アルフィリオンと
三人の姫君

蛙の賢者 第2話


chapter 1

 
 風薫る庭園の葉隠れで、小さなお姫さまは泣いていました。
 お城にはお父さまもお母さまもいらっしゃらなかったので、小さなお姫さまはとてもさびしかったのです。
「……るの?」
 どこからか透きとおった優しい声が聞こえます。
「どうしたの? どうして泣いているの?」
  小さなお姫さまはうつむいていた顔をあげて、あたりを見まわしましたが誰もいません。
「わたしはここです、お姫さま」
 小さなお姫さまの目の前に、なにか小さなものがぴょこんと跳ねてあらわれました。それは、つやつやした緑色の蛙でした。一匹の雨蛙が大きなまるい目で小さなお姫さまを見あげているのです。
「あなたはお話ができる蛙さんなの?」
「はい。お姫さまになにか楽しいお話をしてさしあげましょうか?」
 そう言って、不思議な蛙は小さなお姫さまがさしだした掌のうえに軽やかに跳ねあがり、綺麗な声で物語をはじめました。

 物語が終わると、小さなお姫さまはにっこり微笑って、蛙にお礼のキスをしました。驚いた蛙は庭園の奥へと逃げこんでしまいました。
 それからというもの、小さなお姫さまは同じ場所に通って蛙を待ちつづけましたが、物言う不思議な蛙があらわれることは二度となかったそうです。
 


  迂闊だった──蛙の賢者フロッグ・クェック・ゲーロックの名で知られるアルフィリオン・ディアン・ブリューエルは反省した。
 それは、いつものように優しい雨の中、リディアと一緒に蛙の姿で唄っていたときのことだ。ひとしきり唄い終えて、いつものように触れるだけのキスを交わしたあと、小さな可愛い若草色の蛙はこう言ったのだ。
「ねぇ、アル? 僕、結婚式をあげたいんです」

 少々風変わりとはいえ、リディアは年頃の十七歳の娘だ。人々に祝福され、華やかな婚礼衣装をまとって、結婚式をあげたいと思うのはあたりまえのことだろう──たとえ花婿が三百歳も年上のまぬけな蛙男でも。
 アルフィリオンは夕餉の支度をしてくれている綺麗な煉瓦色の髪の娘のうしろ姿をながめた。よい香りが鼻孔をくすぐる。仔牛と香草の煮込み料理は、アルフィリオンが人の姿に戻ってからはじめてリディアがつくってくれた料理で、今では彼の一番の好物になっている。
 三百年の時を経て人の姿に戻り、リディアと暮らすにつれて、蛙の賢者の住まいもようすを変えた。土間一室であった部屋は、色のちがう樫の木をモザイク模様に敷き詰めた四つの部屋と、厨房と風呂とが魔法によって増築改修され、 殺風景な室内にもリディアが編んだレースをかけ た食卓と椅子、窓には若草色のカーテンといった、人間の生活の匂いが漂うものになっている。
 ちかごろ蛙の賢者を訪ねて客間に通された者は、まず若い娘のリディアがそこに住んでいるのを見て驚き、改修された家を見てもう一度驚くのが常である。なぜなら、アルフィリオンは蛙の呪いが解けて人の姿に戻ってからひと月が過ぎたいまでも公的には蛙のままで 、リディア以外の誰にもまだ人としての姿を見せていないのだ。だが、今の家は蛙の住まいとしては明らかにおかしいし、その上、リディアは自らすすんで『賢者の婚約者』を名乗っている。
 蛙の婚約者──あまりに不憫だ。アルフィリオンは悩ましげな吐息をついた。このままではリディアは必然的に『蛙の花嫁』『蛙の奥さん』『蛙の女房』などと呼ばれてしまう。
 アルフィリオンが公的に蛙の姿で通してしまおうかと考えていたのには、れっきとした理由があるのだが──リディアの名誉のためにそろそろ覚悟を決める時機なのだろうか。
 そんなことをつらつら考えながら、かまどの胡桃パンの様子を見る。ふっくらこんがり甘く香ばしい匂いのするパンが焼きあがった。
「うわっ、おいしそう。アルなら魔法でちょちょいと出しちゃうかと思ってたけど、こねたり焼いたりするのも上手いんですね」
 たまねぎをバターであめ色に炒めながら、リディアがうれしそうに言う。
「胡桃が手に入ったので焼いてみたかったんですよ。せっかく、器用な腕を持つ姿に戻れたんですからね」
 アルフィリオンは微笑って、リディアを背中からふわりと抱きしめ頬に軽くキスをした。それにこたえるようにリディアはくるりと振り向き、アルフィリオンの顔を包みこむように引き寄せて唇を重ねる。キスを交わすときに髪をすくように触れるのがアルフィリオンの癖で、その感触にリディアは夢心地になった。
 その時、誰かが賢者の家の扉を叩く音がした。
「賢者様、フロッグ様」
 村長の声だ。ふたりは名残惜しげにのろのろと身体を離した。
 アルフィリオンはすぐさま緑色の雨蛙に姿を変え、賢者の指定席である小さなテーブルのうえにぴょんと跳び乗る。リディアはもの言いたげにしていたが、そのまま賢者の家の扉をあけた。

 扉の中に立っていた煉瓦色の髪の少女を見て、村長はにっこりと笑った。 水無村は夏でもさほど暑くないのだが、急ぎ足でやって来たのか、四十を越えて突き出してきた腹のせいか、赤ら顔にびっしりと汗をかいている。
「ごきげんよう、リディアさん」
「ごきげんよう、村長さん」
 リディアに招き入れられた村長は、「ほぅ、いい匂いですな」と目を細め鼻をくんくんさせてから、蛙の賢者の前に立つと、ゆるみかけた顔をひき締めて深々と一礼した。
「フロッグ様におかれましては、本日もご機嫌うるわしゅうございます」
「村長さんもお元気そうでなによりです」
 小さな蛙と畏まった村長という、今ではすっかり見慣れた光景をながめて、リディアはこっそりため息をついた。
「さて、本日こちらに伺ったのは」
 村長は勿体をつけて咳払いした。
「実はついいましがた、女王陛下のご使者がおみえになり、書状をお預かりもうしあげたのです」
 女王と聞いて、蛙の賢者は大きなまるい瞳をしばたたかせた。
「それは……わたしあての書状ですか?」
「いえ、お使いの梟殿がおっしゃるには、『蛙の賢者様のお住まいにご逗留なされているアルフィリオン・ディアン・ブリューエル様』あての書状というお話で」
 思わず蛙の賢者とリディアは顔を見合わせた。
「こちらにその、アルフィリオン様はいらっしゃるのでしょうか?」
 蛙の賢者は大きなまるい目をぐるりと回転させてゲロッと鳴き、ちらりとリディアに視線をうつしてから、おもむろに口をひらいた。
「たしかに彼ならこちらにいます。……そうですね、わたしが呼んできましょう」
 蛙の賢者はぴょんと跳ねあがり、そのままするりと宙に消えた。残された村長はしばらくのあいだ、賢者が消えた宙をながめてから、はっと気づいたようにリディアを振り返った。
「……なるほど。そういうわけですか、なるほど」
 村長は食卓にきちんと並べられたふたり分のナイフやフォークをながめ、綺麗なモザイク模様の床をながめてから、最後にリディアの顔を見て、ぐふっと喉を鳴らした。その意味に気づいたリディアが顔を真っ赤にした時、奥の間に通 じる扉があいた。
「はじめまして、村長殿。アルフィリオン・ディアン・ブリューエルともうします」
 綺麗な声が響いて、扉の向こうに金色の髪と空色の瞳をもった美しい青年の姿があった。
「おお、これは、これは」
 村長は人の姿のアルフィリオンを見て意味不明の感嘆の声をあげ、リディアを見て何度もにこにことうなずいた。

「いやはや、さきほどは驚きましたな。いきなり、女王陛下のお使いとおっしゃる金ぴかの梟殿があらわれただけでびっくりですのに、まさかこちらに、陛下から書状が届くような立派な若君がご逗留なされているとは。……うむ、これは美味いですな」
 アルフィリオンに招かれて、村長は夕食をともにしていた。
「村長殿にご挨拶にも伺わず申し訳ありません。その、今回の逗留は──」
  アルフィリオンは声をひそめた。
「お忍び、というわけですな。承知しました」
 村長はぐふぐふと笑って、アルフィリオンとリディアの顔を交互に見やる。芝居のような一幕に呆れながら、リディアは意味ありげな視線を送ってくる村長を上目遣いに睨みつけた。それに向かってにこにことうなずきながら、村長がつづけて口をひらく。
「青き血の貴きブリューエルの若君がご逗留なされるというだけで、村にとっては恐悦至極なことにございますよ」
「ゲロッ!」
 ……しまった。
「おや? 賢者様がお戻りあそばしましたか?」
 村長はスプーンを持ったまま、きょろきょろとあたりを見まわした。
 ──よかった、気づいていない。アルフィリオンはほっと胸をなでおろした。
 ブリューエルの名は王族の証なので、できれば名乗りたくなかったのだが。その意味するところをいきなり持ちだされて、つい鳴いてしまうとは、わたしは相変わらずの小心者だ。
「……いえ、ブリューエルともうしましても、いまでは陛下の御前にお目見えすることもなき流浪の身にございますれば、お気遣いなきよう」
 そう、できることなら、女王に会いたくない。わたしを憎んでいるであろう、あの娘に。

 村長がデザートの林檎と葡萄のソースがけプディングを食べ終えて、大きな腹をさすりながら鼻歌まじりに家路をたどるころ、アルフィリオンは女王アルラウネからの書状に目を走らせ、うっすらと目を細めた。
「あとはわたしがやりますから、あなたは休んでいていいですよ。煉瓦色の髪のお嬢さん」
 厨房で後かたづけをしていたリディアにアルフィリオンが声をかける。振り向いたリディアは透きとおった灰色の瞳で恋人を見つめた。
「アルラウネ様はなんと?」
 アルフィリオンは肩をすくめて、ふわりと微笑む。
「一度、登城するようにとのおおせですよ」
「僕のことは書いてありました?」
 リディアの声はいつになく硬い。
「いいえ。あなたのことはなにも」
「やっぱり……アルは嘘吐きですね」
 そう言って、リディアはアルフィリオンの首に腕を絡ませてから、きつく抱きしめ胸元で小さく囁いた。
「ふたりで一緒に登城するよう書かれてあったのでしょう?」
「嫌だな、本当に書いてありませんよ」
 アルフィリオンはくすくす笑って、いつものように煉瓦色の髪をすくように撫でる。リディアはそれを優しく振り払うように顔をあげてきっぱりと告げた。
「わかりました。書かれていなかったことにしてさしあげます、アルフィリオン殿下。あなたの名誉のために」
 ふいに、アルフィリオンは嫌な予感がした。
「リディア……その先は言わないでいいです。あ……いえ、お願いですから、言わないで、ね?」
「女王様の仰せがなくても、あなたと一緒にお城にまいります。僕はあなたの婚約者ですから、義理の娘となるあのかたにご挨拶もうしあげねばならないでしょう」
 はじめから、リディアを言いくるめることなど自分には無理だったのだ──アルフィリオンは哀しく思った。

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