蛙の賢者外伝/掌話3



リディアと魔法の鏡



 

「おお、我が女主人リディアさま。今朝の貴女はいつにもまして見目麗しい。長き髪は銅(あかがね)のごとく燃え、透きとおったその瞳は雪解けの清冽な水さながら。我が麗しのご主人さまもあなたのその目もくらむばかりの神々しき美しさにはすっかり惚れ直すにちがいない」
 歌うように高らかに響き渡るその声に、リディアは大げさなため息をついた。

「……アル、どうしてあの鏡は毎朝毎朝こうも僕を不愉快な気分にさせるんです?」
 籠を抱えた青年は、腰に手をあてて憤慨している煉瓦色の髪の娘を見てふわりと微笑んだ。籠のなかの立派な卵は水無村のジャルダンさんから蛙の賢者への差し入れである。
「おやおや、鏡があなたに失礼なことでも言ったの? わが麗しの奥方さま?」
「どこかの誰かさんにそっくりな物言いで、大仰に僕を褒め讃えるんです。あの、お調子者のおべっか鏡!」
 リディアは美貌の青年──にしか見えない三百余歳の賢者──を横目で見ながら、おとなしめな悪態をついた。実をいうと近頃の彼女は、完璧な貴公子である良人(おっと)にふさわしいレディになるのを心秘かにめざしているのである。完璧な貴公子のほうは心秘かにそれをやめさせたいと思っているのだが。
「それはあなたがその言葉にかなうほど気高く聡明な女性だからですよ、リディア」
 麗しのアルフィリオン──この国の歴史書にさえそう記されている王子は大輪の白薔薇がほころぶような笑みを湛え、 冗談めかして本音を返した。 そんな良人にうっかり見蕩れそうになるのをおさえて、リディアは赤い顔で抗議をつづけた。
「だいたい、この家の調度品はいつからこうおしゃべりになったんです? 魔法書ならなんとなくわかりますけど、鏡やペンや燭台まで」
 そう口にしたとたん、すかさずリディアが手にしていたブラシが茶々を入れた。
「楽しいじゃない、リディア。そりゃあもちろん、ふたりの寝台がいきなりしゃべりはじめたら文句のひとつも言いたくなっちゃうだろうけど」
「う、うるさいな、この軽薄ブラシ野郎!」
 言葉の意味に気づいたリディアは真っ赤になって、つい、少年のような悪態をついた。
 そう、リディアが正式にこの家の女主人となってから、蛙の賢者の住まいは実ににぎやかになったのである。調度品たちがなぜか口々にしゃべりはじめたのだ。にぎやかと言えば聞こえがいいが、つまりは──うるさい、やかましい。
「リディアが嫌なら……そうですね、この家の魔法を解きましょう」
 アルフィリオンはうっすらと微笑み、空気に溶けるように蛙の姿になった。ちいさな蛙が透きとおった声で詠唱をはじめると、家の空気が寂しげに震えたような気がした。
「ちょっと待って、アル」
 リディアの声に詠唱が途切れる。
「みんながしゃべるのは、アルの……魔法のせいなの?」
「まあ……そうですね」
 ちいさな蛙がリディアを見あげた。蛙の顔は無表情だったが、リディアには彼の声が哀しそうなのがわかった。にこりと笑って、リディアは自分も若草色のちいさな蛙の姿をとる。ふたりは視線を交わすと、そのままぴょんぴょんと家の外に向かって跳ねた。
「賢者さま、リディアさん、おはようございます」
「おはようございます、トーラスさん」
「おはようございます」
 道すがら、村の人々と朝の挨拶を交わしながら、二匹の蛙は川辺めざして跳ねてゆく。
「本当にあのおふたりは仲がいいねぇ」
 誰かが嬉しそうに笑った。
 すこし大きめの艶やかな緑色の蛙と、ちいさな若草色の蛙は、ゆるやかな流れに乗ってすいすいと気持ちよさそうに泳いだ。

 

「ずっと……話し相手だったんです」
 いつものお気に入りの石のうえで、アルフィリオンは恥ずかしそうな声でぽつりと話しはじめた。
「わたしとだけ話すよう、お客人のまえではしゃべりださないように、家に魔法をかけました」
 リディアは、ちいさな蛙がちょこんと座って、物言う書物や燭台と話すさまを思い浮かべた。鏡やブラシは昔のあの家にはなかったはずだ。
「じゃあ、あの家が……僕をお客じゃないって認めたから話しはじめたの?」
「ええ。あなたはわたしの奥さん、つまりはあの家の女あるじですからね。実は、あなたが一緒に暮らしはじめたころから、みんなあなたに話しかけたくてうずうずしていたんです。物って意外とおしゃべりなので」
「物がおしゃべり?」
「物によりますけどね。燭台はちらちらと揺れる灯りのような気まぐれ屋で、ブラシはウィットの効いた皮肉屋です。ブラシの話は面白いので昔から我が家にあるんです。蛙のわたしには必要なかったんですが」
 蛙の賢者はくすくす笑った。
 ちいさな若草色の蛙は、傍らの綺麗な緑色の蛙に触れるだけのキスをした──。

「おお、麗しのリディア。我が家の賢き女主人よ。貴方の美しさのまえには、太陽も月も星も恥じらい雲間に隠れ──」
「それ以上言ったら、このブラシで壊すぞ!」
 翌朝、リディアはおしゃべり鏡に向かって、ブラシを大きく振りあげていた。
「うわっ、やめってったら、リディア。君のそのすてきなちっちゃい胸より堅そうな、そんなモノを割ったら 、可憐で儚いぼくは木っ端みじんになっちゃうよ。もう、麗しのちび蛙がいないと男の子みたいに乱暴なんだから」
 ブラシがすかさず茶々をいれた。
 
「アル。鏡にあれをやめるよう言ってください。あんな恥ずかしい褒め言葉はあなただけで充分です」
 リディアはブラシの堅い毛をレディにしてはかなり手荒にもてあそびながら、低い声で抗議した。
「嫌だなぁ、わたしも鏡も根っからの正直者なんですよ。それに、こちらの思惑通りにしゃべる相手なんて、つまらないでしょう? かわいい奥さん」
  早速、茶々を入れようとしたブラシに向かって、アルフィリオンは口のまえで人差し指をたてて黙らせた。そして、微笑んでリディアの頬にくちづけ、煉瓦色の髪を指で梳きながら、やさしくくちびるを重ねた。
 くちづけながら、アルフィリオンは細めた瞳に悪戯っぽい色を湛えて、こっそりひとりごちた。
 あの鏡はただ、鏡の性質にふさわしく、見る者の一番ほしい言葉を返しているだけなんですけどね──。

Fin
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2005.5.11
Written by Mai. Shizaka

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