ルナティック・ゴールド
       第2部 月は無慈悲な夜の王

志咲摩衣


 

3 変身 ─メタモルフォーゼ─
 



 赤里が〈赤〉の宗家に引き取られたのは六歳の時だった。
 それ以前のことは、なぜかよく覚えていない。鋭利な刃物ですっぱりと切り取られたように、記憶が抜け落ちている。ただ、黒いスーツを着た大柄な男に手を引かれて赤津の屋敷の大きな門をくぐったことだけが記憶に鮮やかである。
 引き取られてから、かなりのあいだ、赤里は義父となった人の顔を知らずに過ごした。
 引き取られたその日の夕食の時に、痩せた老人に引き合わされ、以後、この老人が赤里の能力覚醒にあたるのだと聞かされた。この人のことを赤里はただ〈先生〉と呼んでいた。
 この〈先生〉にはもうひとりの生徒がいた。それが、片平朱鷺だった。
「全身の細胞を感じるのだよ。〈赤〉の者ならば必ずできるはず」
 そう言って〈先生〉は幼いふたりに、暗く閉ざされた板張りの広い部屋に結跏趺坐──座禅の座りかた──をさせ、あかあかと燃える壇の炎をただ見つめさせた。ほんの数分で子どもたちはもじもじし始めたが、すぐに〈先生〉の叱責にあい、背筋を伸ばして再び炎を見つめることになった。はじめは、ただそれだけを一日に何時間も続ける日々が過ぎていった。
 数週間後、ついに耐えきれなくなった赤里が〈先生〉に問いかけた。
「これ、なんの役に立つんですか?」
「〈赤〉は炎の一族。その裡に己の変化するさまを思い描くのだ」
「へん……って?」
 赤里がさらに訊く。
「姿を変えることだ」
「姿を……?」
「そうだな。もう試してみてもよかろう。まず、髪を伸ばしてごらんなさい」
 〈先生〉はうっすらと微笑んだ。
「髪の毛が伸びる……の?」
「そうだ。その炎の裡に己の髪が伸びるさまを想像してみるがよい」
 じっと炎を見つめ続けて集中力を養っていた赤里にとって、髪の毛が伸びるところを想像するのは容易かった。闇の中、大きく舌を伸ばすような炎の裡に、同じように髪が伸びるさまが浮かぶ。
 すると──赤里の全身を、ざわり、と鳥肌の立つような感覚が襲った。
 なに、これ?
「そのまま」
 小さく〈先生〉が発した。
 身体がぞくぞくと震えたまま、赤里は炎を見つめ続けた。全身が小刻みに震えはじめる。なにかが、ゆらゆらと身体から溢れ出るのがわかる。
 その時、髪がひゅるひゅると伸びはじめた。全身から溢れ出るなにかの動きにあわせるかのように髪が伸びる。心地よい感覚が赤里の全身を貫いた。
「やめ!」
 〈先生〉の声が耳に響く。
 気づくと床の上に赤里の長い長い髪が渦を巻いている。隣に座っていた朱鷺が呆然とした表情で自分を見つめている。赤里は得意だった。朱鷺にできないことが自分にはできるのだ。それに、あの不思議に気持ちのよい感覚──忘れていた物を思い出したみたいな、感覚。
 それは、〈赤〉が一度手に入れたら二度と忘れることはできない独特の感覚だった。

 赤里と朱鷺には給仕がつけられるだけで、あとはふたりきりで食事をとることがほとんどだった。
「でもよ。髪の毛くらい伸ばせたって、どうせ、おまえは女だもんな」
 給仕が下がりふたりきりになるとすぐに朱鷺が言った。
「なによ、それ?」
 赤里が朱鷺を睨みつける。
「知らねーんだろ? 名前に赤の字が入ってる女は子どもを産むしかできないんだぜ」
「なに言ってんのよ。女の人が子どもを産むのはふつうじゃない」
「じゃねーよ。いろんな男の子どもを無理矢理産まされて、お母さんにはなれねーんだ。赤ちゃんを取られちゃうんだってよ」
 聞いている赤里はもちろん、言っている朱鷺本人も半分はその言葉の意味がわかっていない。だが、赤里は無性に腹が立った。
「なんで、赤ちゃん取られちゃうのよ?」
「オレの母さんが言ってたんだよ。何人も赤ちゃんを取られたって。おまえは絶対〈赤〉の女になるなって」
「女になる? 朱鷺は男の子じゃない」
「おまえ、なーんも知らねーんだなァ。あの〈先生〉はオレが女になる方法を教えてんだぜ。でも、オレは絶対女にはならねぇ」
「そんなの、変じゃない。あたしは女の子なんだから、女になる方法を教えるわけないでしょ」
 朱鷺はぐっと言葉につまった。
「おっ、オレにだって大人の考えてることぜんぶわかるわけねーだろ?」

 その夜、赤里は夢を見た。
 大人の男たちが追いかけてくる。いつのまにか、成長した赤里は腕に赤ん坊を抱いている。
 あたしの、赤ちゃん──だ。男たちはこの赤ちゃんを狙っているのだ。
 赤里は走る。腕に抱いた赤ん坊が大声を張り上げて泣く。男たちの足は速く、今にも追いつかれそうになる。
 イヤだ、あたしの赤ちゃん──。
 赤里の髪が蛇がのたうつように男たちへと伸びる。赤い蛇が彼らの首に巻きつくと、喉から厭な音がした。
 目覚めた時、赤里は枕を濡らしていた。あの後、肩で切りそろえたはずの髪がまた畳のうえに渦を巻いていた。

 赤里がかなりスムーズに自分の意志で髪を伸ばせるようになったある日、朝食のあとに赤里は朱鷺から離され、ひとり今まで足を踏み入れたことのない奥座敷へ案内された。
「どこに行くの?」
「お義父上様のもとです」
 案内してくれた若い女性が短く告げた。
 よく晴れた日の朝というのに、うす暗い奥座敷で、赤里はちょこんと正座して義父となった男を待っていた。目の前には御簾が垂れていてその向こうはまったく見えない。どうやら義父は自分と顔を合わせるつもりはないらしい。ひそかに対面の日を楽しみにしていた赤里はがっかりした。唇をきゅっと噛んでうつむいた時、御簾の向こうでさらりと障子をあける音がして誰かが入ってくる気配がした。
「赤里、か」
 くぐもった、低い声。
 それがはじめて聞く義父の声だった。
「はい」
「わしが〈赤〉の宗家。おまえの義父(ちち)となった男だ。わかるな?」
「はい」
「我が子となったおまえには、取るべき道がふたつある。少しの猶予を与えるから、いずれかを選ぶがよい」
 ここで、〈赤〉の宗家は間をおいた。御簾の向こうから赤里をじっと見つめているのが何故かわかる。
「よいオーラだ」
 くぐもった声が聞こえた。
「……道のひとつは、わしの娘として、一族の良家に嫁ぎ子孫をなすこと。だが、あらかじめ言うておくが、この場合、ひとりの男に嫁ぐということはあり得ぬ。子をなしたなら、すぐに別の家に嫁ぐこととなる。まあ、役目さえ務めてしまえば、宗家の娘ということで、最後に嫁いだ先ではそう悪い扱いも受けるまいが」
 六歳の赤里にははっきりとはわからないが、それでもそれはやはり違うような気がした。
「……好きな男の子と結婚できないんですか?」
「〈赤〉の娘にそれは許されておらぬ」
「でも、好きな人と結婚するのがふつうでしょう?」
 幼い娘の問いに〈赤〉の老人は御簾の向こうで苦笑するような声をだした。
「わが一族はおまえの言うふつうではないからな。ことにおまえはオーラが鮮やかすぎる。良い子が産めようから凡庸な一生は送れまい。何人もの男との婚姻を強いられよう。不憫なことだが致し方ない」
「そんなの、イヤです!」
 赤里は叫んだ。
「ならば、道はひとつしかない。おまえのオーラは美しい。〈赤〉の一族を導くのに相応しいかもしれぬ」
「〈赤〉を導く……?」
「わしの跡継ぎとなり、この国の〈赤〉の一族の長となるのだ──ただし」
「ただし?」
「長は男子でなくてはならぬ。伊佐那岐命(イザナギノミコト)の代よりの、それが契約だ。それでよければ、わしの後継候補として育てよう。ふたつにひとつだ。一週間の猶予をやろう」
 そう告げると、義父が御簾の向こうで動く気配がした。障子がさらりとあいてからふたたびしまる音がした。
 赤里はしばらくの間、身じろぎもせずにそこに座り続けていた。

 一週間などまたたくまに過ぎ去っていった。
 その間も〈先生〉の指導はつづけられ、赤里は髪や目の色なら自由に変えられるようになっていた。不思議なことにこのころの赤里は自分が変身できるという事実になんの違和感も持っていなかった。記憶を失っていたせいか、この少女はある意味で一般常識の外にいた。
「心は決まったか」
 御簾の向こうから義父のくぐもった声がした。
「はい」
 赤里は乾いた唇を少しなめてからふたたび口をひらいた。
「お義父様の跡継ぎになりたいと思います」
「よいのか」
「みんなの上に立つほうがいいです」
「そうか」
 〈赤〉の長はうなずくように言うと、御簾の向こうで小さく動く気配がした。──すると。
 ゆらっ、と御簾が揺らいだ。その下から土色のものがひゅるりと蠢く。赤里はびくりと震えた。
「わしの後継ならば、これしきのことで震えるでない」
 〈赤〉の長のくぐもった声が、なぜか頭に響いて聞こえた。土色のものは触手のようにひゅるひゅると赤里のほうへ伸びてくる。昼でも暗いこの奥座敷のこととてよくは見えないが、赤里が生まれてこのかた見たこともないものなのは確かだった。
 それが鞭のようにしなって赤里の額に触れた。ひやりとした感触に赤里は声をあげそうになるのを必死で堪える。それが赤里の額に六芒星を描くと、ふいにびりりと電流のような衝撃が全身を走った。細胞がぶるりと震えた──そんな感覚。
 その刹那、なにかのイメージが流れ込んできた。なにかの、パターンのようなもの。額に触れたものからびりびりと熱いなにかが流れ込んでくる。身体の中がぐらぐらと熱湯が煮えたぎるように小刻みに揺り動かされ、赤里の眼裏に閃光が走り抜けた──。
「あああああああーっ!」
 身体がバラバラになる。中身と外側が裏返しにされているみたいだ──赤里は思った。
 赤里の全身に太い血管が浮き出たような筋が走る。
 だが、次の瞬間。
 土色の触手が触れた額から、赤里の身体は変化していった。目の形が瞬く間に変化し、ついで鼻のライン、唇、頬から顎のライン──まるでドミノ倒しを見ているかのように鮮やかな変化だった。
 強制変化──〈赤〉の長は赤里の遺伝子に直接働きかけ、強制的に変化させたのであった。
 変化は呆気なく終わった。土色の触手が赤里の額を離れ、しゅるしゅると御簾の向こうに戻っていった。突然、激しい緊張から解放された赤里はがくりと膝をついた。いや、そこにいた者はすでに元の赤里ではなかった。それは──。
「少々、手荒だったが気分はどうだ?」
 御簾の向こうからくぐもった義父の声が聞こえる。聞こえてはいるのだが、なぜか自分の耳が聞いているのではないような感じがする。だが、自分はこの人の跡継ぎになると決めたのだ。弱音を吐いていてはいけない。赤里であった者はあえぐ呼吸を整えて声を絞り出した。
「大丈夫……です」
 ……? 声が、違う。
「わしの跡継ぎとしての姿を与えた。以後、その姿を真(まこと)の姿として使うがよい」
「は……い」
 赤里は自分が突然変身させられた姿に気づいてショックを受けた。覚悟のうえだったが、まさか、こんな突然に。
 下半身の違和感は、幼い少女であった者には残酷な感触だった。赤里は今、少年の肉体に変化させられていたのである。
「これよりは、赤津哲也と名乗るがよい」
 義父のくぐもった声が頭の中に響き渡った。
 その時、回廊に面した障子をするりと開けて入ってくる者があった。
「失礼いたします。旦那様、片平朱鷺を連れて参りました」
 朱鷺……!
 慌てている暇もなく、中に朱鷺が入ってきた。
「心は決まったか」
 赤里はドキリとした。〈赤〉の長は自分に訊いたのとまったく同じことを朱鷺に訊いている。
「はい。女となるより、男のまま、赤里を守るほうを選びたいと思います」
「よいのか?」
「はい」
 そう応えながら朱鷺が、背後から自分の後ろ姿をちらちら窺っている視線を赤里は感じた。
「そうか。赤里はたった今、わが跡取りとなる道を選んだ。以後、赤津哲也を名乗り、わが後継候補のひとりとなる。……哲也」
「はい」
 朱鷺がはっと息を飲む気配がした。
「以後、片平朱鷺はおまえの臣獣(しんじゅう)となる」
「しん、じゅう……?」
「獣の姿をとって主人を守る〈赤〉をわれらはそう呼ぶ」
「獣? そんな姿にならなくても……」
「朱鷺はおまえほどのオーラを持ってはいない。子を為す女となるか、臣獣となるよりほかに方法はない」
 有無を言わせぬ口調だった。
「片平朱鷺、近う寄れ」
「はい」
 朱鷺が横に並び、ちらり、と赤里を見た。
 なにかを思う間もなく。御簾がふたたび揺らぎ、ひゅるりと土色の触手が朱鷺の額に伸びた。
 朱鷺の変化は赤里自身のそれより劇的だった。触手の触れた額からぴくぴくと痙攣がおこり、朱鷺は絶叫した。空を掻きむしるように伸ばされた両手の爪が弾け飛ぶ。薄闇の中、かっと見開かれた瞳が赤く光った。その時。
 黒く短い剛毛が頭部から朱鷺の全身を覆いはじめた。叫びをあげた口が大きく引き裂け、幼い歯が鋭い牙に変化する。筋肉や骨がみしみしと音をたてて、四肢のバランスが変わってゆく。
 数分後、朱鷺が成った者はまだ成長しきっていない一頭の黒豹だった。黒豹はとまどったように、獣らしからぬ所作で左右に首を振って赤里を見た。そして、小さくうなり声をあげてから目をしばたたかせた。
 その時、触手が赤里の手首を一閃した。すうっと斜めに赤い筋が走る。
「臣獣よ、主の血を覚えるがよい」
 頭に直接響く声に促されるままに黒豹はそろりと動き、呆然としている少年の手首の血をざらりとした舌でなめた。
「これで臣獣はたしかにおまえの物となった。もはや、逆らうことはできぬ」
 満足げな〈赤〉の長の声が頭の中に響きわたった。

 奥座敷を退出すると、すぐに赤里は使用人から着替えをうながされた。手首の傷はすでに跡形もない。
 朱鷺はどうなるんだろう。
 うつろな意識のまま鏡の前に立つと、そこにスカートをはいた見知らぬ男の子がいた。恥ずかしさに頬がカッと熱くなる。赤里は勢いよく女の子の服を脱ぎ捨てた。頬にあたたかいものが伝い落ちる。赤里は無理に目をごしごしこすった。男物の前のあいた下着が恥ずかしくて、すぐにズボンをはかずにいられなかった。すべてを身につけて、また鏡を見ると、目を赤くした男の子がひとり立っているだけだ。
 こいつの名前は赤津哲也だ。赤里じゃ、ない。オレは女の子じゃ、ない。〈赤〉の宗家の跡取り、哲也なんだ。
 そう思ってから、また、少年は大声を張り上げて泣いた。




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