/ / / / / / / / 9 / 10 / 11



アルフィリオンと三人の姫君



11



 

 長い──本当に長かった一日に、夕暮れが訪れる。
 半月まえの、狂おしいほどの真夏の熱はすっかり形をひそめ、傾いた陽が空を赤く染めあげるころには涼やかな風が王宮の庭園をわたっていた。
「あの子なら、はずれの塔にいるはずよ」
 淡い金色の髪を揺らして、うっすらと微笑ったアルラウネの言に従い、わたしは女王宮の外へ出た。
 記憶のままなら、はずれの塔は戦時に北東の見張りの詰め所として使われる、無人の寂れた塔のはずだ。なぜ、リディアはあんな場所にいるのだろう。
「リディア、少し変わっているけど、いい子でしょう? あなたがあの子を疎まなくてよかった」
 淡い空色の瞳に仄かに滲んだ影。
 きみは、どんな想いでリディアを引き取り、育てたのだろう。
 途中、すれ違う人々から奇異な視線と、居心地の悪い鄭重な礼を受けるのに、軽く礼を返す。赤く染まった花々の咲く庭園を足早に抜けると、視界を大きくさえぎっていた城の東翼も終わりをつげ、疎らに生い茂る樹々のあいだにひっそりと立つ高い塔が見えた。
 蔓草の絡まる塔の重い扉をあける。錆びた蝶番の擦れる耳障りな音とともに、湿った黴の匂いが鼻をついた。蛙の姿で脚力を鍛えたせいか、かつてのように息切れすることもなく窮屈な螺旋階段をのぼりきると、つきあたりに小さな木製の扉が見える。軽くノックをしてみたが、応えはない。
 ──リディア。
 大きく息を吸い込んでから、扉をあけた。
 扉の向こうには、思いのほか広い空間──部屋があった。飾り気のないテーブルや箪笥、寝台などが目に入る。それほど古くはないものの、置かれた家具はほこりをかぶり、天井には蜘蛛が巣をはっていた。その向こうに、長い煉瓦色の髪が見える。
「リディア」
 名前を呼んでみても、窓辺で膝をかかえた彼女がこちらを向く気配はない。
「リディア」
 腕を伸ばせば触れるほどの距離で、ふたたび名前を呼んだ。
「アルは僕のことなんてちっとも好きじゃないんです」
 ぽつりと言葉がこぼれ落ちた。
「リディア、わたしは──」
 わたしの言葉をさえぎるように、彼女は大きく首を振った。
「水無村では、ふたりきりのときはやさしいのに、誰かが来ると蛙の姿になって僕のことを助手みたいに扱うし。王都に来たら、しゃべるのさえ止めてしまって、ただの蛙みたいにふるまうし。剣術大会だって、せっかく僕が勝ったのに逃げ出そうとするし。僕がアルラウネ様のところへ行っても追いかけても来てくれないし。そのあと、いきなりいなくなるし。久しぶりに逢ったら、知らないうちに酷い火傷をしていて、お別れの言葉みたいなことを言うし」
 リディアは一息に言ってうつむいた。沈む陽の赤が、娘の白い肌に照り映える。身の裡が疼いて、あわてて目を逸らした。
「わたしのように年をとりすぎると、行動するより先に、くよくよと考えてしまうんですよ。若く美しい姫君の伴侶は、剣も満足にふるえない三百歳を超えた蛙より、将来を嘱望された若者のほうがいいんじゃないか、とね」
 リディアは小さく身体をまるめた。
「やっぱり、あなたは僕のことをたいして好きじゃないんです」
 開け放たれた窓を過ぎる風が、リディアの髪を揺らす。娘の香りが甘やかに匂いたった。
「好きですよ、リディア。少なくとも、これまで出逢ったどんな女性よりも──いっそ、あのまま魔法を捨ててしまおうかと迷ったほどには」
「アルが、魔法を?」
 驚いたリディアの声が胸元をくすぐる。
「ええ。アルラウネの示してくれた道は、とても魅力的でした」
 魔法を捨てて、絶対的な力を持つ女王の庇護のもと、第一王位継承者としてリディアを妃に迎える。二度と蛙の姿にならなければ、法的に王太子であり、王父であるわたしを蛙と呼ぶ者もいなくなるだろう。
 いいこと尽くめだ──魔法を失うこと以外は。
 我知らず、彼女の頬に指で触れていた。濡れた感触に堪えきれず肩を抱き寄せ、腕の中にきつくとじこめる。どくり、と鼓動が鳴った。
「知っていますか? わたしは蛙の自分が大嫌いなんです。ずっとこうして人の姿のまま、あなたを抱きしめていたい。あなたの瞳に映るわたしは、いつも人の男でありたい。地面を這いつくばって跳ねるしかない醜い蛙が、あなたの婚約者だなんて、惨めで、情けなくて、誰にも名乗れなかった」
 ささやくように言ってから腕をほどくと、リディアはゆるゆると顔をあげて、わたしの左の頬に触れた。
「あの……アル、怒らないできいてください」
 真っ赤に泣きはらした灰色の瞳がこちらを見上げて、ためらいがちに切り出すのに、なんとか微笑んでみせた。
「僕は、あなたが人間じゃなくてもかまいません」
 ……えっ?
「あなたが僕の好きなアルなら、蛙の呪いが解けた人間でも、人間に化けた蛙でもいいんです」
「わたしが、人間に化けた蛙? それは、つまり、もともと蛙でもいいって?」
 思わず漏れ出たわたしの低い声に、リディアがびくりと震えた。
「ご、ごめんなさい、譬え話です。僕が気にしないだけで、アルは人間です。アルラウネ様のお父様で、光の妖精の血をひいた誇り高い王族で、蛙じゃありません。ちゃんと解っています」
 ああ、涙が出そうだ。囚われていたのは──やはり、わたしだけか。
 思わずくちづけた。深く深く、幾度も。リディアの耳朶から首筋が、夕陽に染められたように赤くなる。
「魔法を捨てられなかったわたしは、これから先、ずっと蛙と呼ばれつづけるでしょう」
 紅潮した頬をつつみこむようにして、透きとおった灰色の瞳をじっと見つめる。
「競技場であなたに訊きましたね、リディア。『蛙の妻』と呼ばれてもかまわないかと」
 リディアのやわらかな微笑みが心を満たす。
「ならばもう、あとから泣いて叫んで嫌がっても逃がしません。あなたは、わたしの、生涯ただひとりの伴侶です」
「はい」
 静かなリディアの応えを受けて、わたしは胸の前に手をかざした。胸が鞘であったかのように、金色に輝く抜き身の剣があらわれる。女王宮の天窓を封じていた魔剣は、あれからずっと身の裡に在ったのだ。
「それは……?」
 わたしの胸からすらりとあらわれた輝く剣を、リディアが不思議そうに眺める。
「王家の男子が受け継ぐ魔剣です。ああ、わたしがこれを持っているのは誰にも内緒ですよ」
「魔剣? アル、もしかして剣術大会でそれを使えば……」
 たぶん、勝てただろうと思う。魔法が使えなくとも、魔剣に宿る雷はジェイルの剣を砕いただろう。だが──。
「いやだなあ、これを持っているのが知れたら、アルラウネと王権を争うことになってしまう。争い事は苦手なんです」
 そう言ってわたしが微笑うと、リディアも微笑ってくれた。笑みをおさめて、彼女のまえで膝をつき、剣を掲げる。
「我、アルフィリオン・ディアン・ブリューエル、王家に伝わりし魔剣エルファイラスをもって誓約す。デューカスとアリエルの娘リディアを我が妻となし、この命果つるときまで、永久(とこしえ)に愛を誓わん。君もし、我が心をためさんときは、エルファイラスもて我が胸を貫きたまえ。天に地に、我が心を貫きたまうは、いとしき君ただひとりゆえ」
 ゆっくりと誓句を唱え終えると、頭をさげた。沈黙がおとずれるのに堪えきれず、下を向いたまま言葉を重ねた。
「貫きますか? 以前、言ったとおり、あなたに殺されるなら本望ですよ」
「アルったら……どうして、いつもあなたはそういう台詞をさらりと言うんです?」
 逃げ出したいほど緊張しているからだとは、言いたくない。わたしのほうが三百歳以上、年上なのだ。少しは余裕のある男のふりがしたいじゃないか。
「わたしの胸を貫かないなら、剣にくちづけて、わたしにお返しください。我が姫君」
 リディアが困ったように笑って剣にくちづけると、刀身が虹色に煌めく。
『ブリューエルの花嫁に祝福を贈ろう』
 魔剣の低い声が響くと、リディアのうえに白い花びらが舞い落ちてきた。
「きれい……えっと、エルファイラスさん? ありがとうございます」
『このブリューエルは、婚姻の儀式に花も指輪も持たない甲斐性なしだが、お見捨て下さるな、燃える髪の姫君』
 ああ! 誓いの指輪──思ったとたん、低い声が轟いた。
『だから、そなたは気の利かない蛙なのだ、愚か者!』
 言い訳をする暇さえ与えずに、王家の魔剣は呵々と嗤いながらわたしの胸に吸い込まれていった。
「どうしたの? アル? 魔剣の殿は面白い方ですね」
 くすくすと笑うリディアの煉瓦色の髪に、舞い落ちる真っ白な花々が映える。気の利く王家の魔剣は、ほこりをかぶった部屋を、ひらひらと舞う花と同じ純白に変えていた。今日くらいは、吟遊詩人に謡われた『麗しのアルフィリオン』らしいところを見せたかったけれど、現実のわたしは昔からちっとも成長していない間抜けな男のままらしい。
 それでも、リディア。あなたが笑ってくれるから、わたしは少しだけ、自分のことが嫌いではなくなりそうだ。
「愛しています、リディア。わたしだけの姫君」


 やさしく指を絡め、首筋にくちづけを落として──西の空に星が瞬きはじめたころ、煉瓦色の髪の娘は淡い金色の髪の魔法使いの花嫁となった。


To be continued
2011.01.02
Written by Mai. Shizaka


Copyright(C) Mai. SHIZAKA. All rights reserved.


Background by トリスの市場 Table set by Atelier Black/White