十三番目のフレディ

志咲摩衣


 

3


 わたしの言葉に彼女は一瞬身を固くして、小さく息を吐いた。
「僕を騙しましたね? アルフィリオン・ディアン・ブリューエル殿下。その様子だと、人と蛙の姿の行き来は自由自在なのでしょう?」
 わたしは小さくかぶりを振った。
「人の姿に戻れたのは、正真正銘あなたがキスしてくださったからですよ」
 今はもう娘にしか見えないフレディの顔にさっと朱がさした。
 本当に、あのキスは彼女を少年だと思い込んでいたからこその不意打ちだった。魔法使いのわたしを騙せるほどに、彼女は女性としての成長を抑えられていた。
「フレディ。あなたはわたしへの刺客になるために、思春期にあんな妙な成長をさせられたのでしょう? 女王の魔法で。責任を感じてしまうじゃないですか」
 わたしはすっかり綺麗になった少女に微笑んだ。
「そんなふうに微笑わないでください。やっぱりあなたは女王様がおっしゃっていたとおりの……」
「森の魔女を誑かした罪で蛙に変えられた邪悪な魔法使い、とでもお聞きになりましたか?」
 淡い灰色の瞳が冷ややかな光を帯びた。
「だって、あなたはやっぱり嘘吐きです。麗しのアルフィリオンは、森の魔女イザベルと一夜の関係を持って、そのまま彼女をお忘れになった。一年後、イザベルが連れてきた乳飲み児を認めず、知らないとはねつけたあなたを魔女は蛙に変えました。蛙の姿に変えられた復讐として、あなたはいつのまにか身につけた魔法で魔女を暗殺しました──それが、真実です。なぜなら、あなたと魔女のあいだに生まれた乳飲み児、それが今の女王アルラウネ様だからです。あなたを怖れた女王様は何人もの刺客を送り込んで、あなたにキスをさせ人間に戻して無力化させようとしました。けれど、狡猾なあなたはそれをずっと退けてこられた」
 女王アルラウネが送り込んできた刺客は、フレディで十三人目だ。イザベルの娘は、蛙の姿では不死身なわたしが、元の姿に戻れば弱い魔力を持った人間にすぎないことなどお見通しのようで、さまざまな女性を刺客として差し向けてきた。
「いかにも、女王アルラウネはわたしとイザベルの間に生まれた娘です。以前、城に忍び込んで盗み見たのですが、わたしにそっくりな金の髪に空色の瞳の娘に成長していましたね。あれでは、言い逃れのしようもない」
 じっと睨み付けてくる灰色の瞳に向かって、わたしは笑った。三百年も生きてきたのだ。フレディになら殺されてもいいかも知れない。けれど──。
「わたしの言い分も少し聞いていただけませんか? 誰の話を信じるかは、あなたの自由です」


 アルフィリオン・ディアン・ブリューエルは、この国の第二王子でした。彼は王国というものは王太子である兄が継ぐものだと頭から思いこんでいるような単純な青年だったので──嫌だな、そんな疑いの眼差しで見ないで下さい。わたしは今も昔も狡猾やら策略とは縁のない、争いごとが苦手な小心者なんです──王座に対する野心なんてこれっぽっちもありませんでした。けれど、世間知らずの王子を利用して権力の座に就きたい人間はそれなりにいたわけです。なかでも、とりわけたちが悪かったのが、王国の北の森に棲む魔女イザベルでした。
 ある時、アルフィリオンは鹿狩りでイザベルの棲む森にやって来ました。彼女は魔女であることを隠し、アルフィリオンを自分の住まいに招いて食事をふるまいました。媚薬入りの妙に甘いスープを。
 愚かなアルフィリオンはイザベルの奸計にはまり、魔女と一夜の関係を持ってしまいました。一年後、イザベルは乳飲み児を腕に抱えて、彼のもとへやって来ました。
「アルフィリオン様、あなたの娘が生まれました。正式に夫婦の契りを交わし、一緒に育てましょう」
 イザベルは言いましたが、わたしは答えました。
「その子は引き取って育てよう。でも、あなたのことは知らない。顔も二度と見たくない」と。
  媚薬を盛られたことはもう分かっていましたから、わたしはそんな女性を伴侶にするのは御免だったのです。
 怒った魔女イザベルは呪文を唱えて、わたしを蛙の姿に変えました。 彼女はその後すぐに心変わりをして、わたしの兄と結婚し、この国の王妃となりました。
 無力な蛙になってしまったわたしは自分の人生を諦めていましたが、わたしのことを諦めていない人がこの世にたったひとりだけいました。母がわたしを探していると言うのです。母はわたしが蛙になってしまったことなど知りません。ただ、突然いなくなった、それだけです。死んだと聞かされても、母は信じなかったそうです。ある夜、耐えきれずわたしは母に別れを告げに行きました。もちろん、姿は見せずに。ベッドの下に隠れて、わたしは母に話し掛けました。
「母上、申し訳ありません。わたしは……死んでしまいました。今のわたしは幽霊です」
「アルフィリオン? あなたなの?」
 闇のなかに母の細い声が響いて、その儚さにわたしは泣きそうになりました。
「母上、愛しています。いつもわたしの心はあなたのそばにおります」
「幽霊でもかまわないわ、本当にアルフィリオンなら姿を見せて」
 わたしは後悔しました。自分の産んだ息子が蛙になってしまったなどと知ったら、母はどんなに哀しむでしょう。その時、最悪の事態が起こりました。わたしの気配に気づいた魔女が部屋に入って来たのです。
「アルフィリオン様、お義母さまがあなたにお会いしたいそうですよ。そんなところに隠れていないで出ていらっしゃったらいかがです?」
 イザベルはベッドの下に潜んでいたわたしを掴んで引きずり出しました。
「さあ、麗しの王子様。お義母さまにご挨拶なさい」
 そう言って、あの女はわたしを母の前にぽとりと投げ落としました。
「これが……アルフィリオン?」
「アルフィリオン様はわたくしを騙して一夜の関係を持ちました。そしてそのまま、子を宿したわたくしをお見捨てになったので、その罰としてこのようなお姿になられているのです」
 魔女は母の前でわたしをなじりました。けれど、わたしは目の前の蛙がわたしだと、どうしても母に知られたくなかったので、黙っているしかありませんでした。
「どうなさったの? アルフィリオン様? あの綺麗なお声を聞かせて下さいな」
 イザベルは猫なで声で誘いましたが、わたしがしゃべりそうにないと分かると、わたしの片脚をひょいと持ち上げて床に叩きつけました。
「あら、わたくしとしたことがただの蛙をアルフィリオン様と見間違えたのかしら? 王子様もしゃべらなければ、ただの蛙と見分けがつかないのですもの。しゃべりもしない醜い蛙が国母たるお義母さまの寝室に忍び込むなんて、汚らわしいこと」
 魔女はわたしを踏みつけて、言葉を話させようとします。それでも、わたしは一言も発しませんでした。その時、母の手が魔女を止めました。
「お願い、もうやめて」
 王妃イザベルが魔女だということは、母も知っています。実質、その頃の宮廷は魔女の思うがままだったはずですから、母が魔女を止めるのには大変な勇気が必要だったと思います。けれど、あの女にしては意外なことに、彼女はぐったりとしたわたしを残して部屋を出て行きました。
 母はわたしを膝の上に載せて、冷たい布で傷口を拭ってくれました。
「アルフィリオン?」
 ふいに名前を呼ばれて、わたしは思わずびくりと目を上げてしまいました。
「本当にあなたなのね」
 母の涙がわたしの背中を濡らしました。
 わたしは優しい母の手から逃れて、城から遠くへ逃げました。
 その後、母が自害したと言う噂が流れました。信じたくなかったのですが、すぐに母の葬儀が行われそれが真実だったと知れました。こんな姿でも、わたしがそばにいさえすれば、母は死なずにすんだのでしょうか。
 わたしは、死んでしまおうと思いました。わたしがこの世からいなくなっても、もう哀しむ人は誰もいません。このままずっと言葉を話さずに、すべてを忘れて、ただの蛙になれたらとさえ願いました。そのほうがきっと楽になれると。
 それでも、わたしは死ねなかったのです。半年ほど石の上にじっと座って、何も食べず、水さえ口にしなかったのに、死ねなかったのです。
 わたしは城に向かう決心をしました。もしも、わたしが不死身の蛙なのだとしたら、たったひとつだけできることがあったからです。
 魔女の寝室へと、わたしは向かいました。母の時と同じように、わたしは昼間のうちにイザベルのベッドの下に隠れ、今度は慎重に気配を殺してじっと夜になるのを待ちました。夜半すぎに魔女は寝室に帰って来ました。その日はよほど疲れていたのでしょうか、魔女はすぐにベッドに横たわり眠りにつこうとしました。
 わたしは、あの女に気づかれないようにそろりとベッドの下から這い出し、勢いよく飛び跳ねて、女の顔にべったりと張りつきました。あれはすぐに気がついて、わたしを引き剥がそうとしました。わたしの腹が口と鼻を覆いつくしていたので、女は呪文を唱えることはおろか、息をすることさえままならなかったのです。女は死に物狂いで、長い爪でわたしを掻き毟り、壁に自分の顔ごと叩きつけ、わたしの背に短剣を突き立てさえしましたが、わたしは女の顔に張りついて決して離れませんでした。女はわたしの目を潰し、首を絞めましたが、わたしは朦朧としながらも、ただ張りつく力だけは緩めませんでした。だんだんと、女の抵抗が弱まってきました。それでも、狡猾な魔女のことです。わたしは身体にいっそう力を入れました。女はベッドの上に横たわり、わたしの背と自らの喉を掻き毟りはじめ、そしてついに動かなくなりました。それでも、わたしは魔女の顔から離れずに、女の身体が冷えて硬くなるのを待ちました。
  夜がしらじらと明けた頃、魔女イザベルは冷たい骸になっていました。わたしは、よろよろと魔女から離れ、背に刺さった短剣をなんとか家具にひっかけて抜きさりました。朝になっていたので、わたしは魔女の部屋の鏡に自分が映っているのを見てしまいました。体液に汚れた、無残で、無表情な一匹の蛙が映っていました。わたしは脚をひきずりながら部屋を抜け出し、宮殿の中庭に出ました。
 そして庭園の池に身を投げて、静かに、静かに、沈んでゆきました。


「それでも、やっぱりわたしは死ねなかったんですよ。気がついた時、わたしは腹を上にしてぷかぷかと浮いていました。城は大騒ぎの様子でしたが、まさか冷酷な魔女イザベルを殺した暗殺者が、中庭の池で白い腹を見せて浮かんでいる蛙だとは誰も思わなかったんでしょうね」
 わたしは笑ってみせたが、煉瓦色の髪の少女はぽろぽろと泣いていた。
「蛙の時は我ながら呆れるほど不死身ですが、この身体はご覧のとおりの優男でたやすく殺せますよ」
「どうしてそんなに殺して欲しいの? 人の姿に戻れたのに」
 彼女の真摯な眼差しに、わたしの口から自然に言葉がこぼれ出た。
「わたしを殺せないのなら、このままずっと一緒に生きてくださいませんか?」
 彼女は澄んだ灰色の瞳を見開いて絶句した。わたしはすでに後悔していた。
「ね? こんな男は殺したくなったでしょう?」
 彼女の涙を指先でぬぐって、テーブルの上に載った短剣をその手に握らせた。彼女はわたしの手を振り払った。
「あなたは……まるで息でもするようにそういう芝居がかったことをなさるから誤解されるんです」
「ああそうだ、死ぬ前にフレディの本当の名前が知りたいですね」
 わたしはかなり不自然に話題を変えた。
「さっきの言葉って、プロポーズですよね、アルフィリオン殿下」
「……嫌だな、冗談ですよ。狡猾で邪悪で嘘吐きな蛙の言葉なんて信じちゃいけません。ね? 本当の名前は? せっかく人間の姿に戻れたのですから、せめて麗しの姫君の名前を呼びながら死にたいんです」
 フレディ──なんて男の名前を呼ぶんじゃ、いくら間抜けなわたしの最期でも哀しすぎる。
「あなたのお話を信じます、アルフィリオン」
「えっ?」
「両親を亡くした僕を、これまで育てて下さった女王様の言葉より、あなたの言葉を信じます、アルフィリオン・ディアン・ブリューエル」
 わたしは──言葉を失った。



4



  ──雨だ。大好きな雨音と雨の匂いにうっとりとする。
 すっかり嬉しくなったわたしは蛙の姿になって、とろんとした目をぐるりと一回転させた。そして、ぴょんぴょんと大きく跳ねて、喜び勇んで外に出ようとした。
「では、行ってきますね、リディア」
 わたしはフレディと名乗っていた女性に挨拶した。あれ以来、彼女はわたしと一緒に住んでいる。おととい尋ねてきた村人に、彼女のことを新しく採った弟子だと紹介したら、目をつり上げて「弟子なんかじゃありません、賢者様の婚約者です」とすかさず訂正された。村人は気の毒なくらい血の気のひいた顔をして帰っていった。
 父の病気を治した代償として美しい娘を人身御供にする邪悪な蛙──わたしは今頃人々にそう噂されているのだろうか。
「……ずるい」
「えっ?」
「雨が降ると、アルだけひとりで楽しそうに出掛けるなんて」
「ふふふ、だってこれは蛙の特権ですから」
「なら、僕も蛙になってみたいです」
 今日のリディアは煉瓦色の長い髪を少しだけ編み込みにして、残りはゆらゆらと垂らしている。彼女は日に日に綺麗になっていて、少年めいたふるまいもやめているのだが、一人称が『僕』なのだけは変わらない。
「嫌だなぁ、蛙になりたいなんて、ご冗談でしょう?」
 わたしはそう言って、リディアを見上げた。だめだ、地面からでは彼女のあごの裏が見えるだけで表情が見えない。わたしはぴょんと近場の棚の上に跳ね上がった。リディアはこれ以上はないというほど唇をとがらせて、わたしを睨んでいる。
「……アル?」
  声が低い。
「リディア、まさか本気なの?」
 リディアはわたしの顔を覗き込んでにっこりした。
「あなたと一緒に同じものを見てみたいんです」
「い……いいんですか? 蛙ですよ? ゲロゲロ鳴くんですよ? 全然かっこよくないですよ? 目が飛び出て、わたしみたいなもの凄いがに股になっちゃうんですよ?」
 わたしみたいなもの凄いがに股──自分で言っていて、なんだか虚しくなってきた。
 それでも、彼女はこくんとうなずいた。決意は固いらしい。
 わたしはリディアが変身するための呪文を唱えた。詠唱が終わって傍らを見ると、わたしより心持ち小さな若草色の蛙がそこにいた。
「蛙になった気分はいかがです? 嫌だったらすぐに戻しますよ」
 リディアは蛙の大きな目をぱちくりさせている。  
「ううん、身体のバランスが妙な感じだけど、なんだか新鮮です……あっ、僕、ちゃんとしゃべってる」
「あなたがしゃべれなかったら、一緒に蛙になっている甲斐がないですよ」
「ねぇ、アル、僕はどんな蛙になってるの?」
 わたしは鏡を見るのが嫌いなのだが、リディアのために呪文で目の前に取り出した。緑色の蛙の横に、少し小さな可愛い若草色の蛙が並んで映っている。
「わあ、本当に蛙になってる。たしかにもの凄いがに股で、ちょっと恥ずかしいです」 
 そう言いながら、鏡の前でリディアはぴょんぴょんと飛び跳ねた。
「すごい、蛙ってこんなに跳べるんですね」
「リディア……はじめてなのに上手い」
 ちょっと悔しい、わたしは無様に後ろに転がったのに。

 外に出ると、もう仲間たちは合唱をはじめている。
「お気に入りの場所があるんです」
 そう言って、わたしはリディアの歩調に合わせてゆっくりと跳ねた。気持ちのいい雨に濡れて、傍らにリディアがいて──なんて、しあわせなんだろう。
 お気に入りの石の上で、わたしとリディアは並んで唄った。小さな滝の近くにある平らな石で、ここの眺めと水しぶきが好きなのだ。
「雨に濡れるのが、こんなに気持ちがいいなんてはじめて知りました」
 さらさらと降りそそぐ優しい雨に濡れて、リディアは小首を傾げて言った。蛙の姿でも、彼女は愛しい。
「……わたしは、それを認めるのに三百年かかりましたよ」
 冷たい銀色の雨に打たれて──わたしは。
「雨も森も川も、みんなこんなに綺麗なのに、ずっとずっと気づきませんでした。蛙になった自分が嫌でたまらなくて、いつも消えてなくなってしまいたくて──」
 リディアは何も言わず、わたしの言葉を聞いてくれている。
「──母のそばに残ればよかった。せめてあの時、母と言葉を交わしていればよかった。わたしは、ずっとそれを後悔していました。母を亡くして以来、わたしはひとりきりでした。物言う蛙の言葉など、賢者なんて呼ばれていても、結局、誰も本気で聞いてはくれないのです。なのに、あなたはなぜか楽しそうにわたしの話を聞いてくれました。わたしはそれが嬉しくて、あなたがキスしてくれて、女の子だとわかって本当に嬉しくて──」
 わたしはリディアの目をじっと見つめて、滝の音にかき消されそうな掠れた声で、告げた。
「あなたを愛しています、リディア」

 綺麗な緑色の蛙と少しだけ小さな若草色の蛙は、軽く触れるだけのキスをしました。そして、気持ちのいい優しい雨に打たれながら、寄り添って、尽きることなくおしゃべりをしていたそうです。

 わたしたちは、蛙です。
 とてもしあわせな──蛙です。

Fin

 

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