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LUNATIC GOLD 10
 

 

 


 

 


第一部 月下の一群

 

 


10 芸歴、ありません

 




「ご見学ですか?」
 今期、視聴率ナンバーワンを誇るテレビ局本社ビルの受付嬢はとっておきの営業スマイルを浮かべて、真っ赤になってうつむいた客を迎えた。
「いっ、いえ、ちょっとおうかがいしたいんですが」
 年はだいたい高校生くらいだろう、その客は耳まで真っ赤にしてしどろもどろにそう言った。
「はい? どうぞ?」
「……知り合いがオーディション受けたいらしいんですが……歌手の」
 最後の『歌手の』は消え入りそうに小さな声だった。
 知り合い……ねぇ。いまどき珍しいうぶなコだなァ、そう思って彼女は下を向いたままの客の顔を失礼にならない程度にのぞき見た。
 ……へーっ、すっごい田舎者だと思ったのに、イイ線いってる。かっわいーい。
「大変申し訳ございませんが、ただいま弊社では歌手の一般公募は行っておりません」
 事務的にそう言ってから、かわいそうなくらいがっかりした表情の客に向かって彼女はにこっと笑ってつけ加えた。
「この業界はプロダクションを通したほうがずっと話が早いのよ。そちらをあたってみたら?」
 彼女としては親切のつもりだったのだが、その言葉はますます客をがっくりさせた。

 まさか『オーディションを受ける』のがこんなに大変だとは思わなかった……。
 記者会見の翌日、令は勇んで都内のテレビ局すべてをあたってみたが、そのすべてに一般 公募はないとあっさり断られてしまったのだ。プロダクションに所属していない、これが最大のネックだった。たいていの局が出演交渉はプロダクションを通 してくれと言うのである。
 現在のテレビの番組編成の実状を鑑みればこれは無理のない話である。歌番組は各局とも数えるほどしかない。テレビが新人の登竜門になる機会はめったにないのだ。『お笑い』のほうが、まだチャンスは多いかもしれない。
 すっかり途方に暮れた令が海棠家のアール・ヌーヴォー調の門をくぐった時には、既に陽もとっぷり暮れていた。
「お帰りなさいませ」
 例によって、海棠家の使用人たちがずらりと並んで〈中央本家〉を出迎える。
「ホントにそれ、やめてくださいよ。オレ、そんなんじゃないんですから」
 ホント、テレビ局にもまったく相手にされなかったもんな。
「お疲れのようですね。お風呂になさいますか、お食事になさいますか?」
「ううん。なにも食べたくない。このまま、寝ちゃってもいい?」

「んで? あいつ、そのまま寝たのか」
「はい。大変意気消沈されたご様子で、客間でおやすみになられました」
「テレビ局には、ふだんま格好のままで行ったんだな?」
「はい。おかげで何も手を打たずにすみました」
 青野ははぁーっとため息を吐いた。
 あのバカはいったい何を考えてんだか。金髪で行きゃ、テレビ局の対応もずいぶん違っただろうに。いまどき、テレビ局が企画もなしに素人歌手を募集するかよ。
 それに……。ここで青野はまた盛大なため息を吐いた。そもそもの間違いは行き先だ。歌手の売り込みなら、テレビ局じゃなく、レコード会社をあたるのが普通 だろうが!
 ──まあ、どっちにしろ、正体を知られるわけにいかない令が普通のプロダクションに入れるはずはなし、八方ふさがりで不貞寝してるってわけだ。
「……ったく、世話のかかる奴。ん、わかった。今後も令から目を離すなよ」
「承知いたしました」
 今は蝶ネクタイ姿になっている男が頭を下げた。

 次の朝、令はカレーを食べていた。もともと海棠家には買い置きのあるはずがないレトルトパウチのインスタントカレーだ。令がテレビCMを見て「あ、これ食べてみたいなー」と、ふと漏らしたのを聞いた蝶ネクタイが買っておいてくれたのである。令はなぜかハンバーガーだのカップ麺だの、いわゆるジャンクフードが好きだった。
「おめぇ、オーディションはどうだったんだ?」
 ふいに後ろから声がかかる。声の主、海棠青野はニヤニヤ笑いを浮かべながら、カレーにぱくついている令を見おろした。
「それがさ……どこ行っても一般公募の予定はないってあしらわれちゃうんだよな。ちゃんとプロダクション通 してくれって」
 しょんぼりと令が言う。
「ふーん……テレビ局にはソレで行ったのか?」
「へっ?」
「ド派手な金髪で行かなかったのかって訊いてんだ」
「行くわけないだろーッ? オーディションの案内訊くだけなのに、あんな格好で行ったらまた大事(おおごと)になっちゃうじゃんか」
「あっ、そ」
 ……なんてこった。大事になったほうが売り込みになる、このノーテンキにはそんな簡単な理屈さえわかっていない──マスコミは、あのステージ飛び入り事件も、その後の記者会見に突然現れたのも、こいつの派手な売り込み作戦だと思ってるのに。
「言っとくが、令。オレはそんなに気の長いほうじゃねぇぜ。何年もタラタラ待つなんてのは性に合わねぇ。才能のねぇ奴に手間かけるほど酔狂でもねぇ」
「でっ、でもさ、青野。プロダクションとか入るのって、書類に本名書かなきゃなんないだろ? そんなの、できっこないじゃんか。正直言ってどうしたらいいかわかんなくて……」
「大トロまぐろ……」
 青野はぽそっと呟いた。
「へっ?」
「トロいってんだよ。ったく、そらよっ」
 そう言って青野は封筒を投げてよこした。表書きは海棠青野様になっている。
「おまえ宛てじゃん?」
「いいから見てみ」
 促されて令が中味を取り出すと『愛してるなんて言えないオーディション』の文字が飛び込んできた。
「これって……」
「一緒にこんなメモが入っててな」
 青野がひらひらさせた紙片には『ご友人にお渡し下さい』とワープロ打ちされていた。
「ま、ご友人ってのはおめぇのことだろうな。どうする、令? 胡散臭い気もするが行ってみるか? ここに書かれているのが本当なら、プロデューサー鬼島雄三って言えばあっちの業界じゃ一流だぜ」
「そりゃ、行くよッ」
 令は叫んだ。
「わざわざあっちからオーディションの案内が来るなんてチャンスじゃんか」
 それを聞いて青野がニヤリと笑った。
「ふぅん。じゃあな、そいつに合格しろ」
「へっ?」
「言っただろ? オレは待つのは性に合わねぇんだよ。どうせ受けられるオーディションも見つからねぇんだろ? なら、一発で合格してみせろ」
「じゃ、もしこれが駄目だったら、昨日の約束はおじゃんだってこと?」
 令の声が少し情けなくなる。
「そうだ、おじゃんだ。全部パー。オレは協力なんかしてやらねぇ。勝手に研究材料にされてシャーレに載せられてろ」
 巨大なシャーレにすっぽんぽんで載っている自分の図が浮かんで令はぞっとした。冗談じゃない、令はぶるんぶるん頭を振った。封書に入っていたもう一枚の紙を広げてみると、それはおたまじゃくしの並んだ楽譜だった。
「これ、歌うってことだよな」
「なんだ? 生意気に曲が気に入らねぇってか?」
 見ると令は腕組みをして、うーんと唸ってぶつぶつ言っている。
「えーっと。この五線のいっちゃん下にかかってるのがミだよな。とすると、ドレミファ……これがソか。んで……」
「……令。もしかして、おめぇ、譜が読めないとか……」
「ったりめぇだろ? オレ、ピアノとか習ったことねぇもん」
 青野はコケた。彼にとって黄神の子弟たる者、楽譜くらい読めるのが常識だったのである。事実、音楽のあまり得意ではない自分でさえ楽譜はもちろんのこと、ピアノも多少は弾ける。天才的に歌をうたう令が譜さえ読めないのは異常な感じがした。やっぱり、日本の画一的教育ってのは問題あるぜ……おたまじゃくしを懸命に拾う令を見て青野はひとりごちた。
 その時、令の後ろでくすくす笑う声がした。
「綾瀬ッ?」
 思わずそう言って令は振り返ったが、そこにいたのはイギリス帰りの芥川賞作家ではなかった。
「なんだ、おめぇか」
 青野が不機嫌そうに言う。
 令の後ろに現れた少年はにこにこと人懐こい笑みを浮かべていた。上背は令より頭半分ほど低く、色白のすっきり整った顔に流行の小さなフレームのメガネをかけている。
「あれ? 君、あの時黄神邸にいた……」
 令には大老の召集でこの顔を見かけた記憶があった。
「中央本家に覚えててもらえるなんて感激だな。オレは海棠青時(せいじ)」
  またにっこり笑うが、綾瀬のそれと違ってまったく嫌味がない。笑うと目がただの線になってしまい、それが他人に人懐こい印象を与えている。
「へっ? 海棠?」
 令が青野のほうを見ると、その口が不機嫌この上なくへの字に曲がる。
「弟だ」
 青野がぶっきらぼうに言った。
 兄弟? 令は思わず青野と青時の顔をきょろきょろ見比べてしまった。彫りの深い、きりりとした野性的な容貌の青野と、柔和ですっきりした風貌の青時は、両者とも整った美形ではあるもののちっとも似ていない。
「はっきり言っていいよ。全然似てないだろう?」
 青時があっさり言う。
「う……うん」
「オレも彼も母親似だからね。海棠には異母兄弟が十一人もいるんだ。オレはその二番目」
「へっ?」
 こういったことに疎い令がきょとんとする。
「前に言っただろ? オレは試験管ベビーだって。こいつとオレとは卵子を提供した母親がちゃうんだよ」
 青野が鼻を膨らませながら応える。
「普段は腹違いって言ってるけど、正確に言えば卵(ラン)違いとでも言うのかなァ」
 メガネの青時はごくありふれたことのように言った。そして目をただの線にして笑った。

 むせかえるような気怠く甘い薔薇の香り。花粉を含んでとろりとした濃密な空気。古びた青銅の柵に蔓薔薇が絡みつき天を目指すが届くはずもない。薔薇の園──黒川邸の中庭は黄神の人々にそう呼ばれていた。その色とりどりに咲き誇る薔薇の中、ヴァイオリンの憂いを帯びた調べが流れる。
 いかにもばあやといった風情の老女に案内されて、令はその中庭に足を踏み入れていた。ブ……ンと唸りをあげて数匹の蜜蜂がせっせと脚に花粉の球を作っているのが見える。令は薔薇の間の細い道をヴァイオリンの音をたよりに辿って行った。真夏を思わせる強い陽射しの下、大輪の薔薇の芳香が眩暈を誘う。鈍くなった感覚にヴァイオリンの音色だけが生々しい。輝くような黄色い薔薇の中、いつもながら黒一色の透の姿を見つけても、令はそのまま彼の奏でる調べを聴いていた。曲が終わって、黒川透は顎からヴァイオリンをはずすと、令を振り返り薔薇が揺れるように微笑んだ。

「そろそろ来る頃だろうと思ったよ」
 紅茶を口にしながら透が微笑む。
「へっ? なんで?」
「……まだ直っていないのか、それは」
 透の眉間に皺が寄る。令の「へっ」が依然として気に入らないらしい。
「い、いいじゃんかよ、クセなんだから」
「わたしに頼みがあって来たんだろう? なら、やめなさい。わかったね」
 透の黒目がちな瞳が令をじっと見つめる。
「……そうやってすぐ、人のこと、小さい子相手にするみたいに言うんだもんな。わかったよ、へっはやめるからさ、この曲、弾いてくれよなっ」
 そう言って、ぷーっとふくれた令を見て、透は本当に子供のようだと思った。
「おとといの記者会見でレポーターをかわした君と同一人物とはとても思えないな」
「とっ、透? おまえがあんなの見てたのか」
「テレビ映りは悪くなさそうじゃないか」
 くっくっくっ、真っ赤になって照れる令を見て透は嬉しそうに笑った。
 黒川透のしなやかな長い指が鍵盤の上を踊る。まるで音が生まれるのを見ているようだ。楽譜を見ながら透がひととおり弾いて聴かせると、令はすぐに歌いはじめた。黄金色の髪がするすると伸びてゆく。歌声が黄金と紫のオーラにシンクロする。

 同じ頃、海棠邸は険悪なムードに包まれていた。
「このこと、親父には相談した?」
 そう言いながらメガネ君は、ヨーロッパでは主流のガス入りミネラルウォーターをグラスにあけた。使用人たちは下がらせてある。
「このことって、なんだよ」
 青野は差し向かいに座る異母弟を睨みつけた。
「なにって、〈中央本家〉を勝手に芸能界デビューさせちゃってもいいわけ?」
 青時の目が青野のそれをじっと見上げた。そして、ゆっくりとグラスに口をつける。
「オレの勝手だろう? それにデビューできるかどうかなんざ、それこそわかってねぇんだよ。ったく、ガキの頃から回りくどい野郎だな。なにが言いたいんだよ、おめぇはよ」
「中央本家を芸能界なんかに入れたらマズイんじゃない?」
 そう言って青時は異母兄に向かって口をとがらせて見せた。
「あの業界って〈赤〉の独占市場じゃない。変身能力なんて、ヤバイ仕事か子供を産むか、あとは芸能界くらいでしか役に立たないからしょうがないけどさ。だけど、そんなところに中央本家が入っちゃったら、〈赤〉の奴ら、なにかしら手段を講じて恩を売ろうとするよ。それってさ、我々の錦の御旗をみすみす〈赤〉にもらって下さいって言ってるようなもんなんじゃないの? それこそ、中央本家を取られでもしたら、下手するとオレたちが〈赤〉に跪くことになっちゃうよ。オレはそんなのゴメンだし、大老側の黄神はみんなそうだと思うんだ。と言うことは、オレには親父に報告する義務があると思うんだけど?」
 青時はシナリオでも読むようによどみなく言葉にする。
「おめぇみたいなの、オレぁ、嫌いだぜ」
「知ってるよ。ま、お互い様ってとこ。でもさ、あのオーディションの通知を中央本家に渡すなんて、あなたもなに考えてるんだかね」
 それを聞いて青野はニヤリと笑った。
「……あー、そっか。ひょっとして?」
 青時はオーバーに芝居がかった声を出した。
「大老側の一族のために、中央本家──黄神令の芸能界入りをつぶすつもり?」
 青野は一瞬目を見開いた。そしてゲラゲラ笑った。
「知らねぇな。オレはなーんにも」
 けろっと言ってから異母弟をねめつける。青時のほうは表情を変えようともしない。
「オレだって〈赤〉に使われるのなんざ、まっぴらだぜ、青時」

「海棠青時が現れた?」
 透が眉をひそめる。令が一通り課題曲を覚えてしまったところで、ふたりはティータイムをとっていた。この強力なオーラの持ち主の組み合わせで、あまり歌に夢中になるのは危険だと判断した透が早めに切り上げたのである。いつかのホテルの二の舞か、あるいはもっと酷いことになりかねない。とは言うものの、令はかなり名残惜しそうにしていた。透のピアノで歌うのが、令には一番気持ちがよかったのである。
「うん、メガネ君のさ」
 あつあつのタルトタタンをフーフーしながら令が応える。とろりとした林檎の香りがたまらない。
「ふぅん。まぁ、現在、海棠の兄弟で青野のライバルになりうるのは彼くらいなものだからな」
「ライバルって、なんの?」
「海棠ほどの大財閥になると、単に長子というだけで跡継ぎにはなれんからな。元々、海棠はよりよい後継を得るために決して安い買い物ではない〈黄神の卵〉を十一個も買ったんだ。おかげで卵を人工授精させて生まれた十一人の異母兄弟たちは常に競争を強いられて育ったというわけだ。その中で、今回の〈大老の召集〉に選ばれたのは青野と青時だけだった。と言うことは、海棠の後継者争いは事実上このふたりに絞られたと言うことを意味する。だから、青野はなんとしてでも異母弟に勝たねばならないんだよ。青野があれほど君の能力覚醒に懸命だった意味もわかるだろう? あれで海棠の御曹司もいろいろと大変なんだよ」
 透はくっくっと笑う。
「たぶん、海棠青時も遅まきながら中央本家とつながりを持ちたいんだろうな。青野には後白河という参謀があった分、異母弟を出し抜くことが出来たというわけだ」
「中央本家……ってオレのことだろ?」
 令が不服そうにフォークをくわえてぶらぶらさせる。
「お行儀が悪いよ、令くん」
「オレと友達になったって、別になんもイイことなんかねぇよ。中央本家なんて言ったって名ばかりじゃんか。みんな、なんか勘違いしてんじゃないの」
 金髪のままの令がちょっと唇をとがらせてぼそぼそ言う。
 透にとって、こんな令の反応はかわいいとしか言いようがなかった。黄神大老の孫である彼の周囲にはいつだってこういった思惑が渦巻いていたし、その上、幸か不幸か透には他人の心が自在に読めた。人の嘘も裏切りもすべて見通 せた。
「綺麗なんだな、君は」
「へっ?」
「……だかね、それは止めなさい。それは人を馬鹿にしているよ」
 透は自嘲気味に笑った。
 令くん、君は使っていないだけだ。中央本家としての力を。名ばかりの本家に大国の大統領が跪くわけがないだろう。君はまだ知らないだけだ。自分の本当の力を。だが、いずれその時は来る。たとえ、君自身がそれを望まなくとも、そして、君が本当の力に目覚めたなら、その時、わたしは──。
 ふと、窓の外の庭に目をやると、黄色の薔薇が風に揺れていた。

 二日後、令はテレビ局の本社ビル前に立っていた。相変わらず大事になるのを避けたかったので、マスコミ対策でここまでは普段の姿だ。ふうっと深呼吸をして意を決しビルの中に入る。受付にこの前と同じ受付嬢が座っているのが目に入った。なるべく視線を合わせないようにしながら、他の見学客に紛れて令はトイレを捜した。
 数分後、トイレから出てきたのは美貌の金髪だった。生成りの麻のスーツは、あの時黄神のじいがワードローブに揃えてくれたうちの一着だ。ざっくりした生地が令の肌のきめを一段とひきたたせる。廊下を歩く人々の視線が一斉に集まる。そんな視線はまったく意に介さないような優雅な動きで、令は受付嬢の前に立ち華やかに笑った。
「『愛してるなんて、言えない』のオーディションを受けに来たんですが」
 ふだんの姿よりちょっと高めの凛とした声が響く。
「……あなたは……あの」
 あの時の受付嬢が令の顔を見て一瞬絶句する。彼女ももちろん亜梨名の一件で謎の金髪の顔を知っているに違いない。彼女の顔がだんだん桜色に染まる。
「あの……五階です……でも、あの」
「ありがとう」
 そう言って、ウワサの金髪はあっという間にエレベータに乗ってしまった。後には呆然とした受付嬢が残される。
「あんな……綺麗だなんて。そこらの女優さんより、ずっと綺麗。……でも、あのオーディションってたしか……」
 彼女には職務上彼に伝えそびれた言葉があった。だが、当の金髪のほうにも彼女のそんな様子に気づく余裕はなかったのだ。
 オーディションの待合室はすぐに見つかった。『愛してるなんて、言えない』とワープロ打ちされた紙の貼られたドアの前で膝がガクガク震えてくる。頭に血が昇る。もともとあがり症の令はこんな感じの時に変身してしまうことが多かった。だが、黄金色の一房が目に入る。
  大丈夫、今日はもうこのカッコなんだから変身を心配しなくていい。
 じっとりと汗ばんだ手でドアを開けた。
 そこに、美木亜梨名がいた。

  え……っ?
 彼女の瞳と令の瞳が合った。亜梨名の目が驚きに大きく見開かれる。それからさっと立ち上がって令のほうへ歩み寄り、小声で言った。
「なんであなたがここへ来るの」
 語気からして怒っているようだ。
「なんでって、オーディション受けに来たんだけど」
 令は至極真面目に応える。
「まさか」
「まさかって、あなたが言ったんだぜ。ステージに立てって。それより、あなたがオーディションなんて受けるほうがよほどびっくり……」
「わたしは受けに来たんじゃないわ。いいから、早く帰って!」
「それはないだろ? いくらあなただってその言い方はあんまり……」
 二人が言い争うのを見て、待合室にいた他の者たちがざわめきだした。気づいた亜梨名が令のそばから離れる。
「いいわ。勝手にすれば? みんなの前で恥をかけばいい!」
 あまりと言えばあまりな亜梨名の言葉に呆然として、令は棒立ちになった。彼女はさっさと続き部屋に入ってしまい、周囲の視線は自然、令に集まった。と言っても、部屋の中には十人と人はいない。令がざっと見回すと、ヤンキーみたいな奴や、いかにもバンドやってますといった感じの長髪やらが自分のほうをけげんそうに見ている。あっ、そうか。オレも今は似たようなカッコなんだっけ。令は覚悟を決めて空いていた椅子にどっかと腰掛けた。
 しばらくして、係の者らしいTシャツにジーンズ姿の青年が入ってきた。令の顔を見てちょっとおやと言うような貌をしたが、すぐにパンと手を叩いて大声で告げた。
「オーディション会場はあちらになります。急いでくださーい」

 オーディション会場、とは言ってもそれは学校の教壇が大きくなった程度のいかにも急ごしらえなステージと、それに相対した長いテーブルと椅子席に審査員たちが並んでいるだけのものだった。そのステージの前に令たちはずらりと並ばされた。
「あんた、見ない顔だな」
 すぐ隣に立ったヤンキー風の男がぼそっと言った。
「まずは自己紹介からお願いしようか」
 令は隣の男になにか言おうとしたが審査員の言葉にさえぎられた。
「根岸友之、二十一歳。バンド歴五年。浅田笙のバックバンド『アルフアルファ』のリードヴォーカル兼ギターをやってます」
 浅田笙は令も好きなヴォーカルのひとりだ。ソウルっぽいメランコリックな曲を天賦の声量 で歌い上げる。そのバックというからには浅田笙も認めているということだろう。令は彼の歌が聴いてみたくなった。
「斉藤宏明、十七歳。横浜のライブハウスで歌ってます」
「プロということかね?」
 審査員から質問が飛ぶ。
「はい、半プロってところです。CDデビューがまだですから」
 自己紹介が進むにつれてオーディションメンバーの大半は二番目の彼と同じような半プロで、中にはインディーズレーベルでの実績のある者もいた。ズブの素人はどうやら令だけらしい。
 ヤバイ、またドキドキしてきた。
 そして、最後に令の番が回ってきた。
「ルナ、芸歴……ありません」
「ふーん……君は予選で見なかった顔だが?」
 メモ帳をぱらぱらとめくりながらでっぷりした審査員がニコニコ笑って言う。一番端に座ったまま今まで一言も発さなかったひげ面 の男だ。彼の隣の亜梨名の唇がきゅっと締まったように見えた。
「予……選?」
 突然のことで令には言葉の意味することがすぐにはつかめない。
「そう。先月にやった予選だよ」
「先月……」
 まさか、そんな。
 令の顔からサーッと血の気が引いた。このオーディションに予選があったなんて?
「今のは、知らなかった、という演技かな? たしか、つい最近、夢中で覚えていないという下手な芝居を同じ役者がしていたような気がするが」
 ひげ面のギョロリとした目が審査員席から令を見上げる。周りからくすくすと忍び笑いが聞こえる。
「でも、これ。これを見て下さい」
 令はオーディションの案内状を差し出した。ひげ面がそれを手にとって眉間に皺を寄せる。
「どこで手に入れたんだ?」
「お世話になっている家に郵便で来たんです」
「本当だとしたら、随分と手の込んだいたずらだな。わざわざ君にコピーを送りつけるとは」
「えっ?」
 ひげ面が投げるように返してよこしたそれは、よくよく見るとたしかにプリントアウトではなくコピーだった。
「うまい手だな。また、お得意の飛び入り参加で売り込みのつもりかね? たしかにこれは、美木さんとのデュエット企画のオーディションだ。美木さんのステージで話題になった君には絶好のチャンスだろう。だが、な」
 バンッ!
 ここでひげ面は持っていた分厚いメモ帳で机を叩いて令の顔を見据えた。
「だがな、ここにいる人達は三千人以上の応募者の中から二つの予選を勝ち抜いて来ているんだ。君はワイドショーあたりでちょっと顔を売ったと言うだけでそのプロセスを一足飛びにしてしまう権利があると思っているのかね? そのために美木さんのステージを踏みにじるような真似までして? 芸歴なし、ね。まったく呆れるほど堂々と言ってくれたもんだ。そう口で言いながら心の中じゃ、でも、自分のことは知っているでしょう、予選なんか顔パスでしょうって言っていたんだろう? ずいぶんとこの業界をナメてくれたもんじゃないか。ああ、たしかに君のことは知っているよ。こともあろうか、記者会見にまでしゃしゃり出て自分を売り込んだ謎の美少年君だ!」
 矢継ぎ早にそのひげ面は語気も荒く令をののしった。令にはまったく返す言葉もなかった。会場の外がざわざわと賑やかになっている。だが、令は気づいていなかった。ただ、愕然と床を見つめているだけだった。
 ち……がう。オレはそんなんじゃない。
 唇が小刻みに震えるのが止められない。
 違う、顔を売るためにステージに上がったんじゃない。記者会見に行ったんでもない。予選があったなんて知らない。オレは……ただ──。
「君のせいで外じゃレポーターがにぎやかなようだ。君の狙い通りなかなかの人気者じゃないか。だが、われわれが欲しいのは顔だけ綺麗な男の子じゃない。ドラマのイメージにぴったりなヴォーカルだ」
 令は床を見つめたまま一言も発さない。ひげ面はトントンとメモ帳を机で鳴らした。
「さあ、出て行きたまえ! 君にはこのオーディションを受ける資格はない。行って外のにぎやかな連中の相手でもしていてくれ」
 会場はしんと静かになった。バタバタという外の音がやけに響く。喉がからからになって令の言葉はなかなか声にならない。
「……ら、…………えます」
 下を向いたまま、ようやく呟くように言った。
「なんだって?」
 ひげ面がからかうような口調で聞き返す。
「……歌だったら、歌えます」
 今度は顔をきっぱり上げて言い放った。猫科の獣のようなきつい瞳が黄金色に揺れる。
「歌なら、誰よりもうまく歌えます。予選に何千人いようとオレは残っていたはずです」
 誰かがヒューッと口笛を吹いた。
「素人の君が?」
 ふふん、とひげ面が鼻で笑う。
「わからなければ、聴いてみればいいでしょう」
 令の低い声が響き渡った。そしてひげ面を睨みつける。日頃の穏やかな令の面 影は微塵もない。それは恐らく自分自身でさえ気づいていない令のもうひとつの顔だった。たぶん、一ヶ月前までの令だったらこのまま引き下がっていただろう。だが、ずっと抑え続けてきた炎の気性が、姿が変わることを気にしなくてもよい今、しだいに表に顕れつつあった。中天にかかった冬の月のように冴えざえとしたきつく冷たい眼差し。ありえざる美貌なだけに並の神経の持ち主だったら、いたたまれず視線をそらしていたことだろう。だが、ひげ面 は目を合わせたままひょこっと肩をすくめた。
「ふーん、君のテってやつだな。いいだろう、どうせついでだ。オマケで聴かせてもらおうか。まぁ、時間の無駄 だろうがね」

 それぞれの歌がはじまったが、オマケ扱いの令は一番最後だった。まだ、喉がからからだ。令は続き部屋になっている控え室から外へ水を飲みに出ようとした。
「あ、君、今外に出ないほうがいいよ」
「え? でも、喉かわいちゃったもので」
 声に振り返るとさきほどのTシャツにジーンズ姿の青年だった。
「持ってきてあげるよ」
 彼は笑って外に出た。
「いいな、いいな。なんでも特別扱いの人は」
 オーディションメンバーの一人がはやし立てた。令が顔を向けるとヤンキー風のその男はわざとらしく目をそらした。
「いいじゃねぇか。その人のおかげでこのオーディションの注目度がグッと上がってくれてよ。外にゃマスコミがわんさだぜ」
「けどよ、話題性とやらだけでそいつが選ばれちったらオレらの立場はどーなるっての。芸歴ナシのそいつに。まァな、何千人いようとオーディションに残る自信のあるお人だから、トーゼンなのかもしれねぇけどなァ」
 彼らはまるで令がこの場にいないかのように話す。それも無理のないことではある。バイトをしながら下積みを続けている彼らにとって、令は卑怯な手で話題をとった生意気なガキなのだ。ガキ、といってしまうにはあまりにも綺麗な。襟首をつかんで脅しにかかれるような相手ではない。どこかが、何かが、自分たちとは決定的に違う独特の雰囲気をもった、生意気なガキ。それがますます彼らの疳に障った。
「大丈夫だって。そいつはあの『鬼ひげ』に睨まれちまったんだからな。この業界でやってけるもんか。金髪の兄ちゃん、あんた、誰に逆らったのかわかってんのか?」
 令は応えない。
「へっ。プロデューサー鬼ひげって言ったら、この業界じゃかなりのカオなんだぜ。あいつが手を回したらどこのレコード会社だろうとまずアウトだな。一生デビューは出来ねぇぜ。ええ? おい、聞いてんのかよ、おい!」
 令には彼らの声は耳に入っていなかった。
 控え室にはオーディション会場の音声がそのままスピーカーで流れるようになっている。いつのまにか令は一番最初の歌い手、浅田笙のバックバンドをやっているという根岸友之の歌に聴き入っていた。夢見る人のように。
「ばっ、バカじゃねーのか、こいつ。ナメた余裕かましやがって……」
「彼なら、つい歌に夢中になって舞台に上がりかねないだろうね」
 ミネラルウォーターのペットボトルを手にした係の青年が戻ってきた。
「君らに出来ますか? 音合わせもなしに、メインヴォーカルの邪魔することもなく、ハーモニーをつけること。そして、わずか数分で見ていたすべての者に自分を印象づけること。だって、結局のところ、あの鬼ひげさんだって彼のことはあんなによく覚えていたじゃない」
 みな一瞬声を失った。
「なんだよ、てめぇは。どうせただのフリーターのくせしやがって」
「まァね、どうせただのフリーターなんだけど。でも、オレもあのコンサートの数分で彼のファンになっちゃったクチなんで」

 オーディションが続く中、鬼ひげが退屈そうに亜梨名に話し掛けた。
「はぁーっ。この曲を君とデュエットできる声の持ち主はそうそういないな」
「一番のかたなんて、よかったと思いますけど」
「ああ、根岸君ね。まァ、彼くらいだな。あとは音域が足らん。上が出ない奴ばかりだ。一オクターヴちょっとしか音域がなくて、よく歌手志望を名乗れるもんだ」
「みなさん、二オクターヴは出てらっしゃるんじゃ……」
「喉ンとこでヒーヒーいってるのも入れればな。ちゃんと出ている音域は一オクターヴちょっとじゃないか、亜梨名ちゃん。あーあ、君の音域が広すぎるのかなァ。この場合、ありすぎるのも問題かもな……過ぎたるは及ばざるが如し、か」
 鬼ひげがぶつぶつ言う。
 彼が愚痴っているうちに令の番になった。ジーンズの青年が持ってきてくれた水のおかげで喉もなめらかだ。
「ああ、オマケの君か。どうせ、オマケなんだからさっさとやってくれ」
 鬼ひげがさもかったるいと言いたげに手をひらひら振る。
 令は静かに透の言葉を思いだしていた。まず、人の歌を聴いてもそれに引きずられてはいけない。そして、この曲はさびの高音がポイントだ。間違っても鶏が首をしめられたような声を出してはいけない。あと一番大切なのはね、令くん。人のオーラを奏でるんだ、いつものように。
 そして、令は歌い始めた。
 その声ははじめのフレーズから風のように自然に伸びた。亜梨名とデュエットした時の吐息が響くような声とは違う。もっと伸びやかで自由な、響き渡る声だ。気怠く、危ういムードの低音。しっとりと、甘く切ない高音。それが誰の耳にも胸をしめつける愛の告白のように響いた。

  だから
  愛してるなんて言えない
  愛してるなんて言えない

  背中を向けたくない
  抱きしめたい
  なのにキスさえもできない

 わたしはダメだ──亜梨名は思った。
 彼と歌いたくない。彼と歌ったら引きずられてしまう。この声、この鮮やかさ、このオーラ。首筋が締めつけられる。背中がぞくぞくする。身体すべてが彼の声を感じている。オーラが舞い上がるのがわかる。彼の黄金色の長い髪が揺れて輝く。ああ、胸が苦しい。この中で歌うなんてわたしには出来ない。
 オーラがシンクロする。同じものを感じている──歌を聴いた誰もが思った。

 鬼ひげがころんとボールペンを転がす。
「さーて、どのコにしようかねぇ」
 審査員は皆、黙りこくった。一様に困った表情をしている。
「さて、君は誰と歌いたい?」
 唐突に鬼ひげは亜梨名に訊いた。亜梨名の長い睫毛がとまどいに揺れた。

 待合室で令たちは審査の結果発表を待っていた。誰一人、言葉を発する者はなかった。ごくたまにちらちらと誰かしらが令を見ているだけだった。金髪の令だったら、審査の途中経過を透視でのぞき見ることも可能だった。だが、恐くてとても出来ない。
「やけに遅ぇな……」
 誰かがぼそっと呟いた。
 本当に長い……。大丈夫だ。ちゃんと、歌えたはずだ。無意識に令の両手が祈るように結び合わされる。
 コンコン、部屋をノックする音がした。うつむき加減だった皆が一斉にそちらを向く。ドアを開けて入って来たのは鬼ひげだった。令と鬼ひげの目が合った、彼の目が笑ったような気がした。
 そして、彼は皆のほうを見て言った。
「おめでとう、根岸友之君。君に歌ってもらうことに決まったよ」
 鬼ひげが根岸に向かって手を差し出した。

第10話 End
2004.10.23 rewrited
Written by Mai. Shizaka

 

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