悪魔はシャイに I Love You



 悠乃サンが名前をきいてくれても、オレは名乗れもしない。
 "ふーん。名無しの悪魔サンなんだ"
 悠乃サンの言葉を思い出して、オレは果てしなくヘコんだ。
 やっと、神崎先生の代役じゃなくなったのに。
 十把一絡げの"悪魔サン"じゃなくて"オレ"を見てくれたのに。 



Scene 10 ハートブレイクバレンタイン




 最悪な気分で目覚めた朝は、おあつらえ向きにバレンタインデー当日だった。
 七時すぎになって、オレは情けなくもいつものように自分の姿に化けて、階下のリビングに降りる。ああ、コーヒーのいい匂い。
「おはよう、陽一。遅いんじゃない?」
 めずらしいことに、いつもはもうとっくに出掛けている母親がまだリビングにいて、コーヒーを飲んでいた。母は小さな建築事務所のオーナーで、毎日、自宅から車で三十分ほどかけて都内の一等地にある事務所まで通っている。都内の一等地に事務所がある、というだけで母のクライアントである個人の施主からの信頼度はぐんとあがるものなのだそうだ。母の夢は老後になってから自分の好きに設計した家に親父と住むことだという。建築関係の雑誌にも載ったりして意外に人気があるらしいが、仕事が丁寧すぎてあまり儲からないとは本人の弁だ。ちなみに親父は小さな大学の助教授だが、研究バカで政治力がないから、こちらも金には縁がない。でもまあ、オレはふたりともひそかに尊敬している。口には出さないけどな。
 しかし、いつも冷静なこのひとは、オレが毎晩あんなモノになっていると知ったら、どんな貌をするんだろうか。
「陽一、まだ寝ぼけてんの? ボーッとして。ほらっ」
 母親はオレの目のまえで小さな紙バッグをぷらぷらさせた。
「あ……サンキュ」
 オレがぼそっと言うと、母親はニッと笑ってオレの掌のうえにつやつやした紙バッグを載せた。
「ホワイトデーのお返し、楽しみにしてるからね」
「おい、それが可愛い息子に向かって言う台詞か?」
「ダメダメ。陽一もいっぱしの男なら、ちゃーんとお返ししなさい」
 母はオレの頬を軽くぺちっと叩いて笑ってから、あたふたと出ていった。
 紙バッグの中味はもちろんチョコレートだ。毎年、たったひとつだけもらえるのがこれ。母はモテない息子が起きるのを待っていてくれたに違いない。ああ、心遣いに涙が出るよ。

 学校に行きたくない。
 テレビでは、ちょっと悠乃サン似のキレイな気象予報士のお姉さんが、キャスターのおっさんにバレンタインチョコを渡している。おっさん、いい年こいてニヤケてんじゃねぇよ。
「おっはー」
 クラスに入るなり、北条がオレに向かって手を振ってくる。おっはーって、いまどき言うな、ボケ。
 見ると、すでに北条の机のうえには色とりどりにラッピングされたチョコレートが山になっている。もちろん、これのすべてが本命チョコというわけではない。だが、決して義理チョコでもないところが北条のすごいところだ。
「北条くーん、はい、これ」
 ひとりまたひとり、別のクラスの女の子がやってきては、北条にチョコレートの包みを渡してゆく。北条はそれを心底うれしそうににこにこして「サンキュ!」と受け取る。言うなれば、ヤツは身近なアイドル──愛すべき存在なのだ。
「うーむ。北条はヒミツのアイテムをすべて手に入れ連続十時間のプレイの末にラスボスを倒し白々と明ける麗しき朝焼けをのぞむ勇者のごとくハイテンション。対して、山本は装備もろくに整えず無謀にも冒険にくりだしザコキャラにやられる寸前のレベル1の勇者のごとくローテンションだ」
「……三田村。頼むから妙なたとえはやめろ。おまえだって仲間だろうが」
 オレは勇者にやられる寸前の悪魔Aのようなかぼそい声で応えた。ヤバイ……オレとしたことが三田村みたいだ。とはいうものの、今日は三田村という傷をなめあう仲間がいてくれてありがたい。
「ちっちっち。山本くん。今年のオレをユーと一緒にしないでくれたまえ」
「なんだ、その怪しいキャラは」
「フォッフォッフォッ。ついさきほど、コス仲間のミハルちゃんからメールが届いたのだよ」
 だから、三田村。そのアニメの悪役みたいな笑い方はやめろ。朝っぱらから、あのなまずヒゲを思い出しちまうじゃねーか。
「聞いて驚け、山本くん。ミハルちゃんが昨日宅配便でオレにチョコを送ってくれたそうだ!」
 ……う、ウソだろう?

 その日、いつものように、オレにはただのひとつのチョコレートもなかった。義理チョコさえも。
 ヘコんだ……。気持ちがローになっている時にそれを共有できる友がいるのといないのでは、これほどまでにフラストレーションの値に差がうまれるものだとは思いもよらなかった。否、おそらくはここ数日間つづいている悠乃サンと悪魔としてのオレの不本意ながらも不毛な結果に終わっている異種コミュニケーションが、例年よりもいやましてオレの精神状態の悪化に拍車をかけているのだ。
 ……モノローグにまでおかしな症状が出てるぞ、オレ。

 昼休み、オレは悠乃サンの席のすぐそばを通りかかった。
「悠乃はだれかにチョコあげないの?」
 田中さんの声が耳に入る。女子の声は小声のつもりでも案外通るのだ。オレはつい、聞き耳をたてた。
「……今年はつくっちゃった」
 えっ? 悠乃サンが?
「神崎先生?」
「……まあね」
 悠乃サンはクスクスと笑ってから、怪訝そうにオレを見あげた。いかにも、「なんだろ、この人?」という目をしている。オレはあわててそそくさとその場を離れた。
 名無しの悪魔サンと言われて、どうしてあんなに哀しかったのか、今、わかった。悠乃サンにとって名前がないのは悪魔サンじゃなくて──オレだからだ。
 悠乃サンにとって、山本陽一は名前のない、いてもいなくても同じ人間だから。

 放課後、オレは北条のマツケンサンバの夕べ──つまりカラオケなんだが──のお誘いを断った。もちろん、三田村が宅配便を受け取るべく、喜び勇んで帰宅したのは言うまでもない。

「こんばんは、悠乃サン」
 いつものように、オレがベッドのうえにぷかぷかと現れると、悠乃サンは読んでいたノベルズから顔をあげた。そしてオレの顔をちらりと見てから、ふいっと目を逸らす。
「そこじゃ寒いでしょ」
 悠乃サンが目は逸らしたままそう言ったので、オレは「お邪魔します」とつぶやいて、こたつに入った。悠乃サンはなぜかそわそわと落ち着かなげだ。やっぱり、悪魔なんかと期間限定の恋人になったのを後悔しているのかもしれない。こんな時に気の利いた台詞のひとつも思いつかないオレは、「これいい?」などと、みかんを指さして食べ物に逃げた。悪魔の中味がオレじゃなくて北条だったら、悠乃サンも退屈しなかっただろうに。
「あの……これ」
 ふいに、悠乃サンはこたつのうえに小さな包みを置きながら言った。
 オレンジ色のつやつやした紙に包まれた箱に金色のリボンが結んである。
 チョコレートだ──昼休みに言っていた神崎先生への。
 ああ、そっか。それでそわそわしてたのか、悠乃サン。
「……わかった。これ、持っていけばいいんだね?」
 オレは引きつった笑みを浮かべて、オレンジ色の包みを手にした。
 悠乃サンは一瞬ぽかんとした顔になって「持っていく……って?」と本当に小さな声で呟いた。
「神崎先生のところだろ? もう遅いから、急いだほうがいいか。渡しそびれたままバレンタインが終わったら格好つかないもんな」
 よくも思ってもいないことが次から次へと口から出るもんだと半ば自分に呆れながら、オレが立ち上がりかけた時。
「……バカ」
 なるべく、悠乃サンの顔を見ないようにしていたオレは、彼女の声にはっと振り返った。
 悠乃サンが真っ赤な顔してオレを睨んでいる。
「出て行って。もう、来なくていいから」
 オレを睨んだまま、聞いたこともない低い声で悠乃サンが言った。
 わけがわからない。どうしていきなりこうなったのか。
 真っ白になった頭に、悠乃サンの"もう、来なくていいから"という声がこだましていた。
 
 気がつくと、オレは自分の部屋に舞い戻っていた。たぶん、オレはあのまま悠乃サンのまえから姿を消したんだろう。情けないことにまったく記憶がない。
 "もう、来なくていいから"
 理由を訊こうと思ったあの瞬間、なぜか封印でもされたように思考が停止した。どうしてオレはいつもこんなふうなんだろう。
 ふと、手の中にあるオレンジ色の包みが目に入った。
 悠乃サンの、チョコレート。
 どうしよう、やっぱり届けておくか。他人あてのものをオレが持っていてもしょうがない。
 そこから、ひらりと何かが落ちる。金色のリボンにはさみこまれていたらしい、小さなカードだった。
 そこに書かれていた文字が目に入って、一瞬、時が凍りついたような気がした。
 カードにはキレイな文字で"悪魔サンへ"と書かれていた。 

つづく
2005.4.16



Copyright(C) Mai. SHIZAKA. All rights reserved.


Background & other arts by Little Eden / Table arts by White Board