ルナティック・ゴールド
       第1部 月下の一群

志咲摩衣


 

9 夢、夢のあと

 


 令は鏡の前に立っていた。自分の変身シーンを眺めていたのである。
 ふーん。こりゃ、並のSFXよりずっと面白い。なんせ、ホンモノだもんなァ。そういえば、変身した自分をじっくり見るのは初めてのような気がする。オーラを自由に操る、オトコでもオンナでもない不思議な生き物。こいつ、性染色体はどうなってんだろう? 令は他人事のように考えた。オーラと同じ黄金色の長い髪、淡い琥珀色の瞳。他は肌の色と無性体になったことくらいしか、元の自分と見た目は変わっていない。そのはずなのに、どうしてこんなに違うんだろう。
 時計に目をやると、まだ朝の八時前だ。こんな時間にすっきり目が覚めるなんて珍しい。令はなんとなく散歩に出掛けたくなった。

 朝の澄み切った空気がすがすがしい。だが、やっぱり普段の姿の自分とは感じ方が全然違う。オーラの感覚は繊細で、空気の襞まで生々しい。頬を掠める風を生き物のように感じて、つい鼻歌が出てしまう。新しいメロディが次々と泉のように湧き出でる。
 海棠邸の周辺は閑静な住宅街で、由緒ありげな家並が威風堂々としたたたずまいで続いている。丹念に刈り込まれた庭木の濃い緑が綺麗だ。 そのあいだをゆったりした気分で足の向くまま歩いて行くうちに公園に面した広い道に抜けた。近くに学校でもあるのだろう、道の向こう側から制服姿の女のコたちが数人歩いてくるのが見えた。
 そういえば、オレの転校はどうなったんだろう? 令が能天気に考えていると、中のひとりが自分を指さしてなにか言ったのが目に入った。他の女のコたちが「えーっ」「うっそ」「マジ?」のお決まりの台詞を発したあと、はじめに令を指さしたコが意を決したように走り寄ってきた。
「あっ、あのー」
 言ってから下を向く。
「……なに?」
 なんだろうと思いながらも機嫌さえ悪くなければ愛想のいい令はにこっと笑う。
「昨日、亜梨名ちゃんのコンサートに出てた方ですよね?」
 女のコが真っ赤になった。
 あ、そっかァ、あれ中継したてたんだ。
「……うん、そうだけど?」
 それを聞いて女のコは顔をパッと明るくして後ろにいた仲間を振り返った。
「ほっらァ、やっぱ、そうじゃない」
 後ろのコたちもぞろぞろ集まってくる。
「あのォ、その……新人のアーティストなんですか?」
 最初のコがまた訊く。
「へっ?」
 予期せぬ話の展開に令は目を丸くした。
「えっと、すっごくステキであたし、ファンになっちゃったんです!」
 そう言って彼女は持っていたスケッチブックを差し出した。
 ちょっ……ちょっと、タンマ。
「あっ、あたしも」
 おっ、おい、なんなんだ?
「ずっるーい。あたしが勇気だして声かけたんだからねッ」
「ンなこと言うと、昨日のDVD焼いてあげないんだから」
「ちょっとォ、あんたたちうるさくしちゃ失礼じゃない」
「CDはいつ出るんですか?」
 呆気にとられているうちに令はわいわい言う女のコたちに取り囲まれてしまった。気がつくと、道行く人々も足を止めて令を見ている。
 ウソだろーっ?

「彼は何者なんですか? 昨日のコンサートで彼と一緒だったでしょう」
「どーでもいいじゃんかよォ、誰だって」
 海棠の御曹司はさもうるさそうにツンツン立てた髪を撫でた。
「どーでもよかないですよ。あの謎の金髪のおかげで、美木さんの事務所も局もゆうべは電話が鳴りっぱなしだったんですからねッ」
 有名な芸能レポーター、栗山伸広の後ろでカメラが回っている。それに向かって青野はいたずらっぽくウィンクしてからゲラゲラ笑う。
「ありゃりゃ、せっかくの取材中、残念だけどカメラの具合悪そうだぜ?」
「冗談はやめて下さいよォ、いくら海棠さんだって彼は隠し切れませんからね」
「へーっ? オレにそんな口きいていいのかよ?」
 青野は不遜に言い放った。だが、栗山も突撃レポーターとして名をはせている男だ。これくらいのことで負けてはいない。
「なんに使うつもりなんですか、彼。教えてくれたっていいでしょ。今のご時世、マスコミをじらすのはかえって効果 が半減するってモンですよ」
「ったく、ンなこと言ってねぇで、オレと今つきあってるモデルの仲でもスクープしてみろっての」
 そう言って青野は栗山の肩をトンと押した。軽く押しているだけなのに大柄の栗山が数歩後ずさる。ニヤリと笑った青野はぴらぴら手を振って応接間から出て行く。さすがの突撃レポーターと言えども天下の『海棠』の御曹司の後をそれ以上は追えず、おとなしく後ろ姿を見送った。
「栗さァん」
 カメラマンが情けない声を出した。
「なんだよ、シケた声出すなよ」
 栗山が煙草に火をつける。
「今の全部撮れてないっすよ。ホントにカメラの調子ヘンだわ」
「ふん、黄神相手じゃそういうこともあるわな」
 栗山はさして驚きもせずに煙草をぷかぷか吸いはじめた。なんといっても、黄神はただの金持ちじゃないからな。
 栗山は下唇をぺろりと舐めた。あちらさんにとってマズイ時にゃ、決まって必ずカメラやマイクの調子がおかしくなる。黄神一族には絶対『なにか』があるはずだ。くそっ、いつか必ずスクープ取ってやるからな。それにはまず手始めにあの金髪だ。あれはオレのこめかみにピシピシきやがる。アレが偶然海棠のボンボンと一緒にいたわけがない。
 栗山は冷めたコーヒーを一息に飲み干して唇をぎゅっと噛んだ。

 ふうっと青野は大きく息をついて携帯を切った。
「ったく、あのヤロー、どこ行ってやがる。結構大変な展開になってきやがったぜ」
 ぶつぶつ言う青野の目の前に突然金髪が現れる。テレポートしてきた令だ。
「お、おめぇ、その恰好でどこ行ってたんだよ?」
 思わず青野が叫ぶ。
「うん。ちょっと散歩してたらさ、なんだか人が集まってきちゃって……びっくりして逃げてきちった。ああ、なんだか朝っぱらから疲れたァ」
 令がふうっと息をついて絨毯にぺたんと座る。
「散歩ォ?」
 青野はのけぞった。
「おめぇは何考えてんだよッ? 夕べは夕べで夜中にフラフラ帰ってくるし。まさか、夕べ自分が何やったか覚えてないわけじゃねぇだろうな?」
「夕べ? 亜梨名の魔霊を散華させただけだろ?」
 令はけろりと言ってのけた。
「でも、結構みんな覚えてるもんなのな。オレ歌ってたのって、ちょこっとなのに」
 実を言うと、令自身はあの時魔霊を散華させるのに夢中で自分がどんなふうに歌ったのかさえよく覚えていなかった。そう、あれは無意識の行動だった。今思えば、亜梨名と観客のオーラに支えられていた魔霊を散華させる方法はあれしかなかっただろう。つまり、魔霊は亜梨名と観客に支えられていたのだから、その支えを無くしてしまえばいい。そのためにまず、魔霊と融合しかかっていた亜梨名のオーラを強引に引き離す。そして、逆に自分のオーラ自分のオーラを亜梨名のそれと強制融合させ、魔霊と完全に分離させるのだ。あの場合、デュエットすることでふたりのオーラはシンクロし、亜梨名のオーラは否応なく令のそれと強制融合させられてしまった。亜梨名のオーラの支えを失った魔霊は黄金色のオーラの前に為すすべもなく散華した──。
 でもな、なんだか夢の中で歌ってたみたいな感じでホントによく覚えてないんだよな……。
「ちょこっとォ? おめぇな、あんなに目立ちゃ誰だって覚えちまうよ! 今ごろ、亜梨名の事務所はおめぇのせいで大騒ぎだぜ。昨日おめぇと一緒のところを見られてるオレんとこまで取材の申し込みが来てらァな」
「へっ? なんで?」
 令にとって、あれは魔霊を散華させた──本当にただそれだけだった。

 午後になってしばらくすると、各局は少しずつ時間をずらしてワイドショータイムになる。
 青野に促されて令はテレビの前に座っていた。夕べ、自分がなんだかとんでもないことをしでかしたらしいことを青野から滔々と説明されたのだが一向にぴんと来ない。
 ……そりゃ、亜梨名ちゃんには申し訳ないことをしたとは思うけど、あのままだったらもっと大変なことになってたはずじゃないか。亜梨名ちゃんが、もし、あの時の〈赤〉の一族のようになってしまったら──。
 と、突然、番組のタイトルバックに亜梨名の顔が映し出された。昨夜のコンサートのワンシーンらしい。そのステージに金髪の令がふわりと現れた。
 うっわーっ……。
 ふだんの姿に戻っていた令が真っ赤になって思わず俯いたところで、画面 がスタジオに切り替わった。
「夕べ行われた美木亜梨名さんのコンサートで、突然金髪の少年がステージにあがり亜梨名さんとデュエットしてしまうというハプニングが起きました。彼はいったい何者だったのでしょうか? このコンサートの模様は夕べご覧のチャンネルでお送りしていたのですが、番組終了後、局の電話はこの少年に関する問い合わせでパンクしてしまったのです。というわけで、今日は予定を変更してこの謎の少年についての緊急大特集をお送りいたします。後ほど亜梨名さんの記者会見も生中継で入る予定ですのでお楽しみに!」
 へ……っ? 記者会見ーッ?
 令が呆然とCMを見送った後、再び夕べの亜梨名が大映しになる。そこへ金髪の少年が舞い上がるように現れた。カメラはしばらくとまどったようにふたりのツーショットをロングで映していた。やがて、画面 は切り替わり令の顔が画面いっぱいに映し出される。次に亜梨名。交互に画面 が切り替わる。
 このカメラワーク、これじゃまるで令がゲストの扱いだ。こいつ、カメラマンに気に入られたな。青野がちらりと目をやると令はじっと画面 を食い入るように見つめている。ったく、ナルシストめ。
「信じられないくらい綺麗なんですよね、彼。同性のわたしでさえ、ドキドキしてしまいました」
 メインキャスターの桂木の言葉に、コメンテイターの太った女優が口をはさむ。
「亜梨名ちゃんのプロダクションの新人なんじゃないの」
 そう言って、フンっとすわった鼻を鳴らす。
「だって素人じゃないでしょ、このコ」
「ところが、亜梨名さんのプロダクションでは否定しているんですよ」
 桂木が応えた。
「桂木さーんッ」
「あっ、会場の遠藤さん」
 画面が切り替わって、ざわざわ動く人々の前でマイクを手にして立つ女性レポーターの姿が映った。
「今、亜梨名さんが席に着くところです」
「みなさん、お待たせしました。亜梨名さんの記者会見がはじまる模様です。では、会場の遠藤さん、そのまま伝えてください」
「たった今、亜梨名さんが席に着いたところです」
 ふわりとした素材を重ねた流行の白いワンピース姿の亜梨名が映し出され、パシャパシャと一斉にフラッシュがたかれる。
「亜梨名さん、あの少年は何者なんです?」
 いきなり核心を突いた質問が飛ぶ。さすが、テレビの生中継に合わせた会見だ。
「知りません。あれはハプニングですから」
 亜梨名が笑って言った。
「それにしてはデュエットの息がぴったり合いすぎてやしませんか?」
「プロですから、あれくらいは合わせられます」
 亜梨名はいつもの少しだけハスキーな声で淡々と言葉をつづる。
「亜梨名さんとこのプロダクション、イグドラシルさんの新人売り出し戦術なんじゃないですか?」
 今朝、青野のところへ現れた栗山が叫んだ。
「違います」
 亜梨名が栗山に向かって笑った。だが目は笑っていない。
「でも、彼は素人じゃないでしょう」
 栗山はなおも亜梨名を追いつめようとする。
「知りません。先程も申し上げたようにあれはハプニングだったんです。彼が姿を消したのはみなさんもご覧になったでしょう」
「でもねぇ、あんなにドンピシャのタイミングで照明が消えてあの少年も消えるなんてことあり得ないでしよう。亜梨名さんサイドの応援なしにあんなことが出来るわけがないんじゃないですか?」
 栗山の言葉に亜梨名はぐっと唇を噛みしめた。

「……赤いオーラが……」
 それまで画面を食い入るように見つめていた令がぽつりと呟いて立ち上がる気配がした。
「令?」
 青野が横を向いた時、横に立っていたのは黄金色の髪の少年だった。その姿が突然視界から消える。
「……おっ、おい! 令ッ?」
 青野は一瞬呆然とした。
「……あのバカ、まさか……」
 そして、ゲラゲラ笑い出した。
「ったく、あのノーテンキが。もうどんな騒ぎになってもオレは知らねぇからな!」

 栗山がなおも亜梨名に質問を浴びせかけようとしたその時、だった。
「美木さんはなにも知りません」
 凛とした声が場内に響き渡った。不思議な、頭の裡に直接語りかけられたような声、だった。その声がどこから聞こえたかわからないにもかかわらず、会場にいた誰もがなぜか一斉にいくつかある入り口のひとつに目を向けた。そこに──彼がいた。
「すみませんが、道をあけていただけませんか?」
 そう言って、美貌の金髪は夢のように微笑んだ。

 亜梨名の隣に急遽席が設けられ令が腰をかける。ちらりと亜梨名に目をやったが、彼女は一度も令のほうを見ようとしない。
「君はいったい何者なんです?」
 栗山が訊いた。
「ぼくは亜梨名さんのファンです」
 令がよく通る声でぽつぽつ言う。
「……そのファンの君がどうしてあんな大それたことをしたんです?」
 令は一瞬困ったような表情をして栗山を見た。
 ひゃーっ、なんつー表情をするんだ、このコは。可愛いというのか、なんというか。こりゃマジで『大当たり』かもな──栗山は心の中でひとりごちた。
「ぼくは歌が好きです。ずっとステージで歌うのを夢見ていました」
 令は言葉を切って下を向いた。
「昨日のことは実を言うとあんまり覚えてないんです。……本当に申し訳ありませんでした」
 ぺこっと頭を下げる。
「好きって言ってもね、ただそれだけでステージにあがられた亜梨名さんの迷惑とか考えなかったんですか?」
「……はい。本当に夢中でよく覚えてないんです。ごめんなさい」
「君、歌手の卵なんでしょう? プロダクションはどこです?」
「だったらいいんですけど」
 令ははにかむように笑った。
「まさか、ずぶの素人だなんて言わないでしょう?」
「ホントにただの、素人です」
 レポーターたちがざわめく。
「君、名前は?」
「かんべんして下さい。まだ未成年ですから。少年Aってことで」
 場内からくすくすと笑い声が起こる。たいしたことを言っているわけでもないのに、なぜか微笑ましくてつい笑ってしまう。そんな雰囲気が今の令にはあった。
 ただの素人のわけがない、栗山は思った。そりゃあ、いまどきのトーシローはこっちが呆れるほどプレッシャーがない。けどね、金髪のお兄さん、トーシローはあんたみたいにプロの声を出せるわけがないんだぜ。
 そう決めつけながらも、栗山にはこの金髪を変に追いつめる気持ちは毛頭なかった。なんだか応援してやりたい、そんな気分だったのである。
「でも、気持ちよかったでしょう?」
 栗山がニヤリと笑う。
「えっ、ええ、とっても。最高でした」
 他の誰かが言ったなら言語道断の言葉だったかも知れない。だが、黄金色の美神はそう言ってはにかむように微笑んだ。その貌は画面 いっぱいに日本中のお茶の間に流された。

 会見が終わっても令はレポーターたちに取り囲まれていた。
「で? 君、ホントはなんて名前なんだい?」
「かんべんしてくださいよ」
「歌手志望なんだろ? いいプロダクション紹介してあげるから、携帯番号教えてよ」
 栗山がそっと耳打ちする。
「やだな、その手には乗りませんよ」
 令はくすくす笑って応える。
「すみません。トイレ行きたいんですが」
「我々をまこうったってそうはいかないよ」
「おしっこくらいさせて下さいよ」
 美貌の天使がにこっと笑う。栗山はコケた。
「……その顔でその台詞はあんまりなんじゃない?」

 控え室に戻った亜梨名は除光液でマニキュアを落としていた。
 今日の記者会見はあの金髪に完全にさらわれた格好だ。おかげで、マスコミの追求はかわせたもののとても成功とは言えない。これでは『美木亜梨名』の影が薄すぎる。きっと、また赤坂の小言を食らうに違いない。……それにしても『彼』は。
 こんこんこん、ドアをノックする音がした。
「赤坂さん?」
 亜梨名がマネージャーの名前を口にした。
「……ぼくです」
 その声を聞いて亜梨名の手が止まる。声だけで誰なのかわかってしまった。
「入って」
 ドアを開けて入って来たのは言うまでもなく、トイレからテレポートでレポーターたちをまいてきた令だ。亜梨名は令のほうをちらとも見ずに再びマニキュアを落としはじめた。冷ややかな沈黙が漂う。
「……なに? なにか用があって来たんでしょう?」
 亜梨名がティッシュで爪を拭きながら口を開いた。
「……ただ、謝りたくて」
 令がぽつりと言う。
「そう。じゃ、もう用はすんだわね」
 突き放すような冷たい物言い。
「……でも、これだけは信じてください。まさか、こんなことになるとは思わなくて……オレ、本当にあなたのファンなんです」
 パシィーッ!
 令の頬に亜梨名の平手が飛んだ。
「冗談はよしてッ! わたしの魔霊を散華させたくせに、ソウルハンター!」
 令は呆然として亜梨名の顔を見つめた。
「……まさか、知ってたのか? 知ってて、アレをコントロールしようとしてたのか?」
「しらじらしい。わたしは〈赤〉の一族よ。〈赤〉がどうして魔霊を支配したがるのかは知ってるでしょう? いいわね、もう二度とわたしの前に現れないで。さあ、出ていって。人を呼ぶわよ」
 亜梨名が叫ぶ。
「ダメだ、アレは。化け物になっちまう」
 令が亜梨名の肩をぐっと掴んだ。
「離しなさい! あなたなんかに……」
「ダメだ……アレは、ダメだよ。……魔霊を支配してどんな力が得られるのか知らないけど、あなたは見たことないんだろう? アレに捕まった人がどうなるか……。ダメだ、絶対ダメだよ……」
 それ以上は言葉にならず、令は亜梨名の瞳を祈るように見つめた。淡い琥珀色の視線に射すくめられて亜梨名は一瞬言葉を失い、目をそらした。
 この人に見つめられただけでドキドキする。
 鮮やかな赤いオーラがゆらめき、束の間、沈黙が流れる。
「……あなた、誰なの?」
「えっ?」
「どうしてあなたがハンターなの、アーティストじゃないの?」
 亜梨名がハスキーヴォイスで囁くように問いかける。
「オレは……」
 令がうつむくと黄金色の一房がするりと肩からすべり落ち、白い肌に影を落とす。
「歌うために生まれてきたような声をしているのに。あなたには、黄金色のライトが似合うわ」
 亜梨名の細い指が令の唇をなぞり、首に浮き出る筋をたどった。びくりとして令が顔を上げる。
「立たなきゃだめよ、自分のステージに。あなたはそういう人よ」
 ふいに、彼女の唇が令のそれに触れた。夢見心地で令がそれに応える。ひんやりとした唇、熱い吐息。亜梨名のしなやかな細い腕が令の背中にまわる。令が亜梨名を抱きしめようとする。その時、ドアをノックする音がした。
 マネージャーの赤坂が入って来た時、そこには頬を心持ち赤らめた亜梨名の姿があるだけだった。

 どうしたらいいんだろう?
 高いビルの屋上で令はちょこんと膝をかかえて黄昏に煙る街を眺めていた。黄金色の長い髪を風がなぶる。「立たなきゃだめよ、自分のステージに」──亜梨名の声が頭に響く。歌いたい、けど、この姿でないとオレは歌えない。……いっそ、ずっとこの姿でいられたら。たぶん、オレはヒトじゃないんだろう。この違いは絶対だ。オーラを伸ばして都会に渦巻く人々の精神エネルギーを感じる。波に乗るように、風に乗るように、令の意識が泳いでゆく。怒っている人、愛し合っている人、泣いている人……。ぐるりと巡って自分の身体に還ってくる。ふうっと小さく溜息を吐いて令は自分の身体を見下ろした。令の透視力は変身した自分の身体の構造そのものがヒトと違っていることにとうに気づいていた。口の中に苦いものがこみあげてくる。……それでも、歌えるんなら別 にかまわない。裸にならなきゃ人間の男性に見えるだろうし、それなら歌を聴く人は気にしないだろう。……だけど、女のコとキスまでしかできないな。さっきのキスを思い出して令は熱くなった。すごいな、オレ、あの美木亜梨名とキスしちゃったんだ。令はくすっと笑った。夕暮れの真っ赤な空が目に入る。ふと、赤里の顔が浮かんだ。そっか、〈赤〉の一族なら気にしないかもな。でも、オレみたいなのはあのコのタイプじゃないんだっけ……。赤いオーラのような空が滲んだ。

「だだいまァ」
 何事もなかったように還ってきた令を迎えたのは赤い絨毯の両側にずらりと並んだ海棠家の使用人たちだった。
「お帰りなさいませ、中央本家さま」
「やっ、やめて下さいよ。オレ、ただの居候なんだから」
 令がわめく。
「ダメだな。おめぇはこういうのに、もっと慣れなきゃいけねぇ」
 令が目を上げると、例の『風とともに去りぬ』ふうの階段の上にいつのまにか青野が現れた。
「ったく。おめぇはこんなんでいちいち慌てンなよ。そーゆータマかよ。……ったくよ」
 言いながら令の目の前にすとんと飛び降りる。
「……おめぇ、オレに言いたいこととかねぇのかよ?」
「へっ?」
「ハッ。透じゃねぇが、そーゆー時のおめぇはマジにイライラすんな。すぐメシだからな」
 そう言って、さっさと階段の上に消えた。後にはきょとんとした令がただ残されるばかりだ。
「ご本家さまをかなりイライラしてお待ちになられていたのです。お許し下さい」
 蝶ネクタイのひとりがそっと耳打ちしてくれた。
 その夜の食事は上海ガニだった。季節外れのはずなのにどうしてこんなに見事なカニが──と不思議になるほど立派なカニが皿の上にてんこ盛にされている。何気なく出されたスープも実は珍味『燕の巣』で、しかもめったにお目にかかれない血の混じった逸品である。
 こんな豪勢な食事にも関わらず、ふたりとも黙ったままひたすらじゅるじゅると甘いカニの汁を吸っている。沈黙のままで食事を摂るなどというのはおよそ青野の性に合わない。
「……おめぇよ、あの後、美木亜梨名に会ったのか?」
 耐えきれず、青野が口を開く。
「うん……会った」
 令がぼそっと応える。青野の言葉を合図にするかのように令は顔を上げ口をもぞもぞと動かす。だが、なかなか言葉にならないらしい。
「なんだ?」
 令の様子に気づいた青野が水を向ける。
「うっ、うん、あの……さ、青野」
「あ……ん?」
「笑わないで聞いてくれよ、な?」
「あンだよ、いってみろよ。ゲラゲラ笑ってやるぜ」
「真面目に聞いてくれよ。こんなの頼めるの、オレ、おまえしかいないんだから」
 令が青野の黒目がちな瞳をじっと見つめた。その様子を察して青野の口元から揶揄するような笑みが消えた。
「いいぜ。言ってみろよ」
「オレが、オレがもし……」
 令は口ごもる。耳たぶがぽうっと赤くなっている。
「……もし?」
「もし、もしもさ、オレが歌手になったら協力してくれないか?」
 令はやっとのことでそれだけ言った。青野は鼻の頭をぼりぼり掻いている。
「ふ……ん、協力って、どんな?」
「オレの素性がバレないようにして欲しいんだ。だって、オレ、あっちの姿じゃないと歌えないだろ? だけど、アレが高見沢令だなんてバレたら、それこそ研究材料になっちゃって歌どころじゃなくなっちまう。なんとか、マスコミを抑えて欲しいんだ。こんなの頼めるの、オレ、青野しかいなくって……」
 鼻の頭を掻いていた青野の手が止まり、眉間にしわを寄せる。
「……わかった。オッケー」
「へっ?」
「協力してやるよ。マスコミを抑える。それだけでいいんだな?」
 青野があまりにあっさり承諾したので令はきょとんとした。
「……ホント?」
「ああ。海棠青野に二言はねぇ」
 令はまだきょとんとしていたが、それからふいに青野に抱きついた。
「ありがとうッ、青野!」
「バッ、バカ! やめろッ、令! 野郎にしがみつかれたって、ちっともうれしかねぇ」
 そう言いつつなぜかドギマギしてしまう。
 まったく、こいつは今まで本気で誰かに頼み事をしたことがなかったんだろうな、青野は思った。それにしても、令としては一世一代の頼み事だったんだろうが、こっちとしちゃ拍子抜けだぜ。こいつの様子からしてもっとたいそうなことだと踏んでたのに。まさかこの海棠青野に頼むのがマスコミを抑えてくれ、だけだとは。不思議な奴……。しかし、こいつはオレにとっちゃ少しヤバイ展開かもしれねぇな。あとで、よーっく考えてみねぇと。
「……それはそうと、おめぇ肝心のデビューは決まってんのか?」
「へっ? まさか。これからオーディション受けまくるんだけど?」
 青野は一瞬ハニワになった。
「おっ、おめぇ、バカじゃねぇの? デビューのデの字も決まってないくせして、なーにが協力なんだかよォ。そんじゃ、オレはいつ協力したらいいんだ?」
 青野はゲラゲラと笑った。
「そっ、そんなに待たせねぇよッ。ンなに笑うことないだろ? おいッ!」
 ったく、大した自信だ。普通はな、海棠のコネでデビューさせてくれって頼むもんなんだぜ。そう口には出さず、青野はまた大笑いした。蒼いオーラで食後のぶたまんがぷかぷか舞い踊るほどに。

 その夜、母親から電話があった。
「え? うん、大丈夫。ちゃんとやってるってば」
「どうして後白河さんのところじゃないの。何か粗相でもして追い出されでもしたの?」
「違うって。青野は綾瀬に紹介してもらったくらいなんだからさ」
「学校は? ちゃんとおまえの頭でついて行けるの」
 ギクッ。そうだ、学校に行ってるはずだったんだ。
「だっ、だっ、大丈夫だよ。綾瀬がよく教えてくれるからさ。それよか、青野ってすっげーイイ奴なんだぜ。いろいろ気遣ってくれるし、オレがもしかして歌手になれ……!」
 ……あちゃーっ。そうだ、言えないんだっけ。
「なに? どうしたの?」
「えっ? いや、そのー、青野ン家ってすっげーんだぜ。風呂にプールにあるみたいな滑り台がついてんの……んでさ」
「……そう。なにか変わったことは?」
 ギックーッ。
「なっ、なにもないよ」
 鏡に自分の姿が映るのが目に入った。ついさきほど、歌った時に変身してそのままだったのだ。母親の知らない黄金色の髪、白い肌。思わず令は鏡から顔を背けた。ごめん、ホントのことは言えない。母さんの産んだのがヒトじゃないなんて。だけど、オレ──。
「あのさ、オレ、今に母さんにでっかい家建ててやるからね」
「……はァ? なに言ってんだか、この子は。まったく」
 母親が溜息を吐いた。
「あーっ。まるっきし信じてないな。マジなんだぜ、オレ。自分が産んだんだろうッ。少しは期待してくれたっていいじゃんかよ」
「はいはい。アテにしないで待ってるわよ」
 電話を切ってからしばらくの間、令は部屋の灯りもつけずにフローリングの床に膝をかかえて座り込んでいた。黄金色の一房を手にとってからすっと視線を窓の外の月にうつす。そして呟くように言った。
「だけど、オレ……それでもあなたの子供だからね……」



 

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