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アルフィリオンと三人の姫君







 

 粉雪の舞う鈍色の空を見あげて、お姫さまはじっと息をひそめていました。
 今宵、お城では舞踏会が催されます。けれど、女王さまの養い娘であるお姫さまは、十五歳になるこの日まで、一度も舞踏会に招かれたことがありませんでした。

 

 六歳のころ、流行り病でふた親を亡くし、お城に引き取られてからしばらくのあいだ、お姫さまは女王宮に住んでいました。魔女である女王さまは咲き誇る真夏の薔薇のように若く美しいかたで、母というより姉のようなそのひとに、幼いお姫さまは憧れ、自分の髪が女王さまの淡く光る金色とは似ても似つかぬ赤茶色なのを、こっそりさびしく思っていました。女王さまは、夜毎枕元で不思議な物語を聞かせてくれましたが、ただひとつ、くりかえし聞かされる物語だけは、どうしても好きになれませんでした。
 狡猾で邪悪な蛙の物語──心のねじれた醜い蛙も好きになれませんでしたが、なによりも物語を聞かせてくれる女王さまの瞳の色が哀しかったのです。
 十歳になったころから、お姫さまを見る女王さまの瞳に、蛙の物語を聞かせてくれるときと同じ色が浮かぶようになりました。哀しげに愛しげに、ときに憎悪の色さえにじませて、お姫さまを見るのです。
 どうしよう。どうしたらいいの?
 大好きな女王さまが泣いている。涙さえこぼさずに泣いている。
 ある雪の夜、大好きな空色の瞳をそらした女王さまに、お姫さまは訊ねました。
「アルラウネさま。わたしにご恩返しはできませんか?」
 赤々と燃える暖炉の炎が、女王さまの瞳に映って揺れていました。凍てつく風が寒々しく窓をたたきます。
「……あの蛙を」
 女王さまの唇から細い声がつむがれます。
「殺してくださらないかしら」
 お姫さまは小さくうなずきました。
 明くる日、お姫さまは華やかな女王宮からお城のはずれの塔に住まいを移されました。剣術の指南役がつき、色あざやかなドレスから灰色の上着とズボンに着替えました。赤茶色の長い髪を短く切ったお姫さまを、女王さまの養い娘の姫君と思う者は誰もいませんでした。

 

 粉雪の舞う鈍色の空を見あげて、少年はじっと息をひそめていました。
 今宵、お城では舞踏会が催されます。けれど、十五歳になった少年が色あざやかなドレスをまとって、長い髪の鬘をつけたとしても、それが似合わないことはわかっていました。
 そっと胸に手をあてても、濃い灰色の上衣の奥には微かなふくらみしかなく、下穿きに丸めて詰めた布のふくらみが少年を男に見せていました。
「男爵さまがおみえになられるよ。早く支度しな」
 塔の番人が少年に声をかけます。
 この春、少年は辺境を治めるクロア男爵のもとへ養子に出されることになっていました。今宵は男爵との顔合わせのため、生まれてはじめて舞踏会に招待されたのです。日頃、あまり見ることのない鏡の前に立ち、切りっぱなしの短いくせ毛をいつもより少しはましに見えるよう撫でつけました。
「フレディ、がんばって男爵さまに気に入られるんだぞ」
「はい」と応えた少年の背を、番人が威勢良く叩きました。

 はずれの塔のフレディ──赤茶色の髪の少年はお城の人々からそう呼ばれていたのです。



 


3



 

 

 その姿を目裏に刻みつけよう──蛙の賢者フロッグ・クェック・ゲーロックの名で知られるアルフィリオン・ディアン・ブリューエルはひそやかに想った。

 

 銀月のディンガルーが王都ファランドールに到着したのは、夜明け前のことだった。
「わあ、きれい」
 小さな蛙の耳元で煉瓦色の髪の娘が感歎の声をあげる。
 紫色から薔薇色へ刻々とその色を変える夜明けの空に向かって、数多の尖塔が高く伸びる。東の地平より昇る陽が光の矢を射かけると、王都を縦横に走る水路が黄金色にきらめいた。
 王都ファランドールは世界屈指の水の都だ。
「燃える髪の娘よ、世界は美しいものだ」
 ディンガルーが人の言葉で朗々と告げた。リディアは一瞬目を見ひらいてから、呟くように応える。
「──そうですね、竜の殿。僕はずっとそれに気づきませんでした」
「ふん。おまえはまだ若い。おまえの肩にのっているじじいのちび蛙なぞは、いい年をしてまだ分っていないようだぞ。さっきからずっと黙りこくっておる」
 青銀の竜は喉をならして、呵々と嗤った。

 ディンガルーの言うとおりだ。
 わたしにはまだ、この世界が美しいとは言えない。それは強者にのみ赦された言葉だ。
 わたしは強くない。王城を眼下にしてなお未練がましく迷っている、わたしは。あの娘に、どちらの姿で対峙するかをまだ迷っている、わたしは。
 王城に出向くと決めたとき、答えは決めたはずなのに。ずっと、見ないふりをして先送りにしてきた、娘との訣別を。
 アルラウネがわたしを赦すことはないだろう──臆病者の蛙にはあの娘に対して涙を流す資格さえないのだ。
「アル?」
 リディアが眉根をひそめてわたしをのぞきこむ。彼女にとっても、アルラウネに会うことは心穏やかでないはずなのに、また心配をかけてしまった。
「……久しぶりの王城ですからね。少しばかり感慨にふけってしまいました」
 わたしは想いを振り払うように小さく息を吐いた。
「さあ、リディア。下へ降りましょう」
「えっ?」
 透きとおった灰色の瞳が大きく見ひらかれるのを眺めながら、短く詠唱すると、リディアの身体がふわりと浮き上がった。
「うっ……おわああっ?」
 年頃の娘にしては少しばかり勇ましい悲鳴をあげて、リディアの身体がゆっくりと眼下の城へ降りてゆく。
(銀月のディンガルー、感謝します。怪我をしたらまた、いつでも看てさしあげますよ)
 盛大に頬を引き攣らせたリディアの肩に載ったまま、わたしは巨大な青銀の竜を見上げて、いにしえの竜族の言葉で伝えた。
(忘れるな、アルフィリオン、小さな蛙よ。おぬしは人でありながら蛙、蛙でありながら、やはり人の子であり人の親だ)
 ふいに贈られたはなむけの言葉にわたしは息を呑んだ。
「また逢おう、燃える髪の娘よ。世界はいつも美しい、それを忘れるな」
 青銀の竜が人の言葉で祝福を贈ると、清冽な朝の大気がぴりりと震える。ディンガルーは涙目でうなずくリディアを眺めて満足げに瞳を細めると、大きく羽ばたき、またたくまに地平線の彼方へと飛び去った。
「アルったらひどい! あんまり怖くて竜の殿にお礼が言えなかったじゃないですか」
 王城の前に降り立つとすぐに、リディアが涙声でうったえてくる。真っ赤になって叫ぶ顔が愛しくて、人の姿であったなら、すべてを忘れて抱きしめているところだ。
「……あいにく、城の近くにはディンガルーが降りられるほど広い場所がないですからね。城内の庭園なら可能かも知れませんが、それでは真面目に仕事をしている庭師が気の毒ですし」
 歓迎されているとは思えませんから──とは口にしなかった。
「さて、リディア。女王陛下からいただいた書状を出してくださいませんか? あそこで衛兵のかたが睨んでいらっしゃいますから」
「あの、アル?」
 旅行用に腰につけた小さな鞄から書状を取り出しながら、煉瓦色の髪の娘は不思議そうに小首をかしげた。
「そのまま、なの?」
 そう言って、ふいにわたしの口にやさしく唇を押しあてた。一瞬、条件反射で人の姿に戻りそうになるのをこらえる。呪いはとっくに解けているが、リディアはしばしば蛙のわたしにこうしてキスをくれる。
 泣きたくなるほどうれしいけれど、人前で蛙にキスするのはやめたほうがいい。ああ、衛兵が目をまんまるに見ひらいている。わたしは愛玩動物じゃないぞ。狡猾で邪悪な魔法使いでもないけれど。
「嫌だな、リディア。わたしは『蛙の賢者』ですよ」
 わたしは声だけで笑ってみせた。
「これがわたしの──公式の姿なんです」
 アルラウネに対する、これがわたしの答えなのだ。

 

「『あれ』が、あの」
「……本当に、『あれ』が」
「狡猾で邪悪な……魔法使い?」
 好奇と嫌悪の入り交じったいささか滑稽なざわめきの中、リディアとその肩にのったわたしは、女王付きの侍従と名乗る青年に謁見の間へと案内されていた。
 王城はわたしが暮らしていたころとなんら変わりなく、無駄に広かった。白を基調とした内装にブリューエル家の紋章である剣と薔薇をモチーフにした金細工が飾られているのも記憶のままだ。回廊と回廊とを複雑に繋げ、部分的に鏡張りを使用した建築様式は、たしかに戦術的に攻められにくく、魔術的にも有効だ。
 有効なのだが。やはり無駄に広すぎると訴えたい。水無村で風変わりな蛙として受け入れられていた身としては、ひさしぶりの好奇の視線が存外に痛かった。情けないことに、リディアと一緒でよかったと思ってしまう。この視線の中で、すらりと見目よい青年のあとをついて、ぴょんぴょんと深紅の絨毯の上を跳ねて歩く自分の姿を想像しただけで、正直泣きたくなった。

「ねぇ、アル。本当にいいんですか?」
 ようやくたどりついた謁見の間につづく控えの間で慣例通り待たされるあいだに、わたしはリディアの身支度をすることにした。
「美しい姫君には美しく装う権利があるんですよ、リディア」
 この謁見は、妙な男装をさせられていた姫君の新たなお披露目になるのだから。
 鼻唄混じりに、リディアの盛装をイメージする。煉瓦色の髪によく似合う淡い薔薇色。花びらのようにふわりと生地をかさねて、繊細なレースと真珠をあしらう。髪と胸元と耳にも真珠。最新の流行はわからないので、かたちはオーソドックスに。化粧は控えめに、あくまでも清楚に。
「綺麗なドレスを着るのはうれしいけど、僕のことじゃないんです。あなたが蛙の賢者なのは解っているけど、だけど、あなたこそ女王様の……」
 リディアが言いかけたそのとき、謁見の間の扉が厳かにひらいた。
「女王陛下のおなりでございます」

 

 美しく盛装した女王の養い娘は、肩に小さな蛙を載せて、女王の来臨を待っていた。
 謁見の間に控える宮仕えの貴族たちのほとんどは、数年前に姿を消した女王アルラウネの養い娘が、女王の実父と噂される悪名高き蛙の魔法使いを伴って現れたことに、どう対処すべきか判断できずにいた。
 そもそも、謁見の間にいる者は誰もまだ、娘の肩にちょこんとのった小さな蛙が蛙らしからぬ行動をとる場面に遭遇していないのだ。遠目に見たそれは、少し大きめだがどこにでもいそうな雨蛙にしか見えなかった。ふつうの国ならば、『邪悪な蛙の魔法使い』などただのお伽噺と一笑に付されたかも知れない。だが、この国は魔女アルラウネが女王として君臨する不思議が不思議でない国だった。
 先触れが重々しく女王の来臨を知らしめる。
 謁見の間の人々はみな押し黙り、深くこうべを垂れて女王を待った。リディアもまた、貴族の女性の礼にならって膝を折りこうべを垂れた。耳鳴りのするような緊張感が広間を包む。ただひとり、アルフィリオンだけがまっすぐに前を見つめていた。
 ふいに、玉座の背後にしつらえられた鏡の面がさざめくと、中からするりと背の高い女の姿があらわれた。
 女王アルラウネはゆたかに波打つ金色の髪を高く結い上げ、白い肩から背にゆらゆらと流していた。瞳は淡い空の色。真っ白なドレスが翼のように、しなやかな身体にそってひるがえっている。もしも微笑んだなら大輪の薔薇が花ひらくようだろうと、人々が夢想する美しさだった。
 アルフィリオンは、ただまっすぐに女王を見つめた。なにひとつ、見逃すことのないように。
「リディア、面(おもて)をあげなさい」
 座した女王の凛とした声が響きわたり、リディアはゆっくりと顔をあげた。空色と灰色の透きとおった二対の視線が交差する。
「すっかり娘らしく美しく成長しましたね。息災にしていましたか? わが養い娘よ」
 返すリディアの声がかすかにふるえた。
「はい……これまで、ご挨拶に参りませんでしたことを深くお詫び申し上げ奉ります」
「他人行儀にならずともよいのですよ。そなたの罪は不問にするゆえ」
 ざわり、と場の空気がゆれた。
「ありがとうございます……陛下」
「ここではそなたも緊張するでしょう。明日の午後、お茶を楽しみながら昔話でもしましょう」
 言いながら、アルラウネは腰をあげた。リディアには一瞬、目のまえの養い親の動きがなにを意味するのか分らなかった。
「あの、アルラウネ様?」
 ふわり、と女王の白いドレスのすそが翼のようにひるがえり、よくとおる美しい声が歌うようにつづけた。
「お茶にいらっしゃるときには、蛙は捨ててきてくださらないかしら? 悪趣味だわ」
「アルラウネ様!」
 女王はアルフィリオンを一度も見ることなく、あらわれた鏡の中に溶けるように消えた。


To be continued
2010.08.05
Written by Mai. Shizaka


Copyright(C) Mai. SHIZAKA. All rights reserved.


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