冬の蛙は、眠い。
森の木々が色づきはじめると、蛙たちはみな、なにかに追い立てられるような落ち着かない気分におそわれる。にわかに、倒れた木の虚(うろ)や大樹の根の隙間が気になってたまらなくなるのだ。ふと気がつくと、やがてくる厳しい季節を越えるために、虚(うろ)の中に落ち葉をあつめて寝床をこしらえている自分がいた。こうして、何度白い冬を越えただろう。落ち葉のふとんにぬくぬくとくるまれて、極上の心地よさのなかで忘却の眠りに落ちるのだ。
冬の蛙は、長い微睡みの中で母と過ごした少年の日を夢見る──。
「あれ? また落ち葉がこんなところに」
部屋のすみにあつめられた湿った落ち葉の塊をみつけて、煉瓦色の髪のリディアは不思議そうに首をかしげた。
「……ごめんなさい。すぐに片づけますね」
香草茶を飲んでいたアルフィリオンがあわてて立ち上がる。
「アルのなの? 魔法に使うんなら、べつにこのままでもいいんですよ?」
リディアが透きとおった灰色の瞳で、アルフィリオンを見あげて微笑んだ。
「いえ、いいんです……ただの、くせなんですよ」
アルフィリオンは苦笑して、小さな落ち葉の塊を庭の菜園で土に還した。
それからふた月後、あたたかな暖炉の前でアルフィリオンは魔法書をひもといていた。
人の姿に戻ってからは、重くて分厚い魔法書の頁を繰るのが楽でありがたい。小さな蛙の水掻きのついた手では上手に頁がめくれず、さりとて口を使えば破ってしまうこともしばしばで、魔法で上手に頁を繰る術を身につけるまでは本一冊読み終えるのにも大変な苦労をしたものだ。
とくにこの魔法書は入手困難なエルシリアの大賢者エドゥの稀覯本で、長い間手に入れるのを楽しみにしていた。この書物のどこかに、ずっと知りたくてたまらなかった魔法による物理的形態変化がもたらす反作用について書かれているはずなのだ。ああ、それなのに──なぜ、わたしは。
ドサッ。
「アル?」
アルフィリオンの向かいで、妖精の物語を読んでいたリディアが物音におどろいて顔をあげた。見ると、彼女にとってどんな妖精よりも美しく思える金色の髪の青年が、椅子に腰かけたままこっくりこっくりと舟をこいでいる。かれの足許に落ちた分厚い魔法書が「ねぼすけ蛙め、痛いじゃないか」と不平を言い立てた。
「アル? 寝ちゃったんですか?」
リディアの声に、青年はうっすらとうるんだ目をあけた。
「ごめんなさい……せっかく人間に戻ったのに、冬はどうしてこんなに眠いんでしょう……」
ぼんやりと、どこか哀しげな声で呟く。
「……ああ、昔はひとりで冬眠してたんですね」
「習性は怖いものです……」
透きとおった声は消え入りそうで、今にも眠ってしまいそうだ。
「あっ、アル! お願いですから少しのあいだだけ蛙になってください」
「は……い……?」
怪訝そうな声音ながらも、すぐに金色の青年の姿はかき消えて、椅子の上には小さな蛙がちょこんとうずくまっていた。
リディアは蛙を大切そうに掌で抱えて、隣の部屋につづく扉をあけると、太陽の匂いのするふわふわにふくらんだ寝台の上にそっとのせた。そして、蛙の頬を優しく撫でて囁いた。
「アル? ねぇ、できれば人間に戻ってくれませんか?」
「は……い……?」
「もしも、このままアルが冬眠してしまったら淋しいんです……でも、もう寝ちゃったかな?」
小さな蛙のまぶたがぴくりと動くと、寝台のうえにおそろしくがに股の裸の青年があらわれた。青年は這いつくばった姿勢のまま、もぞもぞと身体を動かしている。リディアはくすりと笑って、かれの曲がった脚や腕を人間らしい位置に直してやり、ごろりと仰向けにしてからふとんをかけ、その唇に軽くくちづけた。
部屋の後かたづけをして、リディアが寝台にもぐりこんだころには、アルフィリオンは気持ちよさそうに寝息をたてていた。リディアは青年の胸にそろりと頬を寄せ、かれが目を覚ましそうにないのをたしかめるとぴったりと肌をあわせた。
「おやすみなさい……もう、目が覚めてもひとりぼっちじゃないですよ。僕の蛙の王子様」
冬の蛙は、眠い。
けれど、短い微睡みの中で見る夢はあたたかな煉瓦色をしている──。