4 甘く切ないラヴソング
高層ビルにかこまれた広いマンションの一室に、甘く切ないラヴソングが流れる。
手にしたCDのジャケットには黄金色の美貌。〈中央本家〉──ルナティック・ゴールド。
気がつくと、いつのまにか少女の姿に変わっていた。照明を落とした室内の大きな窓ガラスには、義父である〈赤〉の長老が女性としての姿用にと哲也にあたえた姿──赤里が映っていた。
また、だ。あの人……ルナの歌を聴いているといつも。
哲也は、男性の姿ならばたいていどんな形態でもとることができたが、女性ヴァージョンは赤里の姿にしかなれなかった。後継者になる道を選んだ時、長老が封印したらしい。
義父は伊達酔狂で女性形態を哲也にあたえたのではなかった。近い将来、卵(ラン)を採取するために定期的に女性形態をとるよう指示されたのである。結局、上級レベル能力者の卵を〈赤〉の長老は捨ててはいなかったのだ。十個だけ、という約束で哲也は承知した。
一族の事情を考えれば仕方がない。でも……。
どうして、後白河ましろの姿なんだ?
学校でも、どこでも、黄神の男たちは誰でも後白河の姫がいいらしい。あの、いかにも庶民の代表のような高見沢さえ。でも……。
せめて、ルナとだけは、別の姿で出会いたかったのに。
少女は立ち上がって本棚からハードカヴァーを一冊抜き取った。ぱらりとめくると、中からコンピュータでアウトプットされたチケットがあらわれる。
裏ルートで手に入れたチケット。明日の、ルナティック・ゴールドの。ぎりぎりになって頼んだので、席はかなりよくない。
どうせ、ルナの顔なんてろくに見えやしない。それなら、うちでCD聴いてたほうがいいじゃないか。
最後の切ないフレーズを繰り返して、CDが終わった。
哲也はチケットをぱたんと挟んで本棚に戻した。
その翌日。
令と綾瀬はコンサートの初日のリハーサルということで、学校を休んだ。デビューしてこれがはじめての大きなコンサートだったが、発売して十分ほどでチケットが完売する上々の滑り出しだった。
「あーっ、緊張する」
すべてのリハーサルを終えて、落ち着かない令は控室のなかをぐるぐる歩いていた。
「転校した時みたく、いきなりコケちゃったらどーしよう」
「大爆笑だろうなァ」
「高城さんのイジワルっ」
「オレってほら、根にもつタイプなんだよねー」
例の"ましろと密会"事件からはもう十日くらい経っている。その間、綾瀬のDNAが他の人間に触れただけで変化をあたえることは、まずなさそうなのがわかって、彼の態度もかなり軟化してきていた。
ただし、検査が嫌なら、ルナの姿でましろに触れるな、ときつく言い渡されたが。それも仕方がないことではある。DNAの変化は子孫にまで影響する。
「いーよ、いーよ、高城さん。オレのこと、歩くウィルスみたいに思ってるんだ」
「おっ、歩くウィルス! いいね、そのフレーズもらった」
令はむーっとふくれた。
「ひっでーっ。くっそーっ、くっついてやるかンなーっ。ほーら、ウィルスだぞぉぉーっ」
べたべたべた。
「……あれ? 逃げないの?」
本気で逃げられると思っていた令は、綾瀬にべったりしがみついたまま、きょとんと相手を見上げた。
「もう、ルナちゃんからは逃げられないだろうねぇ」
綾瀬は微笑んで、令の全身から舞い上がる黄金のオーラが、自分の白く輝くオーラをつつみこむように昇ってゆくのを見つめた。
「へっ?」
たぶん、講演で壇上から令のオーラを見つけたときに、自分の心は決まっていたのだろう。
「でも、まさかねぇ。神と呼ばれた〈中央本家〉がこんなんだとは思わなかったけど」
綾瀬は自分たちを映している大きな鏡に気づいて、ぷっと吹き出した。
「なっ、なんだよ?」
「今日、チケット買ってくれたお客さんが、それ見たら泣くってこと。……美貌のヴォーカリストが、木にしがみついたコアラみたいだよ」
その頃、コンサート会場へと急ぐ赤里の姿があった。買ったばかりの真っ白なワンピースに白いサンダル。
「悪いね、お客さん。今日はすごく道が混んでて」
乗り込んだタクシーのドライバーがすまなそうに言う。
「それじゃあ、あの、いちばん近い駅で降ろしていただけませんか?」
「ははは、それじゃ、俺、全然儲からないよ」
ドライバーはそう言ってから「でもまァ、いいよ。お客さん、デートに遅れそうなんだろ?」と続けた。
「えっ?」
「おシャレしちゃっていいねぇ、若いコは」
赤里は真っ赤になってうつむいた。
タクシーがちいさな地下鉄の入口につけてくれたので、赤里は照れくさそうに礼をのべた。
タクシーが行ってしまうと、上からいきなり獣のうなり声が聞こえた。入口の屋根の上に光る赤い瞳。
「朱鷺……!」
慌てて逃げようとしたが、慣れない高いヒールでうまく走れない。あっという間に、黒豹に行く手を阻まれてしまった。
ぐるる、と〈赤〉の臣獣は低いうなり声をあげる。
「おまえの言いたいことはわかってるよ。〈中央本家〉が〈赤〉なんか相手にするわけない、って。だけど……だけど、歌を聴きに行くくらいいいじゃないか!」
赤里はちいさく叫んだ。だが、朱鷺は赤里の腕を軽くくわえて、背に乗るよう合図した。一瞬、赤里は歯を食いしばるような表情になってから、ふうっと息をついて、慣れた動作で黒豹の背に乗った。
タンッ、と赤い瞳をした黒豹は人の目を避けながら夜の都市を駆け抜ける。赤里は朱鷺にしっかりつかまりながら、堪えきれず涙をこぼした。
なんで、涙なんか……。
黒豹は猛スピードで疾駆しているので、涙をぬぐうこともできない。
これは、〈赤〉の一族では本来起こり得ないことだ。〈臣獣〉である朱鷺は赤津哲也の命令に絶対服従の〈血の契約〉をかわしている。哲也が命じさえすれば、朱鷺はそれがどんな命令であろうと従わねばならない。だが、哲也はいまだ朱鷺に臣獣としての命令を下したことがなかった。命令を下したその時に、哲也は幼なじみを失うのだと信じていた。
だけど、朱鷺……コンサートに行くくらい、いいじゃないか。
気がつくと、黒豹の動きは止まっていた。だが、彼の背から赤里が降り立ったそこは──。
目の前にコンサート会場があった。少しの間、赤里は呆然と会場を眺めていた。
「朱鷺……?」
振り返ると、そこにもう黒豹の姿はなかった。
それでも、赤里は悩みに悩んだ末マンションを出てきたので、開演に五分ほど遅れてしまった。進行の都合で三曲目まで待たされ、ようやく係員に案内される。
ステージにはいちばん会いたかった人の輝く姿があった。
ルナが微笑み、黄金色の髪をかきあげた。
「今日は、ホント、緊張しちゃって。ああ、心配だ心配だって言ってたら、ウチのマネージャー、なんて言ったと思う? いっそコケちゃって笑いをとって来いってゆーんだよ。ひどいよねー」
ひどーい、と客席から声が返る。
「やっぱ、ひどい? じゃ、みんなで言いましょう。せーのっ、高城さん、ひどーい」
高城さん、ひどーい、とほとんど会場全体から声が返った。かなり恥ずかしかったが、赤里もみんなと一緒に声を合わせた。
「はーい、ありがとう。でもね、高城さんってかなりのイイ男なんだよ」
赤里はうれしかった。こんなふうに、ルナを見ているだけで幸せになってしまうなんて、自分でも信じられなかった。
──ファンのひとりでいい。
赤里はそう思おうとした。
そうすれば、こうしてルナの歌を聴けて幸せな気持ちになれる。
胸がきゅっと痛んだ。
「ええっと、なんせ、まだアルバム一枚しか出してないんで、オリジナルだけじゃとても曲がたりません」
客席が笑う。
「オレの好きな歌、聴いてください。井上陽水さんの曲で『とまどうペリカン』」
憂いを帯びた甘い声。
ルナが黄金色のライオンなら、あたしはホントにとまどうペリカンだ……。
聴きながら、赤里は思った。
ファンでいいなんて、嘘だよな。歌が聴きたいだけなら、別に赤里の姿でなくてもいいんだから。見つけてほしいんだね、きっと。自惚れてるな、こんなたくさんのファンの中かに見つけてほしいなんて──。
闇の中、赤里の瞳の中でルナの姿が黄金色に滲んだ。
三回めのアンコールが終わると、すうっとライトが消えて、数秒後にステージがふたたび照らし出されたときには、そこにもうルナの姿はなかった。
きっと、テレポートしていまごろは屋敷の中だろう。赤里は思った。
もういい。次は適当な男の姿で来よう。
だいたい、哲也。ハイヒールなんて人間のはくものじゃないぜ。バラード以外はほとんど立ちっぱなしだったから足が痛くてかなわないじゃないか。
かかとを押さえて、ちょっと靴擦れを治しておこうとした時、頭にその声が響いた。
『赤里ちゃん、聞こえる?』
えっ? ……テレパシー?
『そう、会場出たら左に曲がってまっすぐ来て』
誰?
『やだなァ、わかんない? マヌケなソウルハンターだよ』
テレパシーの声がくすくす笑った。
まさか……疑うより先に痛かったはずの足が動いた。
左に曲がってまっすぐ、といっても、建物の長い一辺をたどったので、ずいぶん距離があった。端まで着くと、かどから手が出てこっちこっちと招いている。
のぞくと、そこに華やかなステージ衣装をまとったままのルナがいた。
「ごめん。来させちゃって。他のコに見られると話もできないから」
赤里はついさっきまでステージで歌っていたルナが自分の目の前に立っているのが信じられなくて声を出すのを忘れていた。
「どうしたの? 赤里ちゃん?」
ルナが心配そうに赤里の顔をのぞき込んだ。
「えっ……あ……なんでもない。……いたっ!」
走ったときに水膨れになっていた靴擦れがつぶれて剥けてしまったらしい。右足が特に痛い。赤里は顔をしかめて痛みをこらえようとした。
「……ああ、足。痛いんだろう?」
「だっ、大丈夫。ぜんぜん」
ヒールの靴をはきなれてないなんて、この人に知られたくない。
「ダメだよ。そんなに剥けてちゃバイ菌はいっちゃうよ」
〈中央本家〉にはすべて見えてしまうから厄介だ。ルナはかがんで赤里のかかとに手をあてた。
あああっ……! もっと、長いスカートにすればよかった。
すうっと痛みが引いてゆく。
「ん、これで大丈夫。次は低いのはいて来るんだよ。もっと踊れるオリジナル、増やしとくから」
「あっ……ありがとう」
どうしよう、ルナの顔がまともに見れない。
「え、えーっと……で、ここに来てもらったのはさ、実はオレ、用があって……」
ルナが切り出した。
「え?」
「あのー、今度の日曜、あいてる?」
赤里は下を向いていて気づかなかったが、ルナのほうも赤くなって、こちらは上を向いていた。
「あいてたら、どーするの?」
我ながら、かわいくない言い方だ。
「これっ!」
そう言って、ルナが差し出したのは──。
「ウォルターランドのパスポートチケット?」
「うん。一緒に行かない?」
「あんたと?」
思わず確かめてしまった。
「……イヤかな」
「別にイヤじゃないけど」
まさか、この人、デートに誘ってるのか?
「ホント? じゃ、オレ、十時にお城の入口で待ってるから。そうだな、赤里ちゃん、オレ見たらちょっとびっくりするかも知れない」
ルナは悪戯っぽく笑ったあと、ハッと気づいたように言った。
「あ、じゃ、ごめん。これから、バンドやスタッフの人たちと打ち上げなんだ。どこか送ろうか? 言ってみて。テレポートするから」
「ううん、いい。早く帰んないと、みんな心配するよ」
「……そう」と、ちょっと寂しそうな表情になったあと、「わかった。じゃ、日曜。十時だよ」
言ってルナは微笑んだ。
「絶対だからね」
ルナがテレポートで消えると、あとには赤里が残された。手にしたチケットに目を落とす。
本当に?
あんなにたくさんの人の中から"赤里"を見つけるなんて。
こんなの、くれるなんて。
信じちゃうよ、ルナ。
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