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- 随筆「その日・その時」
随筆「その日・その時」①
この随筆は毎月1日に更新致します。その日に更新が難しい場合は翌月1日とします。
過去の記事は保存されませんので、ご了承ください。
当分の間、このペースで書いてみたいと思います。どうぞよろしくお願い申しあげます。
「むぎめし茶屋」から“藍染”へ
八王子の上柚木に自宅があった時、子供達2人も少し手がかからなくなったので、何か仕事をしたいと思った時、隣家の店舗が空いていたので、借りられる事になり、昔からどこにでもあるような田舎風な雑貨屋を始めました。隣と云っても店まで2〜30mはあり、自宅との往復を1日に何十回もして大変でした。家事と店の両立で疲れ果てながらも頑張っていましたが、夫は雑貨屋のおばさんだと気に入りませんでしたが、それに乗じて、自分の小使いは上げてくれというような人でした。
そうこうしているうちに、夫は帰らぬ日もあるので問い質したら、女子大生と仲良くしていると申します。私は結婚当初より別れ話を持ち出していたのに聞き入れられず、その頃で十年位も経っておりましたので、この時とばかり離婚をせまり、子供2人を向うが引き取ってその人と再婚が決まったのです。夫は最後迄ここに本当は居たいのだと云いつつ、子らをつれて出て行きました。子らが行ってひとりぼっちになった淋しさは、母としては当り前、でも、何の生活の保証もないこの私と居るより、幸せだろうと思って自分を慰めました。
そうこうで、隣の店での1年が経った頃、同じ都道の並びの我が家でもそれが出来ることに気づき、改装して、そっくり自宅に店を移しました。ところが間もなく、その出た隣に、見知らぬ、顔も体もゴッツい20代のおねえちゃんが、私と同じ雑貨店を出してしまいました。当然、向うにとっては、先に出来てるライバル店ですので、ことごとに私の方の店の悪口を云ってる風で、次第にこちらは落ち目になって行きます。けれど私は40才位の大人の女性、向うは男そちのけの勢いと若さがあるし、対抗意識を出すのも、自分のインテリとしての誇りがゆるしません。
一切黙って耐えながら、これからどうしようかと、目をつむり座禅もどきの事をして一心不乱に考えました。行き着いた結論は、“同じような店なら誰にでも用意に出来る”ということでした。私はすっかり目ざめました。「人の真似の出来ない私だけの仕事をして行こう」と決心し、20代の貧乏のドン底の頃に心あたためていた、むぎめしの店のことを思い出しました。私は22才の時に食養(現・自然食)を知ってより玄米と白米の中間的な麦飯なら一般人にも受けそうだ、これだと思いました。
「むぎめし茶屋」の看板は杉板を張って縫いつけて竹竿で揚げ、ガラス戸には、和紙で墨字の屋号を書いて貼り付けました。すべて手造りの文字で意気揚々でした。自然食風のこの店は、話題を呼び、風流の分かるお客様が増えてきました。この時に、衣装は木綿の藍染や絣の着物で赤だすき、前掛は絣です。女子美の工芸科で教えを受けた柳宗悦の民芸思想の一環としての「藍染」がここで私の生活の主流として出てくることになります。
40〜41才頃。 最初の看板。 左側は「亜紀枝自然食品センター」とある。これは1〜2年位でやめた。そのあと、「もめんの店」へ。 |
手作りの看板。 背後は、隣の借りてた店の自宅(大家さんの)部分。 |
手作りの旗。 お客さん2人。 |