ルナティック・ゴールド
       番外編 ギュルヴィの惑わし

志咲摩衣


 

 絡みつく濃密な薔薇の香り──"黒川"の響きで、綾瀬の記憶の襞からまず呼びおこされるものは、とろりとした薔薇の香気だった。
 薔薇屋敷の異名をもつ黒川邸の広大な庭園には、晩春のこの季節、色とりどりの薔薇がいまを盛りと咲き誇り、黄神一族の春の宴に招かれた客たちの目を楽しませていた。けれどそれは、生来病弱で他者より鋭敏な感覚をもつ綾瀬にとって、眩暈を誘うほどきつい芳香であり、毒を孕んだ禍々しい色彩でしかなかった。
 色彩の氾濫したこの世界にも、白薔薇の一輪さえあれば心が休まるのに。そう綾瀬は独りごちる。
 黒川の庭園には一輪の白薔薇もない。〈白〉の嫡流である綾瀬にとって、白薔薇なき薔薇園は気の休まらぬ、画竜点睛を欠いたものだった。そのことを幼いころ、母に話したことがある。綾瀬の母、雪乃は「むかしはあのお屋敷にもみごとな白薔薇が咲いていたのよ」と、さびしげな微笑を浮かべた。

 父である〈白〉の宗家、後白河宗一郎の名代とはいえ、この春、ラ・メール中等科に入学したばかりの綾瀬相手に本腰で話しかけてくる大人もいない。この時にはまだ痩せた蒼白い少年にすぎなかった後白河綾瀬が、黄神一族のなかで頭角をあらわすのは、このすぐ後のイギリス留学で伝説的な飛び級をはたしてからのことである。
「おっ、いたいた。学校は休んでも、やっぱりこっちには来てたな、このサボリ魔」
 聞き慣れた声に振り返ると、眩しい〈青〉のオーラが目に入る。オーラはその人の精神と命の輝きである。
「あなたは相変わらずギラギラしていますね、青野」
「バーカ。〈白〉の宗家の一人息子と違って、オレは大変なんだよ」
 綾瀬は、ガキ大将のようにふんぞり返る、自分とは対称的に健康そうな少年に目をやってクスクスと笑った。
「十人のかわいい弟たちを蹴落として、ようやくここへやって来られたというわけですね」
「そうそう。だから今日ここにはオレと親父だけ」
 海棠青野は凛とした端正な顔をことさらに歪めて悪戯小僧のようにニヤリと笑った。
「おめぇだって、そんな蒼い顔してるくせに、わざわざ"ヤツ"を見に来たんだろ? 親父さんを説き伏せてさ」
「いいえ。説き伏せる必要なんてありませんよ。はじめから、ぼくに名代をつとめさせる心算でいましたからね、あの人は。面倒な現地調査には息子を使って、"彼"の情報だけを手に入れるつもりなんです、〈白〉の宗家という人は」
「へーえ。つまり次の宗家としての英才教育がはじまってるってわけか」
「そういうことです」
 綾瀬はにっこり笑った。

 一階大広間の庭園側の扉は一斉に開放されていて、広間と庭園の行き来は自由になっていた。
 例年、春の宴では、黄昏時になると薄闇より浮かびあがるようにライトアップされた幻想的な花々のなかを客たちがそぞろ歩くのが常であったが、今年に限っては広間から離れようとする者の姿はなかった。春の宴への招待は、一族の名家であることの証であったが黄神大老が姿をあらわすこともなく、黄神の年中行事としては半ば形骸化していて、後白河家のように若すぎる名代を立てることも例年ならばなんら珍しくなかった。
 だが、今年は違っていた。
 ある意味、黄神大老その人があらわれるよりも、心そそられる人物の登場を、みな心待ちにしていたのである。
 病弱を理由に、生まれ落ちてからいまにいたるまで、公式の場に一切あらわれることのなかった"幻の後継者"が、今夜、姿をあらわすのである。
「待たせやがるな」
 青野がチッと舌打ちした。
「なにもそこまで下品ぶらなくてもいいのに」
 綾瀬がクスクス笑うのに対して青野がムッとしてなにか言い返そうとした、その時。
 大広間の中央に優美なカーヴを描く階段を降りてくるほっそりとした人影があった。
 年齢は綾瀬たちと同じだというが、その少年は大人びた風貌をしていて、すでに高校生くらいの年齢に見えた。美貌であったと謳われる母譲りの、人目を惹くどこか艶めいて怜悧な顔立ち。まだ少年を抜けきらないほっそりした若木のようにしなやかな肢体を全身黒ひと色に包んでいる。長く伸ばした闇色の髪が右眼を隠しているのさえ謎めいて、少年の魅力をいささかも損なうものではなかった。
 広間にいた数百人の名だたる黄神一族が、その僅か十二歳にすぎない少年をじっと目で追っていた。
 彼は衆目を楽しむようにゆっくりと階段を降りると、右手を胸にあてて舞台俳優のように優雅に頭をさげた。
「黒川透です。ご来賓のみなさまには、以後、お見知りおきを」
 その音楽的な声が広間に響きわたると、どこからともなく拍手が起こった。拍手はさざ波のように広がり、やがて広間全体を埋め尽くした。
 黒川透と名乗った少年は人々をまえに支配者然として華やかに笑んだ。彼はまさにこの場にいるすべての者の支配者──黄神大老の嫡孫だったのである。

 その後、綾瀬と青野は、大人たちに幾重にも取り巻かれている黒川透を遠巻きに眺めていた。
「やけに目立つ野郎だな」
 青野がオードブルのウォッシュチーズをつまみながら不機嫌そうな声をだした。
「芸能界のスカウトを受けた黄神一の美少年、海棠青野としては気に入りませんか?」
「バーカ。美少年タイプはおふくろさんそっくりのてめぇだろうが。オレみたいなのは男前っていうんだぜ」
 からかうように笑う綾瀬の額を青野が軽く小突いた。
「冗談はともかく、彼のオーラはたしかに目立ちますね。オーラの美しい黄神一族が集うこの場でも抜きんでています。あれほど華やかでゆたかな紫のオーラは、大老以外に見たことがありません。……ただ」
 青野から目を逸らして、綾瀬は言い淀んだ。
「ただ?」
「……彼は本当にオーディンのごとき隻眼なのでしょうか? 他人の身体をとやかくいう趣味はありませんが」
 ──不自然なのだ。彼の長い髪に隠された右眼のうえに、さりげなく張られた結界を感じる。〈白〉でも一部の上級者にしか視えぬであろう、術のわずかな痕跡。それは世界と術者がかわした契約の、消えることなき痕跡である。おそらくは大老その人が孫のために張ったものなのだろう。あれは、"視る"ことに長けた〈白〉の一族に対する結界だ。だがなぜ、見えぬ眼をわざわざ隠し封ずる結界が必要なのだろうか。
 あれが見えぬ眼……ではないとしたら?
 ふいに、ぞくりと総毛立つ気配を感じて顔をあげると、黒川透が口許に笑みを湛えて、綾瀬に視線を投げかけていた。さきほどまで、あれほど多くの人の輪に囲まれていたのに、いまはもう彼に注意をはらう者は誰もなく、黒川は広間から外の闇へとゆらりと溶けた。〈黒〉の一族は精神感応者だ。上級者であれば、自分を他人から"見えない者"にすることなど容易い。だが、いまだ十二歳の少年が精神を操った者の人数を考えると、身震いがした。操られた相手も一般の人々ではなく、オーラを操ることに長けているはずの成人した黄神ばかりである。
 怖ろしくはあったが、自然に足が庭園へと向かう。
 ぼくも──操られているのか?
 とろりとした濃密な薔薇の香気が闇に溶ける。澱んだスープのなかにいるような息苦しさを感じて小さく咳をすると、すぐ傍に音楽的な声が聴こえた。
「後白河は薔薇が嫌い?」
 その声とともに、闇に溶けて見失っていた黒川透の白い顔容と紫色のオーラの炎が浮かびあがる。
 自尊心を引き裂くふいうちに、綾瀬の表情がわずかに歪む。そもそも〈白〉の嫡流である綾瀬が相手を"見失う"はずがない。見失うとすれば、心の隙をつかれてのこと──綾瀬は己の未熟を恥じた。
「薔薇は好きですよ。ただ、こちらの庭園はぼくには刺激が強すぎるのです」
 綾瀬はつとめて冷静を装って応えた。
「ああ、身体が弱いのだったね、君も。わたしもこれまで床に伏していることのほうが多かったから、君の気持ちはよく解るよ」
 そう言って、彼は右眼にかかった長い前髪をかきあげた。かたく閉ざされた右の目蓋があらわれる。
 うっすらと視える結界。右眼に封じられたオーラの、かすかに見えるその色に、綾瀬は我が目を疑った。
 ……そんなばかな。
「なぜこの庭に、白い薔薇がないのか君は知ってる?」
 彼はまた、はらりと前髪をおろして、綾瀬に向かって笑みを浮かべた。
「わたしの母と、君の母君が従姉妹なのは知っているだろう?」
 綾瀬はうなずいた。
 黒川薔子(しょうこ)は世界的に名を知られたヴァイオリニストで、生前は綾瀬の母、従姉妹同士である後白河雪乃と並び称された〈白〉の姫であった。旧姓を白鳥薔子という──それが目のまえに立つ少年の生母だ。
「母はね、わたしを産んですぐに亡くなった。身体の弱い母に出産は無理だったのに、あの人はわたしを産んでしまった」
 涼しい風がさらりと透の前髪をはらうと、閉ざされた右の目蓋がふたたび露わになる。世界樹イグドラジルに吊されし神オーディンの隻眼──知識を欲した代償は己の片目であった。黒川透にとって、失ったものの代償に得たものはなんだったのか──。
「母が亡くなってすぐに、父は庭園の白薔薇をすべて処分させたそうだ。そしてこの家を出たまま、世界各国は巡れども、二度とここへは帰ってこない。だから……」
 黒川透はくつくつと笑ってから、庭園に向かって静かに告げた。
「わたしの庭に白い薔薇が咲くことはない」
 綾瀬は今すぐにこの場から逃げ出したかった。黒川透は──母を殺した自分自身を憎んでいる。〈黒〉の一族の憎悪に飲みこまれるのは危険だ。
「聡いね、後白河。君のその〈神の眼〉には見えているだろう?」
 透の闇色の左眼が、綾瀬の目には鮮やかな紫色に見える。その瞳に射すくめられて身じろぎもできない。そして、彼の閉ざされた右眼が放つ光、それは──。
 あり得ざる黄金。失われた神の色、〈中央本家〉のみに許された禁色。
 なぜ、〈黒〉の嫡流の右眼が黄金色に光る……?
「〈白〉の宗家は君を寄こすべきじゃなかった」
 黒川透の白くしなやかな指が、闇の中をたゆたうように動いて、綾瀬の額のうえでとどまり小さな星を描いた。そして、彼は涼やかな声で歌うように告げた。
「わたしの右眼が黄金色なのは、そなたはすでに識っていること。ことさら記憶に残らない。そなたには視えているのに見えていない」

「……おい、綾瀬?」
 肩を手荒く揺さぶられて、気づくと心配そうにのぞき込む青野の顔があった。
「そこに座れよ。真っ白な顔をしてるぜ」
「あ、ああ」
 いつのまにか、広間まで戻ってきていたらしい。綾瀬は調えられた椅子に力無く腰かけた。
 たしか、ぼくは黒川のあとを追って、彼と白薔薇の話を──。
「ほらよ、水だ。軽く振動させてぬるくしてやった」
「ありがとう」
 体調の悪いときには、冷たい水で綾瀬が胃腸をこわすことを青野は心得ているらしい。念動力で分子を振動させた水は熱すぎず冷たすぎずちょうどよい。喉を落ちてゆくぬるい感触に人心地つく。見あげる青野のオーラは生命力にあふれていた。
「なんだよ、気持ち悪ィ。人をじろじろ見やがって」
「ぼくは隻眼の神に惑わされたようですね……」
 青野に向かって照れたように笑ってから、綾瀬は低く呟いた。
 窓の外に目を移すと、ライトアップされた薔薇の園がいつにもまして禍々しい気を放っているように見えて、我知らず眉をひそめる。

 "わたしの庭に白い薔薇が咲くことはない"
 黒川透は他のすべてを手に入れながら、決して手に入らないものに焦がれている。
 見あげると、今宵は下弦の半月。"彼"は自ら欠けてゆく月だ──綾瀬は切なく思った。

 

 

Fin

NovelsINDEX | HOME



Copyright(C)2005, Mai. SHIZAKA. All rights reserved.
本作品の著作権は志咲摩衣に帰属するものであり、無断転載・再配布を禁じます。