風の蛙 蛙の賢者掌話2

志咲摩衣


 

 春の蛙は、眠い。
 とろりとあたたかな意識の水底。夢のあいだに少年の日の記憶を置き去りにしたまま、束の間の冬の微睡みからぼんやりと覚醒する。目覚めはいつも哀しくて、できうることなら、このまま果てなき眠りにつきたいと切なく願う。もしくは、いっそ人であったすべての日々を忘却の彼方に失ってしまいたい──と。想いはいつまでたっても人のそれなのに、人としての生はとうに奪われていた。
 最後にくちづけを乞うた貴婦人は、白く優しげな貌に酷薄な笑みを湛えて、その磨きあげた長い爪でわたしの目をくりぬいた。王家の遠縁であるそのひとは、わたしの膚を熟れた果実の皮を剥くようにはぎとりながら告げたのだ。
「もうこの国に貴方の居場所はないのですわ、麗しの王子様」
 母が亡くなってから、三年の月日が流れていた。

 

 

「……アル?」
 あたたかな色の声が耳に心地よくて、凍えた夢が光に溶ける。
 ふいに目元にやわらかなぬくもりを感じて、ゆるゆると目蓋をあけると、間近に灰色の瞳があった。
「リディア? どうかしましたか」
 アルフィリオンが灰色の瞳のなかの陰に気づいて問いかけると、リディアは小さくかぶりを振って微笑みかえした。
「ゆうべは遅かったみたいですね。でも、もう陽が高いんですよ。さ、起きて」
 言いながらアルフィリオンの上掛けを勢いよく払いのけ、まだぼんやりしている良人の頬に軽いくちづけを落としてから扉の向こうへと消える。ふと、彼女がくちづけてくれた目元と頬を指でたどると、かすかに湿った感触がして、アルフィリオンは自分の涙の跡に気づいた。

 

「おはようございます、賢者さま」
 冷たい井戸水で顔を洗っていると、水無村の青年に挨拶された。村の人々は"蛙の賢者"の人としての姿にもすっかり慣れているので居心地がよい。
「おはようございます、ファレルさん」
 ゆうべ遅くまで魔法書を読んでいたせいかな──笑顔で挨拶を返してから、アルフィリオンは頭の奥が鈍く痛むのに首をひねった。
 賢者の住まいに戻って、金色の髪を軽く整えた彼は、遅い朝食のためにミルクをあたためている娘を背中からするりと抱きしめ、いつものように豊かな煉瓦色の髪に顔をうずめて耳元に囁いた。
「おはよう、わたしの愛しの奥方さま」
「……アル?」
 咎めるような声。
「なにか怒ってらっしゃいます? もしかして、寝坊しすぎてしまいましたか?」
 アルフィリオンはそわそわとリディアの顔をのぞき込んだ。口をへの字に曲げて、リディアは背中からまわされた良人の長い腕を振り解き、彼の額に掌を押しあてた。
「やっぱり。あなたはいくら言っても薄着なんだから」
「どうしたの、リディア?」
「アル、あなた、熱があるでしょう」
「……ああ、そういえば。それで、頭が痛かったんですね」
「どうして、そういうことを優雅ににこにこしておっしゃるんですか、あなたって人は」
 リディアは腰に手をあてて静かに怒っているが、アルフィリオンにとって風邪をひいたくらいなんでもないことだ。
「嫌ですね。お忘れですか? わたしはこれでもちょっと立派な魔法使いなんです。蛙の姿で魔法を使えば風邪なんてすぐに……」
 アルフィリオンはみなまで言うことができなかった。目をぱちぱちさせて、呆然と自分の身体を見おろしている。
「それで? 蛙の姿で魔法を使わないんですか?」
 なりゆきに気づいたリディアが、ほんのすこし悪戯っぽく尋ねた。
「困りましたね……蛙の姿になれないようです」
 金色の髪の若者にしか見えぬ賢者は、ため息をついて天を仰いだ。
 
 太陽が西に傾いたころには、アルフィリオンの体調は耐え難いほどに悪化していた。頭と体の節々がずきずきと痛んで重く、鼻水がとまらず、何も口にしたくない。額にあてていた冷たい布もすぐにぬるくなってしまい気持ちが悪い。村人たちのために用意してあった賢者特製の風邪薬を服用しているので、これでもかなり症状は抑えられているはずなのだが。
 苦しい。風邪なんて──およそ三百年ぶりか。
 亡くなった母のやさしい手を想い出して、胸に鈍い痛みを感じた。
 蛙の姿のアルフィリオンは不死身で、傷つけられれば痛みは感じるものの、恐るべき回復力をもった魔法的生物である。身につけた魔法のすべてを操ることのできる"蛙の賢者"だ。だが、人の姿の自分は──知識はあるものの簡単な魔法しか使えない三流魔法使いで、風邪をひけばその微々たる魔力さえ失ってしまう非力で役立たずな男だ。
 さきほど、リディアから風邪をひいていると指摘されたときには内心「ああ、本当に人間に戻れたのだな」などと実に暢気に、ちらりとうれしくさえ思ったばちが当たったのだ。アルフィリオンは鼻をぐすぐすさせながら後悔した。
 コンコンコン、と扉を叩く音がして、リディアが寝室に入ってきた。あわてて上掛けをひきあげて情けなくも不様であろう顔を隠す。
「アル? 食べたくないのはわかりますけど、なにかお腹に入れないとよくなりませんよ?」
 ……それはわたしがいつも患者に言っている台詞だ。
「あとでかならず食べますから、置いていってください、リディア」
 アルフィリオンはふとんの中からかぼそい声で応えた。
「駄目。僕が食べさせてあげます」
 リディアは言って、アルフィリオンがすっぽりかぶった上掛けを静かにめくった。
「駄目です、うつりますよ、リディア」
 アルフィリオンが力無く言って顔をそむけようとすると、リディアは有無を言わさず顔にべったりとはりついた彼の金色の髪をやさしくかきあげた。そして、冷たい布で汗や鼻水をぬぐい、熱を帯びてひび割れたくちびるにふわりとくちづける。
「うつったら魔法で治してくださいね、賢者さま。はい、口をあけて」
 スプーンに湯気のたつ粥をのせて、リディアは楽しげにふうっと息をかけて冷ました。
「……そんな子どもみたいな」
「そうやって目を潤ませて拗ねているほうが、子どもみたいですよ?」
 リディアはくすくす笑った。アルフィリオンは観念したようにしぶしぶ口をあけた。
「楽しんでませんか?」
「もちろん楽しんでますよ。人の姿のアルは見た目そのままを演じすぎて、なかなか弱味を見せてくれませんから」
「……それは、人間のわたしには見た目くらいしか取り柄がないからですよ」
 アルフィリオンは口に入った粥を呑み込んで呟くと、悔しげに眉根を寄せた。こんなことは誰にも言うつもりはなかった──相手がリディアなら、なおさら。
「取り柄がない? 魔力がないだけでしょう?」
「わたしは……魔法使いですから」
 蛙の賢者である男は、リディアを見あげて苦笑する。それへ、煉瓦色の髪の娘は苛立たしげに柳眉をつりあげた。
「それなら、僕も村の人たちもみんな取り柄がないんですか?」
「違いますよ。あなたもみなさんも魔法使いではありませんから」
「アルだって、魔法使いじゃなくても、アルでしょう?」
 リディアのぴりぴりとした声に、アルフィリオンは目を細めて微笑んだ。そして、静かに口をひらく。
「むかしね、言われたことがあるのです。もうこの国に貴方の居場所はない、と。あの時、この国の王子であるアルフィリオンはもう死んでしまったのだと気づきました。王子であったわたしの居場所はもうどこにもないのだと。だから、わたしは魔法使いになったんです──どこかに居場所が欲しくて。魔法使いなら、少しばかり気味の悪い、"物言う蛙"でも人とともに在ることを許されるんじゃないかな、とね。魔法使いであるということは、わたしの存在理由なんです」
 ふいにリディアはアルフィリオンの金色の頭を抱きしめた。彼女は小さく震えていて、アルフィリオンはその燃える煉瓦色の髪をやさしく撫でた。しばらくして彼は、震える彼女の耳元に熱に掠れた声で囁いた。
「でもね、いまのわたしの存在理由はあなたですよ……わたしだけのリディア」
 聞いたとたん、リディアは顔を真っ赤にして叫んだ。
「そういう台詞をさらりとおっしゃるから、昔からあなたは誤解されるんです!」
 粥の碗を枕の脇に置きざりにしたまま、リディアは足音高く寝室から出ていった。
「……本音だったのにな」
 残された男はぽつりと呟いた。
 いくらわたしでも、こんな恥ずかしい台詞はそうそう言えないのに……リディア。
 熱に浮かされた意識でぼんやりと、アルフィリオンは己の不器用さを哀しんだ。

 

 春の蛙は眠い。
 けれど、人としての記憶を忘却の彼方に葬りたいと願うことは二度とないだろう──傍らに眠る、煉瓦色の髪の記憶だけは。

 

 

Fin

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