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LUNATIC GOLD 第二部 2
 

 
第二部 月は無慈悲な夜の王
 

2 獣の数字
 



 転校一日目はあわただしく過ぎて、あっという間に放課後になった。
「ごめん。ちょっとここの校舎見て行きたいんで、先に帰ってて」
 令は洒落た洋館ふうの校舎がやけに気に入ってしまった。
「なんか、歌ができそうなんだ」
 こんなふうにうきうきして歌をつくりたがっている令はひとりにしておくこと──他の三人には、いつのまにかそんな暗黙の了解ができていた。もちろん、令に内緒で常に護衛はついていたのだが。
 ひとりでぷらぷらと夕暮れの廊下を歩いていると、なんだかのんびりした気持ちになった。
 学校なんて、あんまり好きじゃなかったけど、ひさしぶりに来ると、ちょっといいかもしれない。
 このところ、スケジュールが詰まっていたので、令はほとんどの時間をルナとして過ごしていた。この絶世の美貌の持ち主、ルナティック・ゴールドの姿でいると、人々のあいだで埋もれるということはまずない。注目されるのは気持ちもよいが、反面、かなり疲れるものでもある。そのうえ、〈中央本家〉の能力は見えなくていいものまで令に見せていた。
 そのせいか、ひさしぶりにただの高見沢令でぽけーっとしていられるのはとても心地よかった。自然とやさしいメロディが浮かんでくる。
 そんな、ぽっかりとした、夢見心地の黄昏時。
 ふと、襟足のあたりがざわざわするような、妙な感じがした。

 ……あれ? なんだろ?
 オーラを自由に操れないノーマルヴァージョンでも、令のカンは侮れない。カンに引き寄せられるように、令はふらふらと校舎を出た。
 ラ・メールの校舎の裏手にはおあつらえ向きにまばらに木の生えた林があった。そこから、なにか音が聞こえる。
 バキッ。
 ケンカだ。誰かが殴られている。
 近づいてみると、三人の大柄な男たちが、うずくまっている誰かを取り囲んでいるのがわかった。ケンカというよりリンチだ。
 三人のなかのひとりが令に気づいた。
「誰だ?」
 ……なんで、こーゆーこと、するんだろ?
 令は不思議に思いながら口をひらいた。
「三対一って卑怯なんじゃない?」
「別に三対二でもかまわねーんだぜ?」
 そう言った男がニヤリと笑って振り返った。
 だが、それは──。
 ふつうの人間ではなかった。長い体毛に覆われ、熊のような筋肉や牙の発達した獣人だった。よく見ると、他のふたりも個々の違いはあれど、なんらかの動物に似た姿の獣人だった。
 〈赤〉の一族──。
 あの鋭い爪や牙なら、人を殺すことなどたやすいだろう。
 だが、令は怖くはなかった。彼らは変身をコントロールしている。ラ・メールの制服を着ていることから見ても、ふだんはふつうの人間の姿をしているに違いない。
 令が恐ろしいと思ったのは、魔霊に憑かれた〈赤〉だけだった。脳細胞を破壊され意志も持てずに魔霊に動かされていた彼ら……恐ろしく、哀しかった。
「見たことねぇツラだな。ケッ、こいつら、オレらを見てほうけてやがるぜ」
「一族じゃねぇかもな。バラすか?」
 言うなり、熊男の鋭い爪が令を襲った。
 獣人相手にオーラを使わずに勝てる見込みはまずない。ルナになるしかないか。誰だか知らないけど、あいつ、かなりひどくやられてるみたいだし。令はちらりとうずくまっている男に目をやった。……この人数なら記憶を消すのもわけはない。
 思考をめぐらせながら、令はすんでのところで攻撃をかわした。鋭い爪が令の頬をかすめ、すっと赤い線を描く。
「動きは悪くねーな。キレイなあんちゃん。けどよ」
 言いながら、令の腹に蹴りを入れる。
 並の人間とは反射速度が違う。
「やっぱ、甘いぜ」
「ぐっ」
 声をあげて、令はうずくまった。
 青野がつけている令の護衛はといえば、ぎりぎりの状況まで無闇に手は出すなと主人の命令を受けているので、かなりはらはらと事の成り行きを見守っていた。青野は口ではああ言ってはいるものの、令の男のプライドをかなり尊重していたのである。
「だらしねぇ野郎だ」
 狼めいた男がもうひとつ蹴りを入れてから、令のあごを持ち上げた。
 ゆらり。
 彼には見えなかったが、黄金色のオーラがしだいに大きく揺れはじめていた。
「ん? おい、ちょっと待てよ。このツラ……ほら、例の」
 別の男もハッとして令の顔を見た。
「そういや……今日転校してきた……」
「御三家のお稚児さんだよ」
 あとを引き取ったその声を聞いて、獣人たちは後ろを振り返った。
 むくりと起きあがって声を発したのは、三人にリンチにあってボロボロになっていた小柄な男だった。それは──。
 令の隣席になった少年──赤津哲也だった。哲也は林の下生えのうえであぐらをかいて、小柄な身体に似合わず不敵にニッと笑った。
「いいのか? あの黒川のお稚児さんの顔に傷なんかつけて」
 哲也はついさきほどまでボロボロになっていたのに、今は多少擦り傷がある程度にしか見えなかった。
 令のオーラの揺らめきがふいに小さくなる。
 獣人たちは困ったように顔を見合わせた。
「……宗家に伝えておけ。あんたのやり方には反吐が出るってな」
 リーダー格らしき熊男がそう捨てぜりふを吐いて、三人の獣人は去って行った。
「バーカ。獣人になるくらいしか能がねぇくせに」
 哲也は制服についた乾いた泥を払ってから、蹴りを入れられた腹をおさえてうなっている令を見おろした。
「あんたもバッカじゃねーの。大した黄神でもないくせに、ケンカだけは強い〈赤〉の獣人につっかかってくなんて」
 令を助け起こしながら哲也は言った。
「いたたたたたーっ。ちょっとォ、これでも一応助けに入った相手に、フツーいうか?」
「だーれが、いつ助けてくれなんて言ったっけ?」
 そう言って、哲也は令の蹴られていた箇所に手をあてた。
「……そりゃそーだけど。あんなボロクソにやられててさァ、見て見ぬふりできねーじゃん」
「誰がボロクソだって?」
 そう言う哲也の顔には擦り傷どころか何の傷痕もない。
「……あれ? 腹が痛くない」
 哲也はふんっと笑った。
「そっ、これがオレの能力。治療者(ヒーラー)なんだ。あのくらい、すぐ治せンの。だから、もうオレがやられてても余計な口出さなくていいぜ。大事な顔も治しといてやるな、お稚児さん」
「そーだっ! それ、オレ、頭にきてんだ。誰が誰のお稚児さんなんだよ? 黄神ってどっかヘンなんじゃねーか?」
「ヘンって何が?」
「なんですぐお稚児さんって発想なるんだよっ?」
 哲也は不思議そうに令を見た。
「女が少ないから、しょーがないんじゃない? それよりあんた、黄神じゃねーの?」
「おっ、オレ? ああ……ええっと……そのォ」
 うーん……〈赤〉の宗家にバラしちゃっていいもんなのか?
「ま、いいや。はじめはA組に転校生ってんで〈中央本家〉が来るんじゃないかなんて、すっげー噂になってたんだぜ」
 ド・キーッ!
「……まっさかねー、あんたみたいなマヌケが入ってくるとは。まァ、あのルナティック・ゴールドが学校なんか来るわけねーってか」
 おいおいおいーっ……来てるんだけど。
「あっ、あのさー、〈赤〉の一族はルナの……〈中央本家〉のこと、どう思ってるんだ?」
「なーんだ。やっぱ、一族なんじゃねーか」
 それを聞いて令はふくれた。
「それって、カマかけたわけ?」
「まーね。たとえ、御三家のお稚児さんでも、一般人相手じゃどこまでしゃべっていいか、わかんねーからな。一応、当分お隣さんになるらしいし」
 哲也はちょっと笑った。それを見て、令が言いにくそうに切り出した。
「あ……あのさ」
「なに?」
「片平って、おまえの護衛役みたいな奴なんだろ?」
「ああ、そーだけど?」
「なんで、今みたいな時、ここにいないんだ?」
 哲也は一瞬きょとんとしてから、ぷっと吹き出した。
「ああ、もしかして、あんた気にしてたわけ?」
「……ちょっとだけ」
 照れたような令の顔を見て哲也はまた笑った。
「いいって。あれは奴の自業自得なんだから。あのバカ、クラスでどんけつになんかなりやがって。そんで、今日は勉強しろって先に帰したんだよ。オレだって、いっつも奴につきまとわれてちゃ、うざってーし」
「でも……さっきの熊男の捨てぜりふの感じだと、いつも危ないんじゃないか? 〈赤〉の宗家って」
 ……ふぅん。こいつ、ばっと見より、頭まわるな。
「平気、平気。あいつら、オレを殺るよーな度胸ねーもん。頭ぶち割られでもしない限り、オレ、自分の身体くらい治せるし。あんたと違って」
「……かわいくねー奴……」

 隣の席になった妙な男──高見沢令と別れてから、赤津哲也は星を眺めながらのんびり帰途についていた。
 ヘンな奴……高見沢なんて、やっぱ聞いたことないよな。全然、黄神らしくねーし。オレもなんであんなの相手にべらべらしゃべっちまったんだろ。
 なんか、誰かに似てるような……。
 ふと、夜空にルナの顔が浮かんだ。
 ゲッ、なんでルナが?
 ぜんっぜん、どっこも似てないじゃないか。たしかに顔立ちはまあまあだけど、ルナとあのバカじゃ月とスッポンだ。だいたい、アイドル見た程度でルナがあんなにへらへらするか? ルナはファンの女のコにキスして平気で挨拶代わりだって言っちゃうようなタイプだし。それでいて、いつもどこか寂しそうで……。それこそ、黄金のオーラの〈中央本家〉だったら、獣人なんかちょちょいのちょいだ。
 ちょっとでも似てるなんて、失礼だぞ、赤里。
 そう独白してから、胸がきゅっと締めつけられた。
 なに考えてんだ、哲也。
 決めたんじゃないか。
 ──もう、赤里にはならないって。

 パソコンのディスプレイにこまごまとした化学記号が並んでいる。先日、研究所に解析を依頼しておいたデータ──塩基とタンパク質の組成図である。
「やっぱり、な。変化している」
 彼はふうっと息をついて、すっかり冷めてしまった紅茶を口にし、苦い貌になった。
 データは左右分割で表示されていて、右と左では若干組成が異なっていた。それは、ふたつとも彼、後白河綾瀬自身の遺伝子の組成図だった。ただし、左が一ヶ月前、右が一週間前のものである。
"黄金のオーラで体質がどう変わっても知らんぞ"
 あの時の黄河の言葉が思い出される。
 たしかに、令がオーラをそそぎ込んで自分を治療してくれたあの時──。
 彼の指から何かが分離し、自分の皮膚に吸収されてゆくのが透視能力者である綾瀬には見えていた。
 あれは、一種のバイオチップのようなものだったのか。遺伝子情報を書き換える指令(コマンド)をもった生体素子(バイオチップ)。
 だが、これは……。
 綾瀬は慣れた手つきでマウスを操作し、別のファイルを読み込んで、一週間前の自分のデータと並べた。ふたつのデータは全く異なっていたが、画面をスクロールするうちに一部だけがぴたりと重なった。
 それはちょうど、一ヶ月前の自分のデータと異なる組成の部分──つまり令のバイオチップで書き換えられたと思われる箇所だった。
「やっぱり……ね」
 柄にもなく、綾瀬の背中をじっとりとした冷や汗が伝い落ちるのがわかった。
 それは──。
 〈赤〉の一族ならすべての者が持っているといわれる特殊な配列であった。変身因子──別名666因子。
 最後の審判を預言したといわれる、あの『ヨハネの黙示録』で〈獣の数字〉と記された666から命名されたDNA因子であった。

 令は悩んでいた。
 高城隼人こと綾瀬が気を利かせてくれたのか、転校してしばらくはルナのスケジュールがコンサートの準備をのぞいてほとんどなかったせいもあって、ある考えが頭から離れなくなっていたのである。
「あのさー」
 ラ・メールにも慣れてきた転校して一週間後のある日、隣の席の哲也に令は言いにくそうに切り出した。
「……? また、教科書でも忘れたのか?」
「ちゃう、ちゃう」
 そこからいかにも重大な秘密の話であるかのように、こそこそと小声になった。
「あのさ……」
「なんだよ?」
「あのー、女の子、誘うのにいいとこ、知らないか?」
「はァ?」
 そのまま令は真っ赤になってうつむいている。
「へーっ、ってことはマジでお稚児さんじゃなかったんだ」
「あったりめーだろ。殴るぞ」
 真っ赤になったまま怒る令を見て、哲也はちょっと首をかしげた。
「なら、それこそ仲のいいあいつらに相談すりゃいいんじゃない? 高級なデートスポット、いくらでも知ってそうじゃん」
「……それがダメなんだよ。オレ、ちょっと、そのへんの感覚がみんなと違うらしくて。もうちょい、フツーのとこがいいんだ」
「なるほど。オレなら黄神の御曹司と違って、おまえと同じ庶民感覚ってワケか」
 哲也が少し気分を害したように言う。この数日間で、令が正真正銘、一般庶民の感覚の持ち主らしいことはわかっている。
「そ、そーゆー意味じゃ……ただ、哲也だったら、結構話しててもオレと感覚ズレてないなって。そーだよな、哲也も宗家の息子だもんな」
 令はしょんぼりとうなだれた。
 こいつって、背なんかオレよりずーっとでかいクセして、すっげーガキ……。
 哲也は腕組みをしてちょっとうなってから、ボソッと呟いた。
「……ウォルターランド」
「へっ?」
「だから、ウォルターランドなら、たいていの女は喜ぶし、おまえみたいなガキにはぴったりだって言ったんだ」
「そ、そっか。わかった。ありがとうっ、哲也」
 ったく、誰を誘うんだか。こーんなガキのお守りする女も大変だよな。
 哲也は隣でニヤニヤしている令を見て、こっそりひとりごちた。

「なに、ニヤニヤしてるんです?」
 その日の昼休み、いつもの豪華な給食を食べながら、遠大なるウォルターランド計画に思いをはせていた令に綾瀬がつっこんだ。
「えっ、えっ、なんでもないよ」
 まさか、不本意ながら一応敵対していることになっている〈赤〉の女の子──赤里をどうやってデートに誘おうか計画を立てているとは他の三人にはとても言えない。
「さっきは赤津となにをこそこそしゃべっていたんだ? 〈赤〉の宗家など、君のためにならんぞ」
 透もすかさず口を挟んだ。
「だって、隣同士なんだし……仲いいほうがいいじゃんか」
 令はもそもそと口ごもった。すでに、哲也のリンチを止めに入った件が護衛から報告され、三人から厳重注意がなされていたので、それ以上はちょっと言いにくい。
 なんとなく、気まずい雰囲気が流れるなか、令にとってうれしい助け船が現れた。
「たっかみざわ」
 にこっと笑って沈黙を破ったのは綾瀬の妹、後白河ましろのかわいい声だった。
「綾瀬。ちょっと、高見沢借りるね」
「へっ?」
 ましろはきょとんとしたままの令の腕をさっと取ると、呆然としている三人を後目に令を教室の外にさらっていってしまった。
 このふたりを呆然と見送ったのはラ・メール御三家だけではなかった。
 なんといっても、ましろは黄神のお姫さまなので、令が〈中央本家〉だと知る者にはこれ以上似つかわしいカップルは考えられなかったし、また逆に、令をただのお稚児さんだと思っている輩にはこれほど不似合いなカップルはなかった。
 そして、赤津哲也も、たしかにこのふたりを呆然と見送った者たちのひとりだったのである。

「ちょっ、ちょっとヤバイんじゃない? ましろちゃん」
 丹念に手入れされた色とりどりの花々が咲き乱れるラ・メールの中庭で、令とましろはふたりきりだった。
「なにが?」
 〈白〉のお姫さまはあっけらかんと聞き返す。
「噂になっちゃうよ?」
 中庭は、その名の通りぐるりと回廊式になった校舎のドーナツでいう穴の部分にある。ここでふたりきりで話していようものなら、それこそ学校中の人々にわたしたちを見て下さいといっているようなものだった。
 事実、A組の教室から廊下に出ただけで、やじうまたちは簡単に令とましろを見つけることができた。
「高見沢はイヤなの?」
 ましろはくりっとした大きな瞳で令を見上げた。
 ううっ。やっぱ、ましろちゃんて、すっげーかわいいよな。
「……だってさ、オレって、ましろちゃんの本命じゃないだろ? いいの? あいつ、びっくりしてたみたいだよ」
「いいもん。たまにはびっくりさせてやらなきゃ。驚きの少ない人生送ってるんだから」
「ははは、そーですかァ」
 ……かわいいんだけど、とてもオレじゃ太刀打ちできそうにないんだよな、ましろちゃんて。
「ま、そっちの問題は置いといて。ね、最近、綾瀬の様子ヘンじゃない? なんか、イライラしてない?」
「ああ、そろそろ原稿の締切らしいよ」
 綾瀬はプロの小説家でもある。
「ううん。そんなの、いつもだもん。そういうんじゃなくて……」
「なくて?」
 ましろにしては珍しく心底暗い表情をしている。
「おとといね、綾瀬がちょっと家に帰ってきたの、知ってるでしょ」
「ああ、なんか、小説の資料が見たいとか」
「わたし、手伝おうと思って……一緒に本棚さがしてたの」
「うんうん」
「その時ね、偶然、手に触れちゃったんだ」
「へ、へーっ」
「そしたら綾瀬、どうしたと思う?」
 どうしたって──奴もオトコなら……。
 令は赤くなったり蒼くなったりした。
「……まっ、まさか……なでなでしてきた、とか……」
 ゲゲゲーッ、あの綾瀬が?
「そんなんじゃないのっ。あれでも、真っ当な男なんだから、そうだったら相談なんかしてないもん!」
 ましろの大きな瞳からボロッと涙がこぼれた。
「ご、ごめん。泣くなよ」
 おろおろする令の前で、止まらなくなってしまったのか、ましろはボロボロ涙をこぼしたまま言った。
「……あの人、わたしの手をはらったの」
「……え?」
「汚いものにでも触れたみたいに、あわてて振りはらったの」
 堪えきれず、ましろは令の胸に飛び込んだ。そして、小さな肩を震わせて声も立てずに泣いた。

 その夜、ここのところ、学校とマネージャー業をのぞいては原稿書きと称して自室にこもりがちな綾瀬を令はたずねた。
「紅茶、飲まない?」
 トレイにウェッジウッドのカップ&ソーサーを二客載せて、令は綾瀬の部屋のドアをノックした。
「へえっ、珍しい。あなたがいれてくれたの? どれどれ」
 綾瀬はキーボードを打つ手をとめて、令から紅茶を受け取った。最近、ふたりきりの時にはすっかり普通になっている高城隼人の口調である。
 どうやらふだんの綾瀬より、むしろ高城隼人のほうが彼の『地』に近いんじゃないかと令は思いはじめていた。
 綾瀬は紅茶をひとくち啜って顔をしかめた。
「……紅茶をいれる時は、まずカップをあっためようね」
「ごっごめん。いれ直すよ」
 言うなり、令は綾瀬からカップを取り上げようとした、が。
「わっ、わわわわ〜っ!」
 カップを取り落としそうになった令は、中味を綾瀬にばらまいてしまった。
「わーっ、ごめん。熱くなかった?」
 そう言って、綾瀬の手をしっかと握りしめる。
 払いのけられる、そう思ったが、いつまでたってもなにも起こらない。
 あ……れ?
 つい、手を握りしめたまま、綾瀬と見つめ合ってしまった。
「……ふーん? ひょっとして、オレに気があるとか?」
 綾瀬は平然と言ってから、ぷっと吹き出した。
「うーん、こういう台詞はやっぱり高城の姿じゃないと似合わないなァ。ま、それはともかく。あのねぇ、令。紅茶を膝にこぼしておいて手を握ってちゃ、展開に無理がありすぎるよ」
「あ……膝だった?」
 見ると、紅茶のしみは丸く綾瀬の膝のあたりにひろがっている。令はいたずらっぽく綾瀬の顔を見上げ、困ったように笑った。
「まァ、あなたのことだから、計算ずくなんだろうけど。クリーニング代、請求するからね」
「なっ、なんのことかなーっ」
 綾瀬はふんっと笑った。
「あなたって、とことん裏工作とか嫌いな性格でしょ。だからすぐそうやって、こっちが気づくようにわざとらしく攻めるんだ。イイ性格してるよ」
 なんだか、いつもより言葉にトゲがある。
「……やっぱさ、綾瀬、イライラしてる?」
 令はおそるおそる綾瀬の顔をのぞきこんだ。
「言いたかないけど、かなりキテるな。だってね、ましろを泣かせたのも、元はと言えばあなたが原因なんだから」
「お、オレ?」
「そう、犯人はあなたのDNA」
 綾瀬はニッコリ笑った。

 翌日──。
 私立名門進学校ラ・メール高等学校はある話題でもちきりだった。
 正確にいえば、ラ・メールの約三分の二を占める黄神一族が、であったが。
「ちょっ、ちょっとーっ。どーなってんの? なんか、みんなしてオレを見てるような気がするんだけど」
 登校してすぐに、令は他の三人に訴えた。
「高見沢令、〈白〉の姫と密会、身分違いの恋は成就するのか? ってな。すっげー、噂だぜ」
 青野がおもしろくなさそうに口をとがらせた。
「み、身分違いーっ? いつの時代だよっ?」
『もしくは、〈中央本家〉婚約か? ってな』
 これはテレパシーである。
「マジーっ?」
「自分で蒔いた種でしょう」
 綾瀬がニッコリ笑って言う。
 透にいたっては、眉をひそめるだけで何も言ってくれない。
 こと、この件に関してはみな冷たい。そこへ。
「たっかみざわ、おはよ」
 噂の原因がぽん、と令の肩をたたいた。
「ましろちゃーん」
 つい、令が情けない声をだす。
「どしたの?」
 くりっとした瞳が令を見上げた。昨日はこの瞳からボロボロ大粒の涙がこぼれていたのを思い出す。
 うーっ。ましろちゃんの気持ちを考えると怒るに怒れない。
 恨むぞっ、オレのDNA!

 あの後、自分のDNA因子が綾瀬のDNAに変化を及ぼしたことを説明された。
 同じことが、自分からましろに起こるのが心配で、つい、ましろの手を振り払ったのだと綾瀬は言ってから、「平和な後白河家の家族関係が悪くなったら、どうしてくれる」と令を責めた。
 実は、綾瀬の治療をしたあの時。自分の指先から綾瀬のほうへ何かがするりと移ってゆくのは令にも見えていた。令はなんだかそれが嬉しかったのだが。
 まさか、あんなので変化しちゃうとは夢にも思わなかったんだいっ。オレってなんなんだよーっ?
 でも──。
 身体を検査されるのは、厭だった。オレがヒトとはまったく違うのがはっきりしてしまう。
 綾瀬が本当に怒ってしまったのは、令が検査を断ってからだ。それまでは、単に苛ついていただけだったのだが。
 ごめん……綾瀬。
 でも、本当に厭なんだ。
 ──オレの身体、調べちゃいけないような気がする。
 はあーっ、とため息をついて席に着こうとすると、隣で哲也が自分を見上げているのがわかった。なにか言われるのを覚悟して令が視線を向けると、哲也はふっと目を逸らした。

 


第2話 End
To be continued

2005.4.8 rewrited

Written by Mai. Shizaka


Copyright(C) Mai. SHIZAKA. All rights reserved.

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