像を完全に打ち破る予定となっている。
次の授業は織田信長に関する授業となるが、鉄砲を初めて上手に使用したとされる長篠合戦のところで、武田勝頼VS織田信長の戦いの模様を伝える。そして、勝頼が甲州騎馬軍団を過信したため、信長の鉄砲隊の三段打ち戦法にやられたことを説明したあと、生徒に質問する。まず、信玄の遺言を勝頼は守ったかどうか、生徒は守ってないと答える。次に、もしお父さんの武田信玄が生きていて信長と戦ったらどうなっていたかと質問する。生徒は、「きっと信玄が勝った」などと答えるが、私はそれを否定する。
おそらくお父さんの信玄が生きていても同じ過ちをし、信長に敗れ去っていたのではないかと。つまり、信玄は信長と戦って惨めな敗北をする前にうまいタイミングで死んだため、戦国最強という伝説で彩られることになった。悪いのはすべて息子の勝頼だということにされてしまっている。もし信玄が死なずに惨めに敗北していたら、戦国最強などと称えられ、今のような人気のある戦国大名にはなれなかっただろう。信玄は死ぬタイミングがよかった。所詮甲斐国の田舎の大名が、鉄砲はじめ物量豊富に手に入れることのできる都会の大名織田信長には勝てはしなかっただろう、と解説する。信玄はいい時に死に、息子勝頼がすべてを背負ってくれて助かったという説明に生徒たちも納得している。
|