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アルフィリオンと三人の姫君







 

 枯葉舞う窓辺をじっと見つめて、お姫さまは夜が明けるのを待っていました。
 ひと晩だけ過ぎてしまえば、二度とそれがあらわれることはないと知っていたのです。しんしんと夜は更けて、胸のざわめきでお姫さまにはそれがあらわれるのがわかりました。
 ぺたぺたぺた、小さく窓を叩く音がします。
「姫君、わたしです」
 透きとおった綺麗な声が、冷たい夜風に混じって響きました。
「今宵はお願いがあってまいりました。どうか、ここをあけてください」
 絶対に窓をあけてはならないと、お姫さまは家人からきつく言い含められていました。それが、どんなに聴き慣れた優しい声でも、相手はもう美しいあの人ではないのだと。魔女に魅入られた呪われしものなのだと。
「どうか、お願いです、姫君」
 夜闇に消え入りそうなか細い声が、どんなに耳を塞いでも聴こえてきます。眠ろうと夜具にくるまっても、まんじりともできず、心がその声を拾いあつめてしまうのです。
 お姫さまは窓をあけてそれにくちづけすることを夢想しました。そして、そのあとに来るであろう、魔女の呪いを我が身に受けて過ごすつらい日々を想い、窓に背を向けました。
 長い長い夜がしらじらと明けるころ、嗄れ果てて掠れた声がそっと告げました。
「さようなら、姫君」
 それきり、その声の持ち主がお姫さまのまえにあらわれることは二度となかったそうです。

 


2



 

 なんてことだ──蛙の賢者フロッグ・クェック・ゲーロックの名で知られるアルフィリオン・ディアン・ブリューエルは泣きたくなった。
 それは、いつものように、月に一度、蛙の賢者の住まいに子どもたちが集まっていたときのことだ。いつのころからか、この水無村では、新月の夜に子どもたちが物言う蛙の不思議な物語を聞きにくるようになっていた。 もともと話好きなアルフィリオンは、実はこっそりこの日を楽しみにしていて、 自分が見聞きしてきた体験に面白おかしい脚色をつけて毎月披露してきた。この日も、子どもたちは、物言う蛙の妖精の森での暮らしぶりに目をきらきらさせて聞き入るすてきな聴衆だったが、賢者の物語が終わり、子どもたちが家路につく段になって、 それは起こった。
 はしばみ色の瞳をくりくりさせたひとりの少女が、蛙の賢者にこうたずねたのだ。
「賢者様は、おたまじゃくしだったころからお話ができたの?」

 ああ、あの少女にとってわたしは、まぎれもなく見た目どおりの雨蛙なのだ。
 少年時代のわたしが、しっぽの生えたおたまじゃくしの格好で小川を泳いでいたと想像するのは、人々にとってごく自然なことなのだ。とすると、うしろ脚が生えはじめたころのわたしは、それはそれはうれしかったんだろうな──そう想いをめぐらせたところで、アルフィリオンはまた泣きたくなった。
 あの少女の記憶の中で、わたしはおたまじゃくしから脚の生えた蛙のままで終わるのだ、きっと。
「アル? そんなふうに部屋の隅でいじいじ落ち込むくらいなら、子どものころのあなたはまだ人間の姿をしていて、しっぽの生えたまあるい頭のすてきなおたまじゃくしじゃなかったって教えてあげればよかったのに」
「……リディア」
 言っていることにまちがいはない。ないのだが、なんとなく言葉にとげがある。
「まだ怒っています?」
 リディアを見あげてから、わたしは自分がようやく蛙のままで部屋の隅にいたことに気づいて、人の姿に戻った。三百年の習慣とは恐ろしいもので、わたしにとって蛙の姿でいることは哀しいほど自然なのだ。
 やはり、わたしはおたまじゃくしだったのかもしれない──そんな記憶はないけれど。

「あのね、リディア。あなたはわたしの暗殺に失敗したんです。そのうえ、わたしと婚約までしていることがアルラウネに知れたら、どうなることか」
 そう言いながら、わたしはリディアを背中からひき寄せて、煉瓦色のゆたかな波に顔をうずめた。この時間を持てただけでも、人の姿に戻った価値がある。
「アルラウネ様は婚約のことはとうにご存じでしょうし、あなたもわかっていておっしゃってるんでしょう? そんなことより、アル。今あなた、人の姿で僕と過ごせただけで本望だとか、馬鹿なことを考えているでしょう?」
 リディアの透きとおった灰色の瞳がまっすぐに見つめてくる。
「本望ですよ。わたしはね、あなたのその綺麗な灰色の瞳に見つめられるのが大好きなんです」
 そして、リディアの柔らかい身体を抱きしめた。
「だから、あなたの瞳に映るわたしが人の姿でよかったし、あなたをこうして抱きしめる人の腕と身体があってよかった」
「僕は蛙のアルもかわいくて好きですよ」
 リディアが微笑う。ふたりはくちづけを交わし、甘い吐息を求めあった。
「今夜、ここを発ちます」
 長い抱擁のあと、わたしは口をひらいた。
「一緒にきてくださいますか? リディア」

 月のない夜、アルフィリオンは村はずれの川のほとりで蛙の姿になり、恋人の肩にちょこんと載った。河原では蛙たちがせせらぎにのせて唄いあい、蛍たちが淡い光を放ってふわりふわりと舞っている。
 煉瓦色の髪の耳元で、小さな蛙がひときわ響く透きとおった声で詠唱すると、どこからともなく翼の羽ばたきが聞こえてきた。リディアの目の前に舞い降りてきたのは、青銀色の鱗をもった飛竜だった。
(どうした、アルフィリオン。小さな蛙よ)
 飛竜が古い竜族の言葉で話しかけてくるのに、アルフィリオンが応える。
(銀月のディンガルー、わたしとリディアを王城まで連れていってくださいませんか?)
 ディンガルーは、旅装のためズボンをはいて夏向きの短いマントを羽織ったリディアをながめた。
(ふうん。燃える髪の娘か。ちび蛙のくせに生意気だ)
(ちびは余計です。もう、怪我をしても知りませんよ)
 それを聞いたディンガルーがふんっと鼻を鳴らしたので、川の向こうの木々が震えて、蛙たちの唄がやんだ。
(静かにしてくださいよ、鼻息の荒い馬鹿竜が。村の人が驚いて起きてしまうじゃないですか)
 竜の言葉で言ってから、アルフィリオンがケロケロ鳴くと、蛙たちがふたたび唄いはじめた。
「ねぇ、なんの話をしているの?」
 たまらずリディアが口をひらいた。
「そなたのように真っ直ぐな若い娘は、老いぼれじじいのちび蛙にはもったいないと話していたところだ」
 人の言葉を操ったディンガルーはリディアのために屈んで、のぼりやすいよう翼を斜めに差しだした。
「ありがとうございます、竜の殿」
「馬鹿竜があなたを気に入ったようですね」
 アルフィリオンが不満げに呟いた。
 リディアが鱗の段差を足がかりにひょいひょいと翼を駆け上がると、飛竜の広い背の中心に眩い魔法陣が浮かび上がった。
「飛んでいるあいだは、ずっとそこに入って下さい。魔法陣の中ならどんな体勢になっても落ちません。安心して、リディア」
 アルフィリオンの声にうなずいて、リディアが輝く魔法陣の中央に座ると同時に飛竜はふわりと舞い上がった。
 蛙の賢者が住まうようになってから、その名とは裏腹に水の匂うゆたかな土地となった水無村がたちまち小さくなる。アルフィリオンはしばらくのあいだ、黙ってその小さな集落を見つめていた。眼下に村が見えなくなったころ、リディアが小さな蛙に頬を寄せて「かならず帰ってきましょう」と囁いた。


To be continued
2004.12.27
Written by Mai. Shizaka


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