chapter 7
熱夢の夜──甘い吐息とくちづけが娘の肌に降り注ぎます。ただひと夜だけ、黒髪の娘は麗しの王子に抱(いだ)かれたのでした。
「わたしに媚薬を盛りましたね?」
明くる朝、媚薬のもたらす熱から醒めた王子は、荒野を吹き抜ける風のごとく寒々しい声で訊ねました。凍てつく淡い瞳に滲むのは侮蔑の色。
「これで、満足でしょう?」
造りものめいた美しい貌が笑みを浮かべ、熱のない声が歌うように告げました。
「わたしはあなたを忘れよう。だから、あなたもわたしを忘れるがいい」
王子は粗末な寝台に伏した娘を一瞥することなく、静かに仮の庵を出てゆきました。
いっそ、忘れられるものなら。
黒髪の娘が選んだのは、ひと月のなかで己がもっとも子を宿しやすい夜でした。娘は王子の子を授かることを北の森の精霊たちに願いました。
子をなせば、あのひとはわたしを忘れられない。蝦蟇を喰らう魔女のわたしが、あの気高いひとの子を産むのだ。あのひとの意にそまぬ子を。闇の中でひとり、娘は悲鳴にも似た甲高い嗤い声をあげました。
ああ、忘れられるものなら。
ふた月後、黒髪の娘は子を宿したことを知りました。
娘は、熱夢の夜以来ずっと蝦蟇を喰らうことをやめていました。魔力はすっかり衰えて、ふつうの娘のように野菜を育て、鶏を飼って暮らしました。
その秋の夕暮れ、流れの狩人が娘の庵にやってきて、本能の赴くままに娘を辱めました。娘を護るものは魔力しかなかったので、どうしようもなかったのです。猛々しい男に組み敷かれても、虚ろな瞳で嵐が去るのを待つだけでした。ただ、子が流れてしまうことだけが、娘の気がかりでした。
子は流れることなく、娘の裡で育ちました。十月十日が過ぎた日の朝まだき、娘はたったひとりで子を産みました。淡い金色の髪と空色の瞳を持つ、王子に瓜二つの愛らしい女の子でした。
あのひとはもう、わたしを忘れることはできない。わたしは、あのひとの娘の母なのだ。それでも、わたしを忘れるというのなら──。
黒髪の娘は悲鳴にも似た甲高い嗤い声をあげながら、蝦蟇を口に放り込んだのです。
7
この三百年あまり──蛙の賢者フロッグ・クェック・ゲーロックの名で知られるアルフィリオン・ディアン・ブリューエルは、吟遊詩人に謳われる狡猾で邪悪な蛙であり、悪名高い漁色家だった。
「リディがあらわれるまでの三百年、あなたにキスしてくれる女性はいなかったんですか?」
口元に皮肉っぽい笑みを浮かべて、侍従の青年が訊いてくる。青年──ジェイル・ラグレインは、あれ以降、たびたび治療や食事の差し入れにあらわれた。意外なことに、彼は話好きな若者だった。
「蛙にキスをしたがる十二人の美人刺客ならいたな」
固いパンを香草──鎮静の効能がある竜弦草──の効いた紫瓜のスープに浸しながら、わたしは応えた。
「ふうん。本当に? 他には誰も?」
見目よい青年が意地悪く笑う。
まっすぐな濃い金色の髪に、真夏の海を想わせる青い瞳、すらりと均整のとれた体躯。ラグレイン侯爵家はブリューエル王家と縁戚関係にあり、跡取り息子のジェイルはリディアの婿として申し分のない相手だ。皮肉屋だが、頭の回転はよく、職業柄か高位貴族の子息とは思えないほど気が利く。彼は、質素なものだが寝具や着替え、身体を拭うための濡らした布まで持ち込んでくれた。
「実はひとり、妖精の姫君がキスしてくれたけどね、人間には戻れなかった。呪いが解ける条件は人間の女性とのキスだったから」
「ふうん。三百年でたったひとりですか。百歩あるけば百人の女が忽ち恋に落ちたと吟遊詩人に謳われたあなたがねぇ」
のんびりした調子でしみじみそう言われてしまうと、つい言い訳したくなる。
「女性が苦手なんだ」
そうわたしが口にして、目を逸らしたとたん、ジェイルが噴き出した。堪えるように肩をふるわせていたかと思うと、しまいに腹をかかえて笑いはじめる。
「じょっ、冗談でしょう? 麗しのアルフィリオンといえば女誑しの代名詞ですよ?」
失礼な。これまでに口説いた女性の数など片手にさえ余る──リディアを最後にたった三人だというのに。わたしはジェイルを睨んだ。
「ああ、わかりましたよ。そんな捨てられた蛙のような目で俺を見ないで下さい。女性が苦手なんですね? でも、どうして?」
わたしは再び彼を睨んだ。
「ああもう、わかりましたよ。そんな大人げない拗ねた蛙のような目で見ないで下さい」
本当に失礼な男だ。
「……一度だけ、アルラウネに逢ったことがあるんだよ。まだ、あの娘が幼いころにね。その時、あの娘はわたしにキスしてくれたんだ」
「ふうん。なのに、どうしてずっと蛙のままだったんです?」
「母や娘からのキスは呪いに対して無効なんだ。キスしても蛙のままのわたしを見たアルラウネは泣きそうな顔をしてね。正直かなり落ち込んだ。その足で、ある貴婦人のもとへキスして欲しいと願いに行ったよ。その女性はわたしの婚約者候補でまだ独り身だったし、まあ、断られたら仕方がないとも覚悟していたんだが」
あの時の感触にぞくりとした。
「いきなり膚を剥かれて、目をえぐられたよ。以来、女性が苦手でね。魔法を使えるようになってからは、無理に人間に戻るつもりはなくなった」
ジェイルは小さく舌打ちをして、苛立たしげにこちらを見た。
「なぜ、そのまま引き下がったんです? 女王陛下に言って、その女の生皮を剥いでやればよかったのに」
語気も荒く言い放つのに、わたしは驚いた。
「そんなことを娘に言えるか。あの頃のアルラウネは光の精霊のように無邪気で可愛かったんだぞ」
ジェイルは一瞬、毒気を抜かれたように目をぱちぱちさせて、やがて、くつくつと笑いだした。
「あの魔女を無邪気で可愛いなんて、はじめて聞きましたよ」
「アルラウネを魔女と呼ぶな、ジェイル・ラグレイン」
我知らず返したわたしの低い声に、ジェイルは眉をあげて肩をすくめた。
「御意にございます、殿下」
「きみは……本当に皮肉屋だな」
彼はにやりと人の悪い笑みを浮かべた。
「少々ひねくれて育ったもので」
もしかして。
「あの娘の侍従はつらいのか?」
ジェイルの肩がぴくりと動いた。やはり、そうなのか。
「めっそうもない。あの方は大変可愛らしい女性であらせられますよ。では、そろそろ、麗しの殿下にわが可愛らしい女王陛下からのご命令をお伝え申し上げましょうか」
そして、彼は胸に手をあて大仰に臣下の礼をとった。
「アルフィリオン殿下に剣術大会に出場せよ、との仰せです」
正午を告げる鐘が一斉に鳴り響く。剣術大会の開幕を知らせる花火があがり、ぽんぽんと小気味よい音が競技場の空に木霊した。
王都ファランドールでは武術大会や馬術大会などが盛んで、季節ごとになにかしらの大会が催されている。無料で観覧できるこれらの大会の折には、競技場の周りに多くの屋台も出て、貴族だけではなく一般市民にとっても娯楽のひとつになっていた。「騎士団の中で誰がもっとも強いのか」「一番の軟弱者は誰か」などの話題で人々は盛り上がり、非合法の賭けの対象にもされていたのだ。
だが、このたびの剣術大会は、女王アルラウネの養い娘であるリディア姫の花婿の座をめぐるものだ。それゆえに、観客席は常とは異なる関心と思惑に満ちていた。
まずは、永きにわたって姿を見せていなかったリディア姫その人自身に対する関心。次に、跡継ぎを持たぬ女王の、正式な養女ではない『養い娘』という曖昧な立場にあるリディア姫と婚姻することに、如何ほどの利益があるのかという貴族たちの思惑。そして、その思惑ゆえに、多くの有力貴族が次男三男を出場させている中、王家と縁戚関係にあるラグレイン侯爵の跡取り息子が出場を申請したという噂の真偽。
しかし、競技場に詰めかけた大多数の人々の関心は外にあった。
それは──ここに、あの、『蛙』があらわれるのか、その一つに尽きた。かつて、麗しのアルフィリオンと呼ばれ、魔女の呪いにより狡猾で邪悪な蛙と化した魔法使いが、本当にあらわれるのか。そもそも、『蛙』の魔法使いは実在するのか。ただのお伽噺なのか。
空から降りてきたリディア姫が、肩に載った蛙に話しかけ、くちづけするのを見たという話が噂の発端だった。
ファンファーレが鳴り響き、主賓の来臨を告げる。まず、薔薇色のドレスをまとった煉瓦色の髪の美しい娘、リディア姫があらわれ、観衆に向かって優雅にお辞儀をした。彼女が貴賓席に着くと、真っ白なドレスを翼のようにひるがえし、女王アルラウネがあらわれた。「女王陛下、万歳」の声がどこからともなくあがり、そう広くはない競技場を埋め尽くす。魔女である女王の治世は他国との争いも少なく、国は豊かで、彼女は怖れられてはいたが崇拝されてもいた。
そんなある種の熱夢に浮かれた空気の中、出場者控え室の片隅で憂鬱なため息をもらす男の姿があった。きらびやかな軽鎧姿の貴族の子弟たちの中で、薄汚れたローブのフードを目深にかぶった男はあきらかに遠巻きにされている。
「どうされました、殿下?」
最後に控え室に入ってきた青年が、人々のあいだをするりと抜けて、かれに声をかけた。
「しっ」
ローブの男──アルフィリオンは唇に人差し指をあてた。それを見て、ジェイル・ラグレインは女王の侍従らしい、よそゆきの爽やかな笑顔を浮かべた。ああ、胡散臭い。
「後ほど、あなたのお名前が呼び上げられれば、厭でも正体がわかってしまいますが」
「厄介事はできるだけ先延ばしにする主義なんだ」
わたしの悪い癖だ。
「ふうん。まあ、どのみち、そうなりますよ。あなたの登場は最後という段取りですからね」
ジェイルはいつもの間延びした調子でささやいた。
「どういう意味だ?」
「最後まで勝ち抜いた者と戦わせよ、との仰せです。本日の観客の一番の楽しみは『あなた』ですから」
──アルラウネ。
「つまり、出場者で一番強い者とわたしが戦うのか」
「御意」
もしかしたら、リディアのまえで緒戦くらいは奇跡的に勝てるかも知れないと思っていたのに。
「ここで少々お待ちください。のちほど、試合でお目にかかりましょう……元婚約者殿」
ジェイル・ラグレインが不敵に笑って背を向けるのを、わたしは黙って見送った。
無理だ。
わたしには、剣の才がまったくないのだ。
見かけ倒しのアルフィリオン、衆目の前でそう面罵されたのは、いつのことだったろう。
雲ひとつない晴天の下、立錐の余地もなく客席を埋め尽くした人々の見守る中、おおかたの予想通り試合は進行していた。すなわち、ラグレイン侯爵の跡取りにして、将来、女王の側近となるべく侍従職をつとめるジェイルの力は抜きん出ていた。彼はまったく危なげなく四人の騎士を打ち破り、最後のひとりとなった。
観客たちの誰もが、勝利者ジェイル・ラグレインに賞賛の拍手を贈り、心の隅で『蛙』があらわれなかったことに落胆のため息をこぼした──その時だった。
おもむろに女王が立ち上がるのを見て、人々は侍従に祝福の言葉を贈るのかと歓声をあげるのをやめた。競技場が静寂に包まれる。
「ジェイル・ラグレイン。そなたの見事な剣技に最大の賛辞を贈りましょう」
競技場に朗々と響き渡る女王の声に、拍手がわき起こる。
「ここで、そなたに問う」
「はっ」
女王の眼下に調えられた階(きざはし)の踊り場で、ジェイルは弓手に兜をかかえて膝をつき、主の言葉を待った。
「この場に、リディアの婚約者を名乗る者が参っているのですよ。そなたに、その者の挑戦を受ける意志はありましょうや?」
ざわりと観客席が揺れる。
「恐れながら、陛下。その方の御名をおきかせいただきたく、御願い申し奉ります」
女王の淡い金色の髪がふわりと揺れて。
「その者の名は──」
空色の瞳がうっすらと微笑んだ。
「アルフィリオン・ディアン・ブリューエル」