悪魔はシャイに I Love You



 「オレじゃ、ダメか?」
 耳元で囁かれて、心臓がはねあがった。
 そうっと彼の胸から離れて、顔を見上げる。すぐ間近に、凛として涼しげな、信じられないくらい整った顔があった。そのひとの淡く透き通ったブラウンの瞳がわたしを見おろしている。彼のやわらかな褐色の髪は肩より短くなっていて、今は角も翼もない。まるで人間の男のひとのよう。でも、こんなに綺麗なひとはいままで見たことがない──きっと、これは、人外の美しさ。このひとは、悪魔なんだ。どんなに優しくても。
 でも、今わたしを見つめている瞳は切なげに潤んでいて、すこしだけ信じたくなる。もしかしたら、このひとは本気で言ってくれてるのかもしれない。だから、おそるおそる訊いた。
「わたしが……悪魔サンとつきあうの?」


Scene 9 偽りの恋人のための義理チョコ



 彼は一瞬驚いたように目を瞠ってから、長いまつげを伏せて眉根をよせた。
「悠乃サンにちゃんとした人間のカレシができるまで、ね」
 ふたたび目をあけた彼は優しく笑ってそう言った。天使のような微笑み。
 火照っていた身体がすうっと冷える。
 ……そうだよね。わたしとつきあうのは、このひとの"お仕事"。彼は天使の代理でやってきた、なぜか正義感が強くて、天使みたいに優しいヘンな悪魔だから。
 悪魔相手にドキドキしちゃって、バカみたい。
「つまり、期間限定の恋人ってこと?」
「そうそう、期間限定の恋人」
「デートの時は今みたいに人間に化けて?」
「そ、そうだな、人間に、化けて」
 彼は悪戯っぽく笑った。胸がキュッとなる。
 ……いつまでも、"お仕事"が終わらなかったら、このひとはどうするんだろう?

 次の日は日曜日。
 夜まで悪魔サンはやって来ない。
 神崎先生にあげようかなと思って、材料は用意してあったけど、今年もやっぱり作らないつもりだった──バレンタインチョコレート。バレンタインデーは明日だからギリギリ間に合う。昼間のうちに彼にナイショでこっそり作っちゃおう。これは、わたしを慰めてくれたお礼の、そう、義理チョコ。
 見た目を思いきり裏切る純情な悪魔サンが、これを受け取る時、どんな貌をするんだろう。ちょっと楽しみ。
 本を見ながら、板チョコを砕いて湯煎にかける。キッチンに甘い匂いがひろがって。
「誰にあげるのかなァ?」なんて、お母さんが声をかけてきた。
「ヒミツ」
 まさか悪魔サンにあげるなんて言えない。
「昨日、うちのまえまで送ってきてくれた、ものすごく格好いいカレ?」
「え、えっ? み、見てたの、お母さん!」
「今度はお茶くらい誘いなさいね。あんな美形な男の子、もっと近くで見てみたいわ」
 隣の部屋でお父さんが咳払いするのが聞こえた。
 お父さん、お母さん、ごめんなさい。親不孝な娘をお許し下さい。ほぼ毎日、彼がわたしの部屋に来ているなんてとても言えません。
 でも、彼なら安心です、ご両親さま。あのひとは悪魔のくせにとっても紳士です。……ホントの恋人じゃないから、わたしに興味もありません。哀しいほど、安全なんです。
 だから……このチョコだって、実は義理チョコなんです。

 その夜、いつものようにやって来た悪魔サンは、いつものようにおこたに入っても、なんだか悩ましげにみかんのスジをとっている。男のひとらしい少し骨張ったキレイな長い指が、もくもくとみかんを口に運ぶ。心ここにあらずといった風情。気がつくとわたしはそんな彼をじっと見つめていて。
 ああ、やっぱりこのひとは、わたしのことなんかなんとも思っていない。
「悪魔サン?」
 少しはこっちを見なさいよ。
「え? あ、ごめん。ボーッとしてた」
 甘く響く低音には似合わない、このひとらしいぼそっとした口調。でも、今日はホントにちょっと不機嫌かもしれない。
「つまらない?」
 ……そうだよね、あなたには仕事だもん。
「ちょっとイヤな上司のことを思い出しただけだよ」
 やっぱり仕事なんだ。
「上司って、例の人事部長サン?」
「そうそう。人事部長のナーンっていうなまずヒゲのおっさん」
「ナーン?」
 そういえば、わたし──。
「ナーンってそのひとの名前だよね?」
「ああ。インド料理の主食みたいな名前だよな。あいつは貧乏神みたいで全然うまそうじゃないけど」
 わたしってば、このひとの名前も知らないんだ。ナーンって部長さんに名前があるんだから、この悪魔サンにもちゃんと名前があるはずなのに。きっと、このひとにふさわしいとてもキレイな名前が。
「ね? 悪魔サンの名前ってなに?」
「……えっ?」
「悪魔サン、じゃないでしょ? 一応恋人同士だし、名前で呼んでみたい」
 それくらい、いいよね? ホントの恋人じゃなくても。
「ええっと、オレはや……」
 言いかけて、彼はとても困った貌になった。
「オレは……」
 なぜか逡巡して、銀色の長い髪をかきあげながら、なにかぶつぶつ言っている。それからいったん顔をあげて、わたしと目を合わせてから、またうつむいた。そのまま、彼はいかにも言いにくそうに口をひらいた。
「オレ、まだ悪魔としての正式な名前がない……んだ。修行中だから。だからいままでどおり悪魔サンでいい」
 名前さえ教えてくれないなんて、ショックだった。本名がダメなら呼び名でもいいのに。
「ふーん。名無しの悪魔サンなんだ」
 つい、意地悪く言ってしまう。
 彼はうつむいたまま、呟くように言った。
「そうだな……オレはやっぱり、悪魔だからな」


つづく
2005.4.14



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