映画「おくりびと」が日本の映画賞を総なめにし、米国アカデミー賞まで受賞してしまった。

 私が、主演俳優の本木雅弘君と交信するようになったきっかけは、十五年前『納棺夫日記』を上梓して間もなくのことであった。突然電話があり、彼がインドを旅した本に『納棺夫日記』の中の一文を引用させてくれという申し出であった。快諾してしばらくしたら、『HILL HEAVEN』と題された本が送られてきた。インド・ベナレスのガンジス川の岸辺で送り火を手にした上半身裸の彼の写真に「蛆も命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた」という一文が添えられてあった。それは一人暮らしの老人が真夏に亡くなって一ヶ月も放置されていた遺体を私が納棺に行った時の文章の一部であった。

<何も蛆の掃除までしなくてもいいのだが、ここで葬式を出すことになるかもしれないと、蛆を掃き集めていた。蛆を掃き集めているうちに、一匹一匹の蛆たちが鮮明に見えてきた。そして蛆たちが捕まるまいと必死に逃げているのに気づいた。柱によじ登っているのまでいる。蛆も命なのだ。そう思うと蛆たちが光って見えた>



インドのベナレスは、ヒンズー教の聖地中の聖地で、古代では<光あふれる所>を意味するカーシーと称されていた。ヒンズー教徒にとってここで荼毘されて聖なる川ガンジスに遺灰を流されること願っている。人々は遺灰が流れる川で沐浴し、岸辺では死体を焼く煙の中を、乞食や巡礼者や子供や犬などがうろつき、死を待つ人と聖者と牛が悠然と座って居る。まさに生と死のカオス。そんな場所に立ち、当時二十代の彼が「蛆の光」に共感していることに私は驚きを覚えた。なぜなら蛆の光こそが『納棺夫日記』のテーマだからである。もし映画化することがあれば本木雅弘君をおいて他にいないと確信した。あれから十五年の歳月を経て彼は「おくりびと」という光あふれる美しい作品を世に出した。

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 私が納棺の仕事をし始めた昭和40年代は今日と違って社会の目は冷たく惨憺たるものであった。
叔父に「親族の恥」と罵倒された日の日記にこんなことを書いている

「職業に貴賎はない。いくらそう思っても、死そのものをタブー視する現実がある限り、納棺夫や火葬夫は無残である。昔、河原乞食と蔑(さげす)まれていた芸能の世界が、今では花形になっている。士農工商といわれていた商が、政治をも操る経済界となっている。そんなに向上しなくても、せめて社会から白い目で見られない程度の職業に出来ないものだろうか」

 私 が過去に抱いていた忸怩たる思いを映画「おくりびと」が見事に解消してくれたように思う。このことは葬祭業に従事するものにとっては大きな力となり、業界の向上にもつながることだろう。
 しかし今日の葬式現場の実態は、特に都会などでは、納棺も映画のように親族に囲まれてなされておらず、親族が立ち会わないまま病院の霊安室などで納棺されたお棺が直接葬式会場へ運ばれている。また死者と語り合う時と場であったはずの通夜も告別式へと様変わりしている。
 こうした現状を葬式の九割近くを仏教葬で行っている仏教界はどのように思っているのだろうか。映画「おくりびと」の送り先が違うとか、ほんとうのおくりびとは葬式の導師である僧侶の役目であるとか云う前に、死者と語り合う場の大切さを説くべきではないだろうか。
人と人の絆、家族の絆、死者と生者とのつながり、そんなあたり前のことを忘れかけていた現代人に何が大事か気づかせてくれた映画でもあった。

 この映画が誕生するまで紆余曲折があったことを私は知っている。その過程で、映画化
を発案した本木君をして諦めさせなかったのは、15年前インドで「ここでは生と死があたり
前のようにつながっている !」と実感した体験、即ち蛆の光に感応した一瞬があったから
だと私は思っている。自我を滅した生死一如の眼にしか蛆は光って見えないのである。
その視座から見える光景は、人工衛星「かぐや」が送って来る一つの生命体のような地球の映像にも似た美しい世界である。そんな<いのち>輝く美しい世界に憧れる求道者のような本木雅弘君に敬意を表し、心から喝采を送りたい。
                                             

映画「おくりびと」と「納棺夫日記」に<かはりめ>あり

 この映画が評判になるにつれ「なぜ原作者の名が記されてないのか」とよく聞かれた。
「納棺夫日記」を読んでいた人からは原作ではないかと問われた。私はその度にあいまいな
返事をしてやり過ごして来たが、それは私の生き方に関わる問題であった


 平安時代中期に「往生要集」を著した恵心僧都源信という高僧が比叡山にいた。紫式部の
「源氏物語」に「横川の僧都」として登場している。後の法然や親鸞にも影響を与え、親鸞は七
高僧の一人として讃えている。
 源信は弱冠十五歳にして当時の村上天皇の前で仏法を説く講師に選ばれ、下賜された褒美
の品(織物)を一人故郷で暮らす母親へ送ったところ、母は源信を諌める和歌を添えてその品
を送り返してきた。その和歌は

後の世を渡す橋とぞ思ひしに 世渡る僧となるぞ悲しき まことの求道者となり給へ


 母親の諌めの言葉で我に返った源信は、横川の恵心院に隠棲して〈後の世を渡す橋〉
となる道を選んだのであった。

 私は納棺の現場で<人は死んだら何処へ往くのだろう?>と真剣に考えるようになっていた。
 いくら本を読んでも頭で考えてもわからなかった。やがて死に往く人や死者たちから死の実相
を教わり、死後の世界をイメージとして描けるようになった。それは蛆も光って見える塵一つな
い美しい世界であった。これが宗教の云う<永遠>というものであり、仏教の説く<浄土>なの
だと思った。うれしくなって<後の世を渡す橋>の一助になればと「納棺夫日記」を著したので
あった。
 しかし、映画「おくりびと」は<世渡る>納棺師が描かれていた。即ちヨーロッパ近代思想の
人間愛で終わっていた。私は著作権を放棄してでも「納棺夫日記」と「おくりびと」の間に一線
を画すべきと思った。妥協することの出来ない一線であった。
 私の住む富山県内の葬儀は、現在も八十%以上が浄土真宗で行なわれている。お通夜
などで蓮如の御文「白骨の章」がよく読誦される。その中に「後生の一大事」という
言葉がある。
また別の御文に「それ八万の法蔵を知るというども後世を知らざる人を
愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりというとも後世を知るを知者とすといえり」
とある。現代の著名な知識人が死に直面して哀れなほどうろたえているのを見るたびに
蓮如のこの文を思い出す。何も蓮如を引き合いに出さなくとも、あらゆる宗教は後生を
一大事としているのである。
 この世を安心して生きるには、後の世も安心であることが絶対条件なのである。
 それは私が納棺の現場で死者たちから教わった真実であり、ブッダが説く真理であった。


 そんな境地を理想として、安心して静かに生きようと思っていた矢先に、生活のリズムが狂
わされる事件が起きた。
 2月23日1時、映画「おくりびと」のアカデミー賞受賞のニュースが流れると、クレジットタイトルに
名前も出ていないのに何がどうなったのか、津波のようなマスコミ攻勢に遇い、面食らってしま
った。
 その上取材に来た記者たちのほとんどは<変わり目>が理解できないため、いくら説明して
もカットされ、私の意に反する記事や映像が流れる結果となった。
あきれるとともにへきへきして3月1日を期して取材を断ることにした。
どうか私のささやかな我がままをお許し願いたい
                               2009年3月1日記 青木新門



 参照 かはりめ>=「慈悲に聖道・浄土の<かはりめ>あり。聖道の慈悲といふは、もの
をあわれみ、かなしみ、はぐくむなり。しかれども、おもふがごとくたすけとぐること、きわめてあ
りがたし。浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大悲大慈をもって、おもふがご
とく衆生を利益するをいふべきなり」  −『歎異抄』第四章より

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おくりびと



映画「おくりびと」が映画作品として稀有な秀作であることに異論はないが・・・・・・・・