テルミン幻奏 夢想中毒2

志咲摩衣


 

 はじめて天使と会った時、わたしは怪物だった。
 自由に動く手脚もなく、松脂のごとき粘液と乾いた鱗で全身を覆われた怪物だった。わたしは自分が怪物であることさえ知らず、ただひたすらに不機嫌だった。全身の痛みと嘔吐のせいで始終呻き声をあげていたのだ。
 突き刺すような激しい痛みが、内からも外からも、わたしを責め苛んだ。痛みが一時でも緩慢になった折に訪れるのが、苦みを伴った吐き気だった。鱗の隙間からじくじくと染み出す、黒い粘液から漂う厭な臭いが、吐き気をますます酷いものにした。
 躯から滲み出てくる毒の滴り。とろりと粘った醜悪な臭い。
 昏く、陽の射さないじめじめとした森の奥で、全身を蔓のようなものに縛められ、激しい痛みと悪臭による嘔吐のために思考する自由さえ奪われていたのだから、その頃のわたしが怒りと憎しみの怪物であったとしても無理からぬ ことだったろう。
 ──天使の最初の記憶は優しい温もりだった。
 その温もりが触れると痛みが薄れ、なくなってゆくようだった。甘い匂いに包まれて、怪物として生まれて、はじめて安らかに眠った。



 ふと気がつくと、わたしは銀座通りを彷徨っていた。
 なぜ自分がここにいるのか分からない。そもそも、わたしは誰なのか。「どうぞ」と、誰かが差し出したリーフレットを思わず受け取ってしまったものの、ろくに見もせずにコートのポケットにしまいこんだ。
 松屋のショーウィンドウに映った自分の姿は、きちんとした身なりのサラリーマンのように見えた。目立たぬ ダークグレイのスーツの上に同色系の薄手のコート。年齢は三十代半ばといったところか。
 携帯電話はなくしてしまったらしい。空を見上げると、陽は西に傾きはじめていたが、まだ黄昏の色を帯びてはいない。ふつうに考えれば、仕事の途中といった時刻だろう。
 行き過ぎる人々の目を避けるように、わたしは歩道の端に寄る。スーツのポケットをさぐると、黒い皮革のカード入れが見つかった。ビルが落とした薄ら寒い陰の中で、半透明のカードに浮かび上がった名前は──冬木譲。見覚えがあるような気はするが、それが自分の名前だという実感はわかない。
 他にも何かないかとカード入れやポケットを捜したが、見つかったのは、いくらかの現金とさきほど貰ったリーフレットだけだった。そこで、わたしははじめてリーフレットに目を落とした。
 『テルミン演奏』と銀で縁取られた飾り文字が目に入った。その下に時間と料金、そして小さな地図が記されている。すぐ近くの裏通 りのようだ。
 テルミン──その名を見ただけで、不思議にわたしは記憶を失っていた不安さえ忘れて、ふらふらと歩き出した。
 一日中、陽の射すことのない裏通りには湿った水の匂いが漂っていた。つきあたりを右に曲がると、古風な看板が目に入る。そこにはリーフレットと同じ『テルミン演奏』の飾り文字が書かれ、添えられた小さな矢印が地下を指していた。すぐに見つかった幅の狭い下り階段の底に、めざす店の扉があった。
 ほのかに心地よい珈琲の香りの立ちこめた店内は暗く、足下も覚束ない。木製のテーブルに置かれた飾り蝋燭の灯りをたよりに、わたしは空いている椅子のひとつに腰をかけた。目当ての物を捜して店内を見渡すが、あいにくそれは見つからない。わたしのほかには十数人の客がまばらにテーブルについているだけだ。
「いらっしゃいませ」
 痩せすぎた少女が飲み物の注文を取りに来たので、少し驚いた。ウェイトレスなどはもう古典映画の中にしか存在しないものと思っていた。もしくは、わたしにはなかなか縁のない高級店の特別 サーヴィスか。それにしては、注文したマンデリンの値段がそう高価くなかったのがありがたい。にこりともしない少女の後ろ姿をぼんやりと目で追っていると、そのすぐ側が明るく照らし出された。そこに、捜していたものの姿があった。
 それは──不思議なものだった。アンティーク家具のように年古りた木製の筺体から、棒状の金属が二本突き出している。
 テルミン──この楽器を生んだ風変わりな科学者の名を冠した──風変わりな楽器。演奏者は二本のアンテナの間を流れる正弦波に、掌を翳して音楽を奏でるのだという。忘却の川の向こうで、わたしはこの楽器に再び逢いたいと願っていたのを思い出した。
 ふいに、ぱらぱらと拍手が起こり、影の中からほっそりとした女があらわれた。いつのまにかわたしのテーブルには熱いマンデリンが載せられている。女は昏い葡萄酒色に染めた長い髪をゆらゆらと華奢な躰にまといつかせている。裾の長い天鵞絨のドレスは闇に溶けて、小さな白い貌と長い指だけがライトに浮かび上がった。


 ゆぅらゆらん。
 女の指に絡めとられたかのように。
 ゆぅらゆらん。
 それは音楽というより、何かの声。
 ゆぅらゆらん。
 揺らめく声が耳の岸辺で歌っている。
 わたしの裡で何かが揺らめきはじめる。
 ざわめいて、ふるえている。
 揺りうごかされている。
 眩暈がする──。
 ゆぅらゆらん。

 わたしは誰だ──冬木譲というのは誰だ?
 本当にそれがわたしの名前なのか?
 わたしは……誰なんだ…?


 気がつくと演奏は終わっていて、わたしは店の出口に向かっているところだった。わたしの裡でテルミンの音色はまだ揺らめきつづけていたが。
 扉を出たところに、昏い葡萄酒色の髪の女が立っていた。
 つい、さきほどまで演奏者だった女──ああ、そうだ。この女には逢ったことがある。白い華奢な女、優しい顔立ちに不似合いな鋭い視線──女はすうっとわたしに近づいて囁くようにいった。
「あなたは、誰?」
 その言葉が怖ろしくて、わたしは夜の中へ逃げた。




 酷く切ない余韻だけを残して目が覚めた。
 何か大切な記憶を夜の水底に置き忘れてきたような、もどかしさ。夢も自分の記憶だというのに、なぜ、こんなにまで頼りないのだろう──そう考えて、思わず僕は苦笑した。
 記憶ほど頼りないものはないのだ。忘れたくとも忘れられず、永遠に覚えていたくとも忘れてしまう。その繰り返しが人の日常だ。不完全な記憶の不確かな連続―考えてみれば、人はなんて曖昧なものに支配されて生きているのだろう。
 何かの雑誌で読んだのだが、人間の脳それ自体の記憶力は本来とても優秀で、認識した事象を忘れることは絶対ないという。ただ、記憶の読み出しが不安定なのだ。記憶を格納した場所から情報を的確に引き出す能力に欠けているらしい。置き場所を忘れられた書物のように、雑然とした本棚の奥で古びた記憶は眠っている。
 いつものようにぼんやりと思考の海を漂いながら顔を洗っていたら、つい先ほどまでの頼りない気分などきれいに霧散してしまった。
 濃いめの珈琲を飲みながらパソコンを立ち上げる。独特の電子音が耳に心地よい。メールが数通 届いている。さっと目を通して、そのうちの幾つかにレスを返した。
 インターネットニュースのトピックスには見慣れた遠い国でのテロリズムの記事が並ぶ。
 なぜか僕は、少しだけ目覚めた時の気分を思い出して──白っぽい空を眺めた。




 次に目覚めた時、刺すような痛みと厭な臭いは消えていた。しかし、躯からとろりとした黒い粘液を分泌しつづける怪物であることに変わりはなかった。視界はぼんやりと昏く、音は聴こえない、手脚もなく動けない。わたしの躯からは何本もの細い触手が伸びていて、近くの樹から栄養を吸い取っているらしい。じゅるじゅると躯の中に何かが摂りこまれている感覚がある。腹の下をぬ るぬるした感触が蠢いている。
 わたしは哀しくなった。
 天使に似た緑色の小鬼が近づいて来て、わたしの突起に触れた。電流が駆け抜けたように躯がぶるぶると震える。黒い粘液がとろとろと溢れ出す。もう一度触れて欲しかったが小鬼はどこかへ行ってしまったようだ。
 触手の一本を樹から引き抜き、突起に触れてみた。また電流が駆け抜けた。
 わたしは──少しだけ愉しくなった。

Fin

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