山中貞雄を御存じですか?


1934年1月 小津安二郎(右)と

 

 山中貞雄と聞いてピンとくる人が日本人の映画ファンの中にどれほどいるでしょうか。
 私にのまわりの知人の映画ファンの中では全体の一割というところでしょうか?
 その名を一度も聞いたことのない人は本屋さん(出来れば街の大きな本屋さん)、又は図書館へいって、サイレント映画時代から現在までの日本映画の歴史について書かれた本を探して開いてみましょう。

 一番多く取り上げられてるのは世界の黒澤明、小津安二郎、溝口健二。その次が内田吐夢、成瀬巳喜男、木下恵介、市川崑等など。
 その中でページ数は少ないが必ずと言っていい程出て来る名前が山中貞雄です。探してみて下さい。
 しかし探し当てられた人でそのタイトルから魅力を感じた方が何人いるでしょう?
 出てくる名前と言えば「抱寝の長脇差」「国定忠治」「街の入墨者」「百万両の壺」「人情紙風船」など、これらの題名だけで「面白そう」とか「見てみたい」などと言われた試しは皆無に等しいです。しかし山中は当時、稲垣浩、伊丹万作らとともに小市民時代劇の作家として若者から指示を受けていたのです。そこには決して偉大な、立派な人々は出て来ません。けちなヤクザ者やその日暮しの浪人などが主人公です。そんな男どもの気ままで不器用で甘くて苦くて切ない人生を暖かい眼差しで見つめているのが山中貞雄の映画です。

 山中貞雄は明治42(1909)年11月8日京都市に生まれました。少年時代からカツキチ(=活動写真気違い=映画狂)で京都一商卒業後、先輩のマキノ正博を頼ってマキノ映画に入社。その後嵐寛寿郎プロに移り、助監督をしながら多くのシナリオを執筆。そして昭和7(1932)年、長谷川伸の「源太時雨」を自ら脚本化した「抱寝の長脇差」で22歳で監督デビュー。当時阪東妻三郎プロ、片岡千恵蔵プロ、市川右太衛門プロ、など時代劇スター主催の独立プロがいくつかありましたが、寛プロは今風にいうならB級映画の撮影所で、その作品は阪妻プロや千恵プロのものにくらべてあまりインテリ層には注目されませんでした。しかし、のちに生涯の親友となる岸松雄が「キネマ旬報」でこの「抱寝の長脇差」を絶賛したために山中貞雄は一躍注目を浴びます。続いて「小判しぐれ」「小笠原壱岐守」「口笛を吹く武士」「右門捕物帖三十番手柄・帯解け仏法」とたてつづけに話題作を発表します。そしてアラカン(当時のファンは「嵐寛寿郎」を略してこう呼んでいた)の当たり役、鞍馬天狗シリーズの一編「天狗廻状・前篇」を最後に寛プロを去ります。

 昭和8(1933)年、日活に移った山中貞雄は大河内伝次郎主演「薩摩飛脚・後篇」を撮る。これは前篇を撮った伊藤大輔が日活を退社したために会社から続編を乞われた為に撮ったものです。続いて再び大河内伝次郎と組んだ「盤嶽の一生」(ばんがくのいっしょう)を発表。騙されても騙されても懲りずに騙される人のよい侍、阿地川盤嶽の活躍を綴った愛すべき一編です。そしてサイレント時代の最高傑作といわれる「鼠小僧次郎吉(江戸の巻・道中の巻・再び江戸の巻)」で監督二年目は締めくくられます。


「鼠小僧次郎吉」(1933)撮影中 大河内伝次郎(右)と

 

 昭和9(1934)年、は出張という形で片岡千恵蔵プロで三本の監督作品を撮ります。最後のサイレント作品「風流活人剣」、サウンド版「足軽出世譚」、トーキー第一作「雁太郎街道」です。「足軽出世譚」はラストの一言「わからない」だけがトーキーになっているユニークなサウンド版。「雁太郎街道」はフランク・キャプラ監督のアカデミー作品賞受賞作「或る夜の出来事」をアレンジした股旅やくざもの。

 そして昭和10(1935)年、26歳。日活に復帰したこの年は山中貞雄にとって作品的には最高の年だった様です。ある宿場街を舞台にした情感溢れる「グランド・ホテル」映画「国定忠治」、現在見ることのできる数少ない作品のひとつ「丹下左膳余話・百万両の壺」。稲垣浩との共同監督作品「関の弥太ッペ」(山下耕作監督によるリメイクがお薦めです)。前進座と初めて組み世間に冷遇される入墨者(前科者)の哀しみを描いた山中貞雄全監督作品中最高傑作との呼び声高い(それが確認できないのが余りにも悔しい)「街の入墨者」(キネマ旬報ベストテン2位)。応援監督として「大菩薩峠」。作品には恵まれましたが、この年の暮れに愛する母が亡くなってます。


「丹下左膳余話 百万両の壺」(1935)記念写真

 昭和11(1936)年は戦前日本映画の黄金期。溝口健二の「浪華悲歌」「祇園の姉妹」、内田吐夢の「人生劇場」、伊丹万作の「赤西蠣太」、小津安二郎の「一人息子」など、みな昭和11年の映画です。しかし加藤泰著「映画監督・山中貞雄」にもある通り、山中貞雄にとって作品的には不振の年だった様です。御正月第一弾「怪盗白頭巾・前後篇」。再び前進座と組んだ「河内山宗俊」。大河内伝次郎主演「海鳴り街道」。いずれも当時の評判は著しくありません。キネマ旬報ベストテンにも一本も入っていません。この年の作品で唯一現存する「河内山宗俊」は「百万両の壺」や「人情紙風船」に較べると確かに雑なつくりですが、とても見応えがあり、山中貞雄の叙情性を知る上で重要な作品です。

 昭和12(1937)年、山中貞雄は自分の生まれ育った京都を捨て、東京に移る決心をします。そして日活をやめ、PCL(のちの東宝)に入社することになります。日活京都への置き土産は「森の石松」。御存じ森の石松が清水の次郎長のもとで男をあげて最後には不様に死んで行くというあの物語ですが、当時リアルタイムで見た人たちには忘れられない映画だった様です。特に石松が殺される場面は思い出しただけでもゾッとするとのことです。「街の入墨者」の頃から見えはじめてきた作品の暗さがこの頃にはかなり色濃くなり、PCL入社第1回作品「人情紙風船」はその頂点とも言える映画です。河原崎長十郎と中村翫右衛門をはじめとする前進座の面々と三たび組んだ作品。歌舞伎の「髪結新三」に取材した物語。江戸のとある長家の人間模様をその住人、浪人者の海野又十郎と髪結新三を中心に展開して行きます。この二人の踏んだり蹴ったりな毎日をただただつづった映画です。そしてこの「人情紙風船」の完成試写の日に召集令状を受け取ります。その時手が震えてたばこに火をつけることが出来なかったそうです。「『人情紙風船』が俺の最後の作品では浮かばれんなァ」と呟いたといいます。多くの仲間と別れを惜しみながら10月に中国戦線へと旅立ちます。

 昭和13(1938)年のはじめ、山中貞雄は南京のはずれの句容で小津安二郎とあう。将来作りたい映画の話などをして別れたそうです。7月に入り急性腸炎を発病。中国軍の黄河決壊作戦による洪水でかなりの水を飲んだことが原因と山中は手紙に書いています。病状が変わることはなく、9月17日午前7時死亡。28歳10ヶ月の生涯でした。嵐寛寿郎、岸松雄、稲垣浩、三村伸太郎、中村翫右衛門、河原崎長十郎など多くの仲間が山中貞雄の追悼文を書いています。中でも伊丹万作による「人間山中」は名文で山中貞雄の人間性をたたえ、山中貞雄の映画を愛情を持ってけなしています。

 昭和16(1941)年、没後三年。京都の菩提寺、大雄寺に山中貞雄之碑が建てられます。碑文は親友の小津安二郎によって書かれました。小津が岸松雄に「『山中ほどの仕事をしてもそれが僅か六百文字内外に詰められてしまうのかとおもうと寂しいな』とあまり上等でない珈琲をすすりながら小津安二郎はぼそぼそと私につぶやいて、『しかし俺たちが死んだってこんな碑は建ちっこないんだから、まあそう考えれば幸福な奴さ』とその後つけ足した。」と言ったそうです。

 現在山中貞雄が監督をした映画でフィルムが残っているのはたった三本だけです。二十本以上も作られたと言うのにどうしてなのでしょうか。当時日本の映画は消耗品でした。欧米のように映画を芸術とは考えられていませんでした。それにそれを後世に残そうと言う考え方もなかった様です。だから次から次へと映画を作り、捨てられていきました。特に寛プロのような小さな撮影所ではそれが当たり前だった様です。山中が死んだ時点で「抱寝の長脇差」などはプリントが散逸してたそうです。現在そういった独立プロの作品で見ることのできる作品があるのならそれは当時の映画館主が大事に保管していたものだとかフィルムコレクターの宝物がずっと蔵に眠っていたものだったりすることが多いです。それでも大きな会社、日活、松竹などはフィルムを保管していましたが、当時のフィルムは可燃性。ちょっとした熱や火であっという間に燃え広がり、フィルム倉庫が全焼。なんてことがあった様です。それに重なる戦災。戦前の日活作品が現在ほとんど残っていないのはそういう理由です。キネマ旬報社の映画史の傑作本「映画史ベスト200シリーズ」の「日本映画200」に載っている戦前製作の日活映画(二十五本)で現在見ることの出来ない映画を全部並べてみましょう。「京屋襟店」(’22田中栄三)「街の手品師」(’25村田実)「荒木又右衛門」(’25池田富保)「紙人形春の囁き」(’26溝口健二)「足にさはった女」(’26阿部豊)「忠次旅日記・三部作」(’27伊藤大輔)「新版大岡政談・全三話」(’28伊藤大輔)「灰燼」(’29村田実)「生ける人形」(’29内田吐夢)「仇討選手」(’31内田吐夢)「街の入墨者」(’35山中貞雄)「人生劇場」(’36内田吐夢)「蒼氓」(’37熊谷久虎)「裸の町」(’37内田吐夢)「限りなき前進」(’37内田吐夢)(「限りなき前進」は実は戦後に編集されたものが存在するのだが内田吐夢が「これは『限りなき前進』ではない」と主張していたのでここに挙げた)「海を渡る祭禮」(’41稲垣浩)以上二十本(三部作は三本として数えた)どれもその内容を記した文章を読むだけでワクワクしたり、涙が出たりするものばかりです。当時の日活は世界的にみてもかなりレベルの高い映画を作っていた様です。

 これが山中貞雄の簡単なバイオグラフィです。近ごろの映画ファンの中には日本映画は見ない、時代劇は見ない、モノクロ映画は見ないという人がかなりいます。山中貞雄の映画はすべて日本映画で時代劇でモノクロです。敬遠されやすい要素ばかりですが、是非一度山中貞雄の世界に触れてみて下さい。日本映画は黒澤、小津、溝口、成瀬ぐらいしか知らない人も山中貞雄を見て戦前の京都映画界の底力を実感して下さい。上映時間も三本あわせて4時間13分(「タイタニック」を二回見るより短い)なので気軽な気持ちで見て下さい。