歴史は古い。大正11年、京都師範OBによって組織された蹴球団に始まる。一旦この蹴球団は消滅するが昭和12年になって紫郊クラブの名で再発足する。
京都師 範は戦後の京都学芸大学時代にかけて紫野地域にあり、同校OBのスポーツクラブ(郊外 スポーツ)はすべて紫郊クラブを名乗っていた。この名称で昭和28年の国体に初めて出来た教員の部に出場、東京に敗れたものの2位になる。

昭和29年にも遠続して国体出場権を得た。これを機により一眉の飛躍を目指 そうと考え、名称を改めてはということになった。言い出しっぺは再発足一期生の田口惟 胤(運命研究家)だった。四条河原町の喫茶店にメンバーが集まり、田口の判断で京都紫 光クラブと改称する。

そして、教員チームだった京都紫光クラブも、昭和33年には外部 からの選手も受け入れることになり、一般チームとして市民サッカークラブに衣替えす ることになって再出発するのである。
また、練習場もクラブの代表である森貞男氏が、昭和 35年に山城高校に転勤したことによって同校で練習することが多くなった。昭和44年4 月には待望の少年団チームを発足させ、欧州のスポーツクラブ(アヤックス)を手本とす るチーム作りに取り組んだ。当然チームは複合体になる。

オール紫光のトップチームを頂 点にサテライトチーム、社会人チーム、中学生チーム、小学生チームまで約400人での ピラミッド型養成になっている。こうした長年のユニークで地味な活動が認められて昭和52年に京都紫光クラブは、文部省から「第一回社会体育優良団体」の表彰を受けた。