今週の憲法タイトル
No.111 2002.7.29



世界中の青年に銃をとらせない
――『今週の憲法』編集部



――軍事化グローバリズムヘの対抗

 9・11事件以後の世界は、武力行使の抑制力を失い、国際法は公然と破壊され、ブッシュ、シャロン、小泉などは“軍事化グローバリズム”のブランドとなった。“対抗商品”は国際紛争の非軍事的解決のジャンルで開発されるべきものだが、それが遅れている責任は本紙にもある。この自覚からいくつかの提起をしておきたい。

 なお軍事化グローバリズムの対抗戦略は、地球市民の視点が必要だ。日本だけ戦争に「巻き込まれまい」としても、それが困難な状況を直視せざるをえないためである。“有事演出狂”の米国に追随している日本や、アフガンに対するNATO諸国の対米協力といった事態がそれである。

 かつて社会党は「青年よ、再び銃をとるな」と再軍備や日米安保条約に反対したが、それも日本の青年に向けてのこと。いまや「世界中の青年に銃をとらせない」ための智恵と主体形成が求められている。しかし、もともと憲法は「日本だけ」という思想ではなく、歴史的には「戦争の惨害から将来の世代を救う」ことを前文冒頭に掲げた国連憲章の延長上にあり、しかも内容において国連憲章を確実に発展させている。


――「人間の尊厳」との整合性

 憲法の基本理念であり、民主主義の基本原理でもある「人間の尊厳」は、国連憲章では前文に、日本国憲法では「個人の尊重(13条)」や「個人の尊厳(24条)」として表現されている。この観点からいうと、ひとたび武器をとって殺しあえば、どんな理由があろうと、それを根こそぎ破壊する。

 それにもかかわらず国際法は、自衛戦争や民族解放闘争などを容認してきた。それはより多くの人々を救い、より大きな「正義」を実現するために多少の犠牲はやむをえない―という考えが、国家、民族、宗教、階級などの名において主張され、それがおおむね容認されてきたためだ。

 しかし「人間の尊厳」からすれば、一人一人の生命が地球より重いため、これら集団の多数ないし中枢を存続させるために、少数ないし周辺を犠牲にするようなことは、どんな理由があってもできない。したがって憲法が予定したように、不戦・非武装を徹底しなければ「人間の尊厳」とは整合しないというべきである。

 この点からいえば、国連憲章が加盟国の自衛戦争や国連による制裁戦争を認め、またほとんどの国の憲法が軍事力を手放さないという現実は、明らかに自己矛盾を抱えている。むろん自衛隊を持ついまの日本も同じこと。「戦争は必要悪」という表現も、この矛盾を自覚してのことだろう。


――基本的人権としての「生命権」

 少数者の人権が「公共の福祉」のために犠牲にされることがある。しかし通常、そのために生命を奪うことまで許しはしない。それを許容するのは、戦争と死刑制度しかないのである。

 日本は憲法(36条)で残虐刑を禁止しておきながら、「死刑の執行方法等は残虐とはいえない」という理由で存続させている(1948年3月12日、最高裁判決)。その後、国際社会は「基本的人権としての生命権」「生命に対する権利」を重視するようになり、1989年12月、国連総会はついに死刑廃止議定書(市民及び政治的権利に関する国際規約の第二選択議定書)を採択し、91年7月に発効した。いまや世界は、確実に死刑廃止の方向にある。

 ただし議定書第2条は、戦時には死刑適用を認めている。戦争とは人間の尊厳の根幹である「生命権」を否定することだから、戦争を認めて死刑を認めないわけにいかないのだろう。なお日米両国は、イスラム諸国、中国、メキシコとともに議定書採択に反対した。

 ところで、戦争と死刑という「人間の尊厳」とは矛盾する双璧のうち、その一方について「生命権」を論拠に廃止するのが世界のトレンドだとすると、もう一方の全面的な違法化についても、可能性がないとはいえない。かつて合法だった決闘や仇討ちという、個人的な紛争解決手段が否定されたことも、戦争という国際的な紛争解決手段の禁止に可能性を示唆しているといえる。


――平和的生存権と「われら」市民の責務

 憲法前文の「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免れ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」。この思想は第一に、「全世界の国民」が「ひとしく」権利主体とされているため、個々の国家や民族を単位とする安全保障を超越している。そこで日本は、国連の強化をはじめ世界的な規模による平和創出体制の整備や、「全世界の国民」レベルの平和協力ネットワーク作りに努めなければならなくなる。

 第二に、恐怖と欠乏から免れる権利というからには、日本はあらゆる戦争の恐怖をなくさなければならない。したがって国際紛争の軍事的解決の禁止、世界的な“刀狩り”(非武装化)などに向け、日本は先駆ける必要がある。また恐怖と欠乏の原因となる食糧、失業、エネルギー、環境など、諸問題の解決についても同様だ。

 第三に、平和的生存権を「確認」したのは、政府ではなく「われら」日本国民だから、この憲法を大切にする市民には、上記の諸課題を実現する責務がある。その上「日本国民は(略)政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意」したから、有事法制をつぶすとりくみは“順法闘争”ということになる。

 なお、大脇雅子参議院議員が2001年8月に発表した「平和的生存権保障基本法の構想」(本紙第68号参照)の前文が「平和的生存権を脅かす事態を解決することは、国・地方公共団体等の基本的な責務であるばかりでなく、社会全体の責務として自覚されなければならない」としているのも、上記「われら」としての自覚を指すと考えられる。


――制定当時の与野党の憲法理解

 以上のようにこの憲法は、「世界中の青年に銃をとらせない」智恵と主体形成を迫ってくる。それは、国際紛争の非軍事的解決に向けた政策と運動に尽力することである。にもかかわらず、それには与野党ともきわめて不十分で、いつも自国が戦争に巻き込まれるかどうかを優先してきた。その原因は、憲法制定当時、与野党の憲法理解が適切でなかったためでもある。

 憲法制定議会における吉田内閣は、明言しないまでも、日本有事の備えはやがて組織されるはずの国連軍によると考えていた。たとえば吉田は、日本の侵略者は「全世界の敵」だから「世界の平和愛好国は相寄り、相携えて、この冒犯者、この敵を克服」すべきであり、そのような「国際的義務」が「平和愛好国もしくは国際団体(国連=編集部注)」
に「自然生ずる」―と答弁(1946年6月26日衆院本会議=本紙第12号2頁参照)。

 このような方針では、国連軍に代理戦争してもらうという「不戦憲法」にすぎないことになり、日本は当然それに支援協力するはずだから、その関係は後の日米安保条約と本質的に変わらない。戦争は“助っ人”にしてもらうというこの態度が、「人間の尊厳」や「平和的生存権」の思想と矛盾することはすでに述べた通りである。

 しかし野党はそのような批判をしていない。社会党の鈴木義雄は「早く国連に加入し、国連に安全保障を求めよ」と激励し(総理答弁と同日=本紙第12号2頁参照)、共産党の野坂参三にいたっては「侵略戦争の放棄」だけにすべきで「正しい戦争」をやれるようにせよと主張した(同、6月28日=同上参照)。吉田は、この野坂発言に真っ赤になって怒り「国家正当防衛権による戦争」が正しいという考えは「有害」で、「戦争を誘発するゆえん」と反駁したことは、語り草になっている。


――非軍事的解決のための政策と運動

 与野党のとった態度の背景については省略するが、「個人の時代」といわれるいまこそ憲法を再評価し、国際紛争の非軍事的解決の徹底をきわめるべきだ。とくに、9・11事件以後は事態が切迫しており、急がないと米国が戦争をさらに拡大し、連動して、国家的・民族的殺人鬼が続出するおそれさえある。それを防ぐため、次の3つを例示する。

(1)国際的な「犯罪対司法」の確立

 ブッシュ政権の「テロ対報復戦争」がモデルになっているが、本来これは国際的な「犯罪対司法」の範疇で対処すべき問題である。ただし「戦争を廃絶するには、戦争を完全に違法化した上で、国際法と国際裁判所による紛争解決を確立することが必要」となる(河上暁弘:「『戦争』から『法と裁判』ヘ―憲法第9条の思想的原点・『戦争非合法化』論の基本構想」、『専修法研論集』第30号、2002年3月)。

(2)市民による非暴力直接介入

 戦争をだれもやめさせようとしないなら、危険を覚悟の市民による非暴力直接介入という手段がある。たとえば国際社会から孤立感を深めたパレスチナのNGO連合は、「占領に対する抗議と非暴力の大行動」を世界に呼びかけ、諸外国から常時数百人が監視と抗議の行動に参加している。これを数千数万の規模にすることができないものか。

(3)国際紛争を平和的に解決する緊急円卓会議

 国際紛争の非軍事的解決に向けた方策を探ることは、超党派的な研究と実践の緊急課題である。そのことだけで同じテーブルにつく。他にどんなイデオロギー的条件も、憲法観・歴史観や中期的政策の一致も必要ない。あえていえばそれは「人間の尊厳」ネットワークであり、戦争の恐怖に脅える姿を知って、知らないふりのできない人々の集りである。



文責・河野道夫
〈憲法サポーターの皆様へ〉編集担当者(河野)は、7月31日付け定年退職となります。8月以降について は、発行責任者(福島幹事長)のもとで検討中のため、とりあえず8月は休刊といたします。


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