ルナティック・ゴールド
       第2部 月は無慈悲な夜の王

志咲摩衣


 

1 ラ・メール
 



 スクリーンの中、黄金色の光が舞う。
 ゆらゆら揺れる黄金色の髪。光の射し込みで黄金色に光る淡い琥珀色の瞳。

DANCE 狂おしく
DANCE 黄金色に
DANCE 終わりのない恋

 甘く切ないラブソング。
 大きく映し出されたそのひとの美貌は、黄金色のラメの散らばる薄紅に彩られ、どこか寂しげに微笑んだ──。
 それが、一週間まえにオンエアされたばかりの、いま話題のCMであった。この驚くべき美貌の持ち主が、バックに流れるCMソングの男性ヴォーカリストであることは、いまや日本中の誰もが知っていた。最後に映し出された化粧品の商品名『ルナティック・ゴールド』がそのまま彼の芸名であることも。
 だが、彼の本名・国籍などはマスコミに対して公表されず、一切が謎につつまれたままであった。

「おい、哲也」
 その声に、少年はななめに見上げていた大きなスクリーンから視線をはずした。
 ところは新宿駅東口。少年がルナティック・ゴールドのCmに見入っていたのは、全国的にすっかりお馴染みの、あの新宿ALTAの大スクリーンである。少年の近くでCMを見ていたふたり連れの女子高校生がルナの話題できゃあきゃあと盛り上がっているのが聞こえる。
「そこいらの女なんかよりずっとキレイだからな、われらがご本家サマは」
 さきほど、声をかけたほうの少年がふたたび口をひらいた。その皮肉な口調に、哲也と呼ばれたもうひとりの少年は言葉にはださず、ただ批判的な眼差しで応じただけだった。
「こわっ。そういや、おまえもご本家サマの熱烈なファンだっけ?」
「……それ以上、なんかいうつもりか? 朱鷺」
 哲也は、ほっそりとした華奢な体格には似合わない落ち着いた口調で、自分よりかなり上背のあるもうひとりの少年を睨みつけた。
 ふたりとも、黒っぽい紺色のブレザーに明るいブルーのネクタイの制服姿である。それが、都内の人間ならすぐにわかる、有名私立進学校ラ・メールの制服であった。
「まったく、下のクラスに落とされるなんて、恥を知れよな」
 そう言って、哲也は伊勢丹のほうへ向いていた足をくるりと反対方向へ変えた。
「哲也? 買い物すんじゃなかったのか?」
「その気が失せた」
 無愛想に言うと、そのまま朱鷺を振り返りもせず、駅へと足早に歩いてゆく。その後ろ姿を見送った朱鷺は、忌々しげにALTAの大スクリーンを振り返り仰ぎ見た。
 あのCMが流れるたび、哲也がイライラする。
「ったく、邪魔くせぇ」
 消えてくれりゃいいんだ、〈中央本家〉なんか。哲也のまえから。
 黒豹の朱鷺は小さく呟いて、哲也のあとを追った。

 ちょうどそのころ、〈中央本家〉──ルナティック・ゴールドはテレビ局の控室にいた。
「やだ! やだ、やだ、やだっ! なんで、オレがこんなにぴったりしたの着なくちゃいけないんだよっ!」
 ルナが文句を言っているのは、たったいま着せられたばかりの歌番組用の衣装に対してである。
「こんなの、やだっ! ぜーったい、やだかんなっ! もっと、ちゃんとしたの出せよ!」
 身も蓋もない言い方をしてしまうと、この時、世界有数の大財閥・黄神一族の〈中央本家〉にして、謎のヴォーカリスト、ルナティック・ゴールドは、ひたすら一生懸命駄 々をこねていたのである。
 この、どちらかといえばきつめの、神秘的な美貌の持ち主が、まさかこんな駄 々っ子になってしまうとは、CMの愁いを帯びた映像からはちょっと想像がつかないにちがいない。
 だが、彼がつい数ヶ月前までは、そこいらの男の子と同じに学ランを着てごくごくフツーに中学校に通 っていた事実を思い起こせば、いま着せられた衣装に駄々をこねるのも無理はなかった。
 それは──。ルナのスリムなボディラインがばっちり出てしまう真っ黒なレオタードふうの衣装にルビーのアクセサリーをあしらっただけの──例の肝心なところはふわりとした別 布で隠してあるものの──アブナイこと極まりないものだったのだ。
「おいっ! 聞いてんの? ……マネージャーさんてばっ!」
 ルナは自分に背中を向けて立っているマネージャーの、ゆるく結んでちょろりと垂らした髪をぐいっと引っ張った。
「いたたたたたたた……しょうがないだろう? ルナちゃんがそんなのしか似合わないんだから」
 髪を引っ張られた彼は、クスクス笑って振り返りながらこたえた。
「似合わないってば! 絶対、ヘンだよ、この服!」
「お仕事、お仕事。割り切って、せっせと稼ぎなさい。ちゃんと実績ができたら、ルナちゃんの意見もきいてあげようね」
 言われて、ルナは恨めしそうにマネージャーを見上げた。
「ほらほら、大好きなメイクの時間だよ」
 そう言って、手慣れた仕草でぷーっとふくれているルナのあごをひょいと持ち上げる。
 それは、一介のスタイリストから、ルナのゼネラルマネージャーに昇格した高城隼人こと後白河綾瀬だった。

 ルナのデビューが決まって、透・綾瀬・青野、そして令の四人は芸能プロダクションを設立した。その名も『オーディン・プロダクション』という。
 懸念していた〈赤〉の反発もおおっぴらには受けずにすんだ。が、実はこれには理由がある。というのも、この『オーディン・プロダクション』の筆頭株主は黄神令、つまり〈中央本家〉その人なのである。〈中央本家〉こそは黄神一族の象徴であり──令自身に自覚はないのだが──その名前にはそれだけの重みがあった。実際はどうだかわかったものではものの、芸能界の〈赤〉は表向き黄神大老に対して臣下の礼をとっている。それが、大老の認めた〈中央本家〉に真っ向から反発するわけにはいかないのである。そのうえ、黄神大老の孫・黒川透がオーナーのひとりとして名を連ねているとなれば、なおさらだった。
 青野の父、世界に名だたる海棠グループ総帥・海棠青蔵も今のところ黙認している。
 これは、策士・後白河綾瀬の策略だった。

 物語は二週間ほどまえにさかのぼる。
 令・透・綾瀬・青野の四人は都内のホテルの一室でプロダクション設立の打ち合わせをしていた。
 だが、御曹司三人組はともかく、アパート住まいの地方公務員の息子・高見沢令に株主になれるような資金があるはずもない。当然のなりゆきで、会社設立のための株の配当などの話題になると令ひとりがのけ者になってしまう。
 ちぇっ、そりゃさ、ルナのためのプロダクションなんだろうけど……やっぱ面白くないよな。
 会社の話題で盛り上がる綾瀬や青野を後目に、なるべくさりげなさを装って、令が席をはずそうとした──その時。
「令も株は欲しいでしょう?」
 ふいに、綾瀬が話をふってきた。
「株なんて、オレに買えるわけねーじゃん」
 からかわれている──そう思って、令はぷいっと顔をそむけた。
「ふぅん、そーお?」
 綾瀬は令の顔をのぞき込んだ。背後で誰かさんが紫色のオーラを燃え上がらせていようが、この人にとっては知ったこっちゃないようである。
「そうなると……ふぅん、ルナはぼくたちの使用人てことになるんですねぇ」
 綾瀬は令の顔の間近で、いつものようににっこり笑った。
「へっ?」
 ……使用人?
「ひらたくいうと、ぼくたちがプロダクションの持ち主。ルナはタレント。つまり、社員みたいなものですからね」
 そう言って、いかにも愉快そうにくすくす笑う。
「へーっ、そうか、そうか。令ってオレらの部下になるんだ」
 話のなりゆきを聞いていた青野がニヤニヤしながら加わってきた。
「そりゃいいぜ。美人のルナちゃんが、お茶いれてくれたりすんだよな、きっと」
 ムッ。
「水割りなんかもつくってくれちゃったりなーんかして。でへへへへ」
 ムッカッ。
「な、ななな、なんで、オレが青野に水割りつくんなきゃいけないんだよっ?」
「水割りくらいならいいんじゃねーの? 新人タレントなんて、芸能プロ社長のいいなりだかんなァ。へっへっへっ。そーだ、今度、背中流してくれよなっ」
 言ってから青野はふだんの令の姿を見て、色惚けオヤジのようにニヤリと笑った。
「いつもの令じゃダメだぜ。ルナちゃんで、な」
 ブッチーッ!
「なんで、オレがそんなことやんなきゃなんねーんだよっ? やだかんなっ! オレ、ぜーったい、ンなことしねーかんなっ!」
 そう叫んだ令に、綾瀬がしれっと言った。
「なら、株を買うんですね」
 とどのつまり、令は青野に多額の借金をして、筆頭株主・代表取締役におさまってしまった。どうせ、借金するんなら、一番偉くなってしまえ、と思ってしまうのが、この〈中央本家〉のご本家様たる所以かもしれない。
 そんないきさつで、綾瀬はみごと、『借金してまでオーディン・プロの筆頭株主になること』を令自身の意志で決めさせてしまったのである。
 おかげで、〈赤〉の反発は免れたが、令本人は当分、働けど働けど借金を返済するだけでまったく収入にならない「じっと手を見る」石川啄木状態にある。

「綾瀬のむっつりスケベ!」
 さて、番組の収録を終え、テレビ局からテレポートで帰ってきた、これが令の第一声だった。
 プロダクション設立後、四人は新宿の高層マンションの最上階を借り切って移り住んでいた。ただし、透はプライベートな用件が片づかないということで、ここと黒川邸を行ったりきたりしている。
「それより、そのテレポートのほうが、よっぽどスケベなんじゃねーの?」
 共有スペースでふたりの帰りを待っていた青野が、ゲラゲラ笑いながらふたりを指さした。なるほど、今ここにいない誰かさんが見たら卒倒しかねないほど、しっかりとルナの令と高城の綾瀬は抱き合っていたのだ。
 綾瀬が高城っぽく、ふふん、と笑う。
「……ち、違うって! これは、こうするとテレポートの安定がいいんだよっ!」
 言いながら令は真っ赤になって綾瀬から身体を離した。
「ほら、見ろよ。綾瀬ったら、いきなりこんなエッチくさい衣装着せるんだぜ」
 令はテレビ用のレオタード風の衣装とメイクのまま、腰に両手をあてて青野向かって訴えた。
「似合うじゃんか」
 青野はなんの下心もなくボーッと答える。
「でしょう? 高城のセンスはいいって評判なんですよ」
 綾瀬はさも満足げににこにこしている。
「なんだよ、青野までっ! ったく、もういいよ。着替えてくるっ!」
「あ、ちょっとストップ」
 ぷりぷりしながら、金色の髪を揺らしてシャワールームに向かう令に綾瀬が声をかけた。
「なんだよ?」
「綾瀬の姿に戻してくれませんか?」
 〈白〉の綾瀬は自力で変身できない。いちいち、〈黒〉と〈赤〉の術者に頼むのも面倒なので、最近はもっぱらオールマイティの中央本家──令が綾瀬の変身を担当していた。
「やだ。今日は疲れてるから明日でいいじゃん」
 すねている令はちょっとだけ意地悪してやろうと思った、が。
「ほーう、ルナちゃん。オレに向かってそういうこと、言うんだね?」
 背後の綾瀬の声を聞いたとたん、どっぷり後悔した。
「さーてと。今度はルナちゃんにどんな衣装を着せようかなァ。そうだ、スカートなんかいいかも。ここは、流行の先取りってことで」
 口調もムードもころっとゼネラルマネージャー高城隼人に変わっている。
「綾瀬っ!」
「なんなら、一度くらい本格的に女装させちゃっても、ルナちゃんならウケるかも。ミニスカートがいいかな?」
「わ、わかった。綾瀬っ。高城さまっ! すぐ、もとに戻すからっ。戻させていただきます!」
 令が拝むような格好でそういうのを見ながら、綾瀬はにっこり笑った。
「冗談はさておき、マジメな話、もとに戻っておきたいんですよ」
 令は赤べこよろしくこくこくとうなずいた。
「明日はひさしぶりの学校ですから」

 令は朝が苦手だ。
 いつまでだってベッドの中でぬくぬくしていたい。目が醒めかけて夢と現実のあいだにいるような、あの心地よいとろりとした時間、思いがけず綺麗なメロディが浮かぶことだってある。それは本当に幸福な時間なのだ。
 だが、翌朝は実にあわただしくはじまった。
「今日から転校だなんてっ。どーして教えてくんなかったんだよっ?」
「ひさしぶりの学校だって言ったでしょう?」
 すっかり身だしなみをととのえて、紅茶を口にしながら綾瀬が言った。
「まさか、ぼくだけ学校に行くと思ってたんですか、令?」
「ううっ」
 令は言葉につまった。ルナの仕事に夢中で学校のことなどきれいさっぱり頭から消えていた、とは言いにくい。令は都合の悪いことは棚にあげることにした。
「ああーっ、制服あんのかよ? それに、教科書とか筆記用具とか。うっわーっ、もうすぐ八時じゃんかっ」
「ばーか。学校ごときで慌てるんじゃねぇよ」
 青野がしらっと令を見た。
「ンなこと言ったってーっ! 学校ってのはな、初日が大切なんだぜ。第一印象でクラスになじめるかどうか決まるんだ」
「ケッ、あほらし」
「うっわーっ、髪、髪っ、はねてるじゃんかーっ! ドライヤーとワックスどこーっ?」
「オトコのくせにいろいろ細けぇヤツだな」
「青野だって、もう頭キレイになってるじゃんか」
「令さま、制服をお持ちしました。こちらがお鞄でございます」
 そう言って持ち物一式を持ってきてくれたのは、あの黄神邸のじいだった。〈中央本家〉たる黄神令が孫や他の子弟たちと暮らすというので、大老が一番古株の執事じいを寄こしたのである。
「うわーっ、ありがとーっ! じいだけだよ、オレの味方は」
「もったいないお言葉でございます、令さま」
 そう言って、じいは深々と頭を下げた。
 実はヘアスタイルに意外にこだわる令の支度が整ったのは、始業十五分まえのことだった。
「こっちだ、こっち。もうそっちじゃ間に合わねーよ」
 出口に向かおうとした令にむかって、青野が上を指さす。
「へっ?」
 びっくりしている令の腕をつかんで、青野はテレポートした。
「ホントはテレポートで学校まで行っちまえば早いんだが。学校には黄神でないのもたくさんいるしな」
 青野がテレポートした先はマンションの屋上だった。そこにあったのは──。
「えぇーっ! ヘリコプター?」

「すっげーっ! かっこいーっ!」
 上空から街並みやビル街を眺めて令がはしゃぐ。令たちよりも先にヘリに乗り込んでいた綾瀬がクスクス笑いながら口をひらいた。
「令。ちょっと、言っておきたいことがあるんですが」
「へっ? 大丈夫だよ。ちゃんと落ちないように気をつけてるから」
 ずりっ。綾瀬はちょっとだけ、コケた。
「……そういう問題ではなくて……学校にはふつうの人もいますし、〈赤〉の一族もいます。ラ・メールに通っているのは表向き黄神大老サイドの〈赤〉の子弟ということになってはいますが、実際どうなっているかわかったものではありません。そんなわけで、あなたのことを表だって〈中央本家〉の扱いはしませんから覚悟しておいてください。もちろん、ルナのことも秘密です」
「そりゃそーだよっ! オレがあんなのに変身するなんて、絶対バラすなよ。あんな格好、歌うためにやってるだけだかんな」
「安心しな。おめぇの正体知ってる奴らには口外法度の触書がまわってるぜ。おっ、学校が見えてきた」
「えーっ、もうおしまい?」
 青野の言葉に令が名残惜しそうに見おろすと、眼下にあった校舎らしき建物がみるみる大きくなってゆく。ヘリは体育館らしき建物の屋上にある、丸くラインが描かれたヘリポートに着陸した。
「すっげーっ。青野ン家ならともかく、学校にまでヘリポートがあんのかよ」
 令はただただ感心していた。
 三人が降り立つと、初老の男がスーツ姿の何人かを引き連れてあらわれ、綾瀬に会釈したあと、青野に向かって挨拶した。
「おはようございます、理事長」
 り、じ、ちょおぉーっ? 青野がーっ?
 なるほど、天下の海棠は伊達ではない。しかし──。
「よっ、令。彼が校長だ」
 青野が同世代の友人でも引き合わせるように紹介する。
「校長の白木右近と申します。〈中央本家〉にご入学いただき光栄に存じます」
 校長は令に対して、腰が直角になるくらい深々とお辞儀をした。
「えっえっえっ、あのっ」
 令としては、天下に名だたる名門進学校の校長先生にこんなに丁寧にお辞儀されてしまったらどうしていいのかわからない。
「おーい、ダメだって、右近。お触れがまわっただろう?」
「はっ、はあ、しかし……」
「ダーメダメ。減点一だ。んじゃ、特待生、クラスに案内してやるぜ」
 青野は校長たちにひらひらと手を振った。

「右近はあれで話のわかるイイじいさんなんだぜ」
「う……うん」
 青野のこういうところを見ると、つくづく生まれながらにして大財閥の御曹司なんだな、と思ってしまう令だった。
 たぶん、オレはどんなに偉くなったって、自分より五十歳くらいは年上の相手を名前で呼び捨てにするなんてできないだろう。
「おめぇはオレと同じ1年A組にしたからな」
 私立ラ・メール高等学校は体育館などの一部の建物をのぞくと、いまどき珍しいお洒落な木造三階建ての校舎だった。令たちが歩くと、きゅっきゅっと軽く床がきしむ音がする。
「都会の真ん中にこんな学校があるんだなァ…… 」
「なーに、言ってんだか。ほら、入るぜ」
 令の感慨などには少しも頓着せず、青野は勢いよく1年A組のドアをあけた。
「よっ、転校生だ。あとはよろしく頼むぜ、先生」
 そう言った青野と綾瀬はさっさと自分の席に着いてしまう。
「へっ?」
 青野のフェイントに令は突然あがってしまった。当然のことながら、転校生はクラス中の注目を一身にあびる。
 うっ……わ……。
 カーッと頭に血が昇った。不思議なことに、あれだけ派手にマスコミに登場していながら、令のあがり症はなおっていなかったのである。
 たしかに、金髪ヴァージョンの令は、自分でも信じられないほど大胆な行動がとれる。だが、令にとって金髪の"ルナ"は、いまだに別人の姿をまとっているような感覚が残っていた。自分だと思えないからこそ、大胆になれる。
 だが、いかんせん、ふだんの令はいまだにあがり症で、ちょっとマジメな高校生のままだったのである。
 ゲゲゲッ、いけない、変身しちまう。
 担任にうながされて、令はやっとこさっとこしどろもどろに挨拶をした。変身しちゃいけない──いままで、このプレッシャーで令は何度も失敗してきた。
  ……ダメだ、落ち着かなきゃ。
 気持ちも足も宙に浮いたまま、担任に指示された席に着こうとした。それがいけなかった。席にたどりつくまでのたった数メートルのあいだに令は思いきりコケてしまったのである。クスクス、女のコの笑う声がした。
 グラリ。
 ひさしぶりに、足元が揺れた。

 ──その時。
 令の頭に、ビリリッと電流が貫くような衝撃が走った。揺れがぴたりと止まる。
 今の──オーラの衝撃波?
 呆然とする令の背後で。聞き慣れた音楽的な声が響いた。
「おはよう、令くん」
 振り向くと、うっすらと微笑を浮かべてラ・メールの制服を着た黒川透が立っていた。

 席に着いてあたりを見回すと、透たちばかりでなくクラスの半数以上が〈大老の召集〉で見た顔だった。令は変身した時に見たものはなぜかVTRのように正確に覚えていた。
 そういえば、女のコがやけに少ない。……あれ? あのコはたしか……タレントの伊原アリス? あれ? その隣は前に美木亜梨名のコンサートで会った浅見えりかだ。おっ、おい、ウソだろーっ? このクラスの女のコってほとんどタレントばっかじゃねーか。そうだ、明日、色紙持ってこよっと。
 そのタレントばかりの女のコの中でも、目立ってカワイイ素人を令は見つけた。
 ……あ、ましろちゃんだ。
 令と目が合うと、ましろは小さく手を振った。
 やっぱ、カワイイ。……なんてこった。オレ、彼女の前であんな派手にコケちゃったのかよ。
「おい、転校生」
 ふいに不機嫌そうな声がしたほうに目をやると、隣の席の男は大老の召集で見なかった顔だった。
「教科書、持ってんのか?」
「あっ、ああ、一限目、何?」
「数学だけどさ。あんま、でれでれ鼻の下のばして女の顔ばっか見てんなよな。あんた、ホントにこのクラスに選ばれたのかよ?」
 隣の男は軽蔑するように言った。
 ムカッ。いいじゃんかよ。カワイイコばっかなんだから。感じワリィ奴。
 ……あれ? でもさ、選ばれた、ってなんのことだろう?

「ああ、おめぇの隣か。ありゃ、〈赤〉の一族の宗家の二番目で赤津哲也ってンだ」
 昼休みになって、令は青野たちと昼食をとっていた。ラ・メールは高校としては珍しい給食システムなのだが、その質の高さがふつうの給食とはかなり違っていた。バイキング形式をとってはいるものの、ちょっとしたホテルのランチ並なのである。ちなみに今日はお寿司の日で、山のようにあった大トロがあっという間になくなった。なんでも給食制は青野がラ・メールの理事長に就任してからはじまったらしい。
「すっげー感じ悪いんだぜ」
 令はとろっと脂ののったあなごの握りを頬張りながらもごもご言った。
「そりゃね、〈赤〉の男は他の黄神にライバル意識むきだしですから」
 綾瀬がクスクス笑った。
「そのうえ、相棒をB組に落とされた恨みもあるしな」
 透が妙にうれしげにくっくっと笑って赤津哲也をちらりと見た。哲也はひとりでぽつんと給食を食べている。
「相棒? B組に落とされた? なんだよ、それ」
「ここは選抜クラスでね。君が入ったために定員オーバーで一番成績の悪い者がB組に落ちたんだ」
「選抜ぅーっ? う、うそだろっ?」
「選抜でなけりゃ、このメンバーが同じクラスになるわけねーじゃんか。理事長のオレが企まねぇ限り」
 青野がニヤリと笑う。
「……だってここって、たしかT大進学率全国ナンバーワンじゃんか。なんでオレがそんな学校の選抜クラスに入っちゃうんだよっ!」
 令は目の前が真っ暗になった。
「本当は君が入らないほうがおかしいんだよ、令くん」
 透が令を見て微笑った。
「大丈夫。赤点にならないよう、教えてあげるって言ったでしょう。ああ、ほら。また、こぼしてますよ」
 綾瀬が高城の時のクセで、令の制服の胸についたごはんつぶを取ってやる。それを、ちらりと見やって透が口をひらいた。
「……話がそれたな。で、その〈赤〉の宗家・赤津哲也の相棒が片平朱鷺。奴の守護者というわけだ」
「とき……?」
 朱鷺と呼ばれていた──あの夜、赤里を連れ去った黒い豹。赤い髪のすらりとした男が豹に変わるシーンが脳裏に甦る。
「〈赤毛の朱鷺〉に会ったら気をつけたほうがいいぜ。なにしろ、赤津のぼうやの護衛のくせして別々のクラスになっちまったんだからな。奴のメンツは丸つぶれだ。たぶん、おめぇのせいだと逆恨みしてるだろうから」
 青野はいつものようにゲラゲラ笑った。
 赤毛の朱鷺、やっぱりあいつだ。赤い眼の黒豹。ふと、赤津哲也に目をやると、彼は席を立とうとしているところだった。目が合うと、哲也は令をジロリと睨みつけた。




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