ルナティック・ゴールド
       第1部 月下の一群

志咲摩衣


 

12 愛してるなんて、言えない


 なんて切ない瞳なんだろう──赤里は思った。
 この世の者とは思えない、彫刻めいた端正な貌がじっと自分を見つめている。見る者を惹きつけずにいられない神秘的な美貌、魂を揺さぶるような歌。どうしてこんな人がいるのだろう。初めて逢った日も亜梨名のコンサートの後も、何度そう思っただろう。一度見たら、一度歌を聴いたら、二度と忘れられない夢のような人。
 その人が切なく哀しい瞳で自分を見つめている。どうして、好きにならずにいられるだろう。たとえ、その人の心を占めているのが自分ではないとしても。
 令は、ふだんの姿に戻ろうとしていた。皮肉なことに、オーラを鎮めることに集中していて、いつもの金髪の令だったら無意識に飛び込んでくるような赤里のその想いを知ることはなかった。
 ちょうど、その時だった。

「赤里!」
 鋭い声が闇を切り裂く。突然の第三者の出現に、令は変身を中断した。
「……朱鷺(とき)」
 振り返った赤里に朱鷺と呼ばれたのは、赤いオーラの男だった。月明かりの下、すらりとした長身のシルエットが浮かび上がる。おそらく令の頭半分ほどは上背があるだろう。だが、なによりも令の目をひいたのは男の髪の色だった。それは、オーラのように夜目にも鮮やかな赤だったのだ。
「行こう、赤里」
 そう言うと、朱鷺と呼ばれた男のオーラが揺らめきはじめた。男の輪郭がぼやけ、Tシャツが音をたてて裂ける。数十秒後、千切れた服の残骸の上に一頭の黒豹の姿があった。夜闇の中、ルビーのように赤く光る豹の眼が令をちらりと見て低い唸りをあげた。
「……赤里?」
 令がすうっと目を細める。赤里の口元が小さく何かをつづったように見えた。そして、スカートをひるがえしひらりと豹の背に飛び乗った。黒豹はアスファルトを蹴って大きく跳躍し、風のように令の視界から消え去った。
 令は黒豹の消えた闇をしばらく見つめていた。テレパシーで追えば黄金色のオーラの持ち主にとってふたりの足跡をたどるくらいはわけのないことだった──だが。
「黒い豹が彼氏ってわけ……か」
 そう呟いてから令はわけもなくくすくす笑い出した。腕にかかえていたはずの缶 ジュースがいつのまにか冷たいアスファルトに散らばっている。
「……だよな。誰も、こんなに、飲むわけ……ない」
 ふいに令は目を背け、テレポートでその場を後にした。ただ、ここにいたくなかった。

「なんで彼を選ばなかったって?」
 名プロデューサー、鬼ひげこと鬼島雄三は見事なあごひげをぼりぼりと掻いた。
「困ったねぇ。さっきっからそれ、訊かれっぱなしだよ」
「だって、不思議じゃないですか。あの金髪を選ばないなんて」
 鬼ひげは水割りを口にしてからゲラゲラ笑った。にぎやかなパブの中でも彼の大笑いは一際鳴り響く。
「ってことは、清チャンだったらアレ選ぶんだ」
「ええ。あの歌を聴いた時、正直言って決まったと思いましたよ。オーディションを受けた連中もみんなそう思ったらしい。だって、こう言っちゃなんですが……彼に比べたら根岸なんて問題にならないでしょう? まあ、たしかに根岸が実力派なのは認めますがね。金髪とじゃ天と地だ。だから理由が訊きたいんですよ。なんか彼、鬼さんから見てまずいとこでもあるんですか?」
 清チャンと呼ばれた男は少々興奮気味にまくしたてた。
「まずいんだなぁ。これが」
 そう言って、鬼ひげは清チャンの紅潮した若い顔をちらりと見た。
「彼が一次審査受けてないから、なーんての、信じないだろうな」
「信じませんよ、そんなの。ここはそーゆー世界じゃない」
 鬼ひげは芝居がかった仕草でふぅーっと息をついた。
「しょうがない。ここだけの話にしてくれよ。清チャンだから言うんだからね」
「オレ、口は堅いっすよ」
「どーだかねぇ」
 鬼ひげはひょこっと肩をすくめてみせてからアーモンドチョコを一粒ぽいっと口に放ってがりがりかみ砕く。そして、彼にはおよそ不似合いな囁き声で明かした。
「実は……スポンサー絡みでね」
「えっ? スポンサー?」
「そう……『海棠』だよ」
 清チャンはそれを聞いてようやく合点がいった、という表情になった。芸能界、泣く子とスポンサーとには勝てっこない。
「海棠グループって言えば、『愛してるなんて、言えない』のメインスポンサーっすね」
「そっ、あの海棠のぼんぼんからじきじきに頼まれたんだよ。『噂の金髪がオーディションに現れるから落としてくれ』ってね」
「……そんな、まさか。じゃ、彼にコピー渡したのって……」
「ああ、俺が海棠に送ったんだ」
「そんな! それじゃ、彼を落とすためにわざわざ呼んだってことですか?」
「そーゆーことになるかな」
「鬼さんッ!」
 真っ赤になって怒る清チャンに向かって鬼ひげはニヤリと笑ってみせた。
「……ま、たとえ海棠のことがなくても俺は根岸を選んだと思うがな」
「えっ?」
 清チャンが問い詰めようとしたその時、店内がふいにざわめいた。空気の色が変わる、と店にいた誰もがわけもなく感じた。そして、皆一斉にそちらに目を向けた。

 ふらりと店に入って来たのは黄金色の長い髪の少年だった。
「うっ……わ、あのコ……!」
 噂の主の出現に清チャンが思わず声をあげる。
 ルナは、はじめぼんやりと店内を眺めている風だった。その姿は俗世を知らない天使がはじめて地上に降り立ったかのように幻想的で現実味がなかった。だが、鬼ひげと目が合うと突然夢から覚めたようにその淡い琥珀色の瞳に生気が宿った。美しい人形に魂が吹き込まれたかにも見えた。
 酔っぱらっていい気分になっていた客たちも、別れ話をしていた恋人たちでさえ、ルナから目が離せなかった。人々の注視の中、彼はしなやかな足取りで鬼ひげのボックス席に歩み寄った。
「ふつうに歩いている時でさえ音楽に乗っているような綺麗な動きをするんだよな……」
 鬼ひげが感心するように独りごちた。
 令自身は、自分でもどうしてこんなところにいるのかわからなかった。気がつくと、見知らぬ 店の中にいて、辺りを見回すとそこに鬼ひげの姿を見つけたのである。鬼ひげを目の前にしながらも自分が何をしたいのかわかっていなかった。ただ、自然に、唇が言葉をつづった。
「どうしてオレはダメだったんです?」

 高層ビルに囲まれた白いマンションの一室で、赤い瞳をした黒豹が身をよじって人の姿に戻る。
「追って来なかったようだな」
 一糸まとわぬ姿の朱鷺は引き締まった筋肉を軽く伸ばしながら赤里を見た。赤毛の朱鷺は均整のとれたしなやかなプロポーションの持ち主で、顔立ちも目尻のきゅっと上がったそれこそ猫科のハンサムだった。彼が全裸で軽い運動をしているさまは艶っぽいといってよく、並の女の子であったなら顔を真っ赤にしているところだろう。だが、赤里はそれを興味なさげに一瞥しただけでキッチンへ水を飲みに行ってしまった。朱鷺の赤い髪が熱が退くように黒く染まってゆく。オーラの加減で彼の髪色は変化するらしい。
「シャワー借りるぜ」
 そう言ってバスルームに向かう朱鷺に目を向けることもなく、赤里は窓際のソファにぺたりと座り込んだ。そして、ふうっと溜息をついて窓ガラスに映る自分の姿を眺めた。
 追いかけてくるはずがない、あの人が……。
「よォ、服借りていいか?」
 カラスの行水の朱鷺がバスルームから濡れた顔を出す。
「いいけど? あんたにはちょっと小さいんじゃない?」
 それを聞いてふふんと笑った朱鷺は、バスタオルを素肌に巻いたままソファの後ろから赤里のほっそりとしたあごを持ち上げた。猫のような朱鷺の瞳と赤里のそれが合う。
「絨毯、汚さないでくれる?」
 赤里が朱鷺の手を振り払った。朱鷺の全身から水がぽたぽたと滴り落ちる。
「冷たいな。なんで、金髪はよくて、オレはダメなわけ?」
 パシッと軽く朱鷺の顔を叩いてから、赤里はケラケラ笑った。
「なにバカ言ってんの? 偵察だよ、ただの偵察。あいつ、この顔が好きなんだ」
 ぞんざいに言いながら赤里は立ち上がった。ゆらりと鮮やかな赤いオーラが揺らめきだす。朱鷺の視線をまったく意に介さぬ 様子で彼女はワンピースのファスナーを下ろした。するりと真っ白いワンピースが足元に落ちる。機械的な仕草で彼女はあっさりと下着も外してソファに放った。お椀を伏せたような、形のよい白い胸が露わになる。朱鷺がちっと舌打ちした。
 それを合図にするかのように、赤里のオーラの揺らめきが大きくなり、彼女はびくりと全身を震わせがくりと膝をついた。すると、瞬く間に少女の胸の膨らみがしぼんでつるりと平らになった。長く伸ばした髪はしゅるしゅると頭皮に吸い込まれるように短くなり、丸みを帯びた身体のラインは堅く引き締まった筋肉質のそれに変化する。最後に男性器が突出し、やがて形が定まった。
 わずか数十秒後、そこにいたのは後白河ましろにそっくりな少女ではなく、細身ではあるものの、まぎれもなく高校生くらいの年頃の少年だった。少年はまったく躊躇なくタンスの中からトランクスやTシャツなどを取り出すと手慣れた仕草でそれらを身につけ、ジーンズのファスナーを上げた。タンスの中に収まっているのもメンズの衣服がほとんどで、この人物が日常生活をどちらの性で暮らしているかは歴然としていた。
「変な気起こすなよ。見ての通り、オレは男だからな。女になって一族の子供を産む道具にされるなんてまっぴらだ」
 赤里と名乗っていた『彼』はよく通るテノールで言い放った。顔立ちも赤里とはまったくの別 人で、端正で優しげな風貌ではあるものの男性にしか見えない。
「にしちゃ、中央本家にはえらくご執心じゃないか。本家の正妻なら女になってもいいって思ってんじゃないのか?」
 赤里はどっかとソファに座って脚を組んだ。
「冗談じゃねーよ。あのルナってのがご本家だってのも最近知ったんだぜ? 中央本家の存在自体オレは全然知らなかったんだからな。それに朱鷺、あんただって興味あるだろ? 黄金色のオーラの中央本家が、例の〈赤〉だけ蚊帳の外にしやがった『大老の召集』にいきなり現れるまでどこで何をしてたかってこと。なにしろ、あんな奴のことはつい最近まで噂にさえのぼらなかったんだからな。だからオレは、あいつのお気に入りの後白河ましろそっくりの格好で偵察してたんじゃねーか」
 そこまで一気にまくしたててから、彼はいったん言葉を切って、また何気ないふうに続けた。
「それに考えてもみろよ。アレが本当にご本家なら〈忌まわしき赤〉から嫁取りなんぞすると思うか? それこそ、〈後白河の姫〉が嫁に行くに決まってんじゃねーか。バカらしい」
「へーぇ。オレはまたてっきり、あの恐ろしく綺麗な顔にいかれちゃったんじゃないかと思ったんだけどね。ま、いいや。そーゆーことにしとくか」
 相手の言葉に響いた苦さに気づいたのか、気づかないのか、朱鷺は軽薄そうにそう言いながら、赤里のワードローブを探っている。
「おい、あんまり引っかき回すなよ」
「おっ、これがいい。おまえのにしちゃ大きいじゃねぇか」
 そう言って朱鷺が手にしたGジャンを目にして『赤里』は思わず叫んだ。
「それはダメだ!」
「……なんだよ。びっくりさせんなよ。いきなり大声出しやがって」
 赤里は立ち上がって朱鷺に右手を差し出した。
「……それは借り物なんだ。あんたに汚されたら返せなくなっちまう」
「へっ、借り物ね。わーったよ。ったくケチくせぇ野郎だな。血相変えやがって」
 ぶつぶつ言いながら、朱鷺がGジャンを放り投げた。
「あんたに服貸して、ちゃんと戻ってきたためしがないからな。どうせ、豹になってビリビリに破いてんだろ。そうだ、またお得意の豹になって帰ればいいじゃん。……今夜だって、わざわざ豹になってみせる必要あったわけ? 中央本家の前でかっこつけたかっただけなんだろ?」
「っるせぇ! ああいう相手にはハッタリかましとかなきゃ駄目なんだよ。言っとくが、〈中央本家〉を味方につけたいって気持ちは解る。解るが、絶対深入りするんじゃねぇ。奴のバックにゃ黒川透がついてるって話だ。あいつは一度に万単位 の人間を支配できるって噂の化け物だ。おまえひとりでどうこう出来る相手じゃねぇぞ 」
 朱鷺は赤里と名乗っていた少年の頬を軽くぴしゃっと打つと、マンションのドアを乱暴に閉めて出ていった。これ見よがしに大きな足音が廊下に響く。
 残された細身の少年は、床に投げ捨てられたGジャンを丁寧に拾い上げほこりを払った。そして、そっと袖を通 す。はじめて逢った日の夜、ルナが無理に貸してくれたGジャン。赤里には大きすぎるけど、今のオレにはちょっと大きいだけだ。窓ガラスにまた自分の姿が映るのが見えた。細身で華奢な少年の姿がそこにあった。
 これが、オレだ。ルナが追いかけてくるはずが、ない。あの綺麗な切ない瞳がオレを見つめるはずが、ない。
 彼は窓越しに空を見上げた。
 月は──ビルの影に隠れて見えない。

 


 

HOME



Copyright(C)2004, Mai. SHIZAKA. All rights reserved.
本作品の著作権は志咲摩衣に帰属するものであり、無断転載・再配布を禁じます。