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LUNATIC GOLD 第二部 5
 

 
第二部 月は無慈悲な夜の王
 

5 仮面舞踏会 ─マスカレード─

 静寂の中、声にならない悲鳴が、木霊する。
 漆黒の中、赤いオーラが篝火のように揺らめく。

 赤いオーラの主の背には黒い影──魔霊(ソウル)。
 魔霊は鞭のようにひゅるりと闇色の触手を伸ばし、小さな魔霊を次々と喰らい、膨らんでゆく。声なき悲鳴は、小さな魔霊が喰らわれた時に発する断末魔の叫びだった。
 赤いオーラの主は、魔霊の触手のひとつを蛇のようにくねりと腕に絡みつかせて妖艶に笑んだ。その背には、影のような魔霊のみならず、影ならぬ実体の翼があった。その、ゆうに身長の二倍はありそうな、闇に溶ける射干玉(ぬばたま)の翼を羽ばたかせて、彼女は虚空を飛翔していたのであった。
 だが、背中から生え出た翼をのぞけば、彼女はヒトであった。宵闇に、仄白く浮かぶ肌。空気抵抗を避けるためか、形のよい胸から腰のラインが浮かび上がる、ぴったりとした闇色の衣装を身につけている。
 ただ、紅玉(ルビー)のように煌めく赤い瞳が、彼女の人がましさを裏切っていた。
 ばさっ。
 またひとつ、彼女の羽ばたきとともに、小さな魔霊が叫びをあげる。
 〈魔霊使い〉──ソウルマスター、赤津遊人の魔霊狩りであった。
 ただし、彼女のそれは散華ではなく、魔霊を己の下僕とすることが目的であった。遊人が背にした大きな魔霊は彼女の赤いオーラに縛られ、使役されているのだ。
 なんだ? ……この感じ?
 ふいて、びくりと遊人は下界を眺めた。
 魔霊の助けで、下をゆく豆粒のように小さな人々のオーラさえ、遊人にははっきりと見えた。闇に光る彼女の赤い瞳が、うっすらと細められる。口の端をわずかにあげて、少しのあいだ、遊人はそれを眺めていた。
 そして、獲物を視界にとらえた猛禽類のように下界へ降りる態勢をとった。

 ──なにか、妙だ。
 令が赤里にウォルターランドのチケットを渡していたころ、ルナティック・ゴールドのゼネラルマネージャー高城隼人こと後白河綾瀬は、スタッフに指示を与えてから控室でルナを待っていた。
 あいつ、どこに消えたんだ?
 三度目のアンコールのあと、照明がフェイドアウトしたすきに令はテレポートでステージから消えた。当然、まっすぐここへ戻ったものと思っていたのだが。
 どこに行ったんだ?
 ……なにか、妙な感じがする。
 〈白〉の後継者は瞳を閉じてオーラの視界を拡げた。会場内の壁がすうっと溶けるように透き通って見えはじめる。帰途につこうとする観客たち。後かたづけをしているスタッフ。ドラムの木下が缶コーヒーで喉を潤している。
 令の姿はない。会場内に、不審なものもなにもない。
 ふいに、眩暈を覚えて綾瀬は目を開けた。こめかみをおさえて、ほーっと息をつく。
 高城の姿じゃ、これが限界か。
 白く輝くオーラそのものは同じだが、高城隼人のオーラを操る能力は綾瀬のそれより劣っている。視界がかなり狭められるのだ。
 肉体の処理能力の差か。ハードによる制限事項というわけだ。
 綾瀬は自分の白いオーラを眺めながら他人事のように分析して、鈍く痛む頭をとんとんと軽く叩いた。
 かわりに、高城隼人は本来の綾瀬自身よりも丈夫な肉体をもつよう設定してある。
 もともと綾瀬は虚弱体質だった。
 彼のオーラは他のオーラの攻撃を一切受け付けない宗家だけが持つ無敵の〈白〉だが、長時間多量のオーラを放出しつづけると身体が先に参ってしまうという弱点を持っている。知力、〈白〉としての特殊能力はもちろん、運動神経さえ、誰にもひけをとらない綾瀬だったが、ただ、体力にだけは恵まれなかったのである。
 色素の薄い、グリーンがかった淡い色の瞳。一般的にいう視力は生まれつき0,1もない。並外れた透視能力のおかげで、不便を感じたことはなかったが。
 しかし──。
 あの時、令が生体素子(バイオチップ)を滑り込ませてから、身体の調子がとても良い。令がくれたバイオチップは懸命に綾瀬の体質改善をはかっているかのようだ。
 つい、小さな小さなルナが聴診器片手にちょこまかと、自分の身体の中を駆け回っているさまを想像して微笑んでしまう。
 どうせなら、綾瀬の姿と能力で高城の体質がベストなんだが──それは贅沢だな。
 綾瀬がちらりとそう思った時。
 突然、それは起きた。

 綾瀬の全身を、ざわり、と鳥肌の立つような感覚が襲う。
 これ──は、まさか。
 身体がぞくぞくと震え、白く輝くオーラがゆらゆらと陽炎のように立ち昇る。身体が小刻みに震える。バランスを失って、高城隼人の姿をした男はがくりと膝をついた。
 馴染みのある感覚だった。
 身体の中で数億もの小さな虫がざわざわと蠢き、ぱちんぱちんと弾けるような、あの厭な感じ──。
 やがて、潮が引くように、ゆるゆると、それが去ってゆく。完全に自分の状態が安定したのを確認して、高城の姿をしていた男はふらりと立ち上がった。控室に据えられた等身大を映す鏡に思わず目をやる。だが、そこに映っていたのは──。
 彼本来の姿──後白河綾瀬の姿だった。
 〈白〉の後継者は、誰の力も借りずに自力で変化してしまったのである。

 僅かの間、綾瀬は呆然と鏡に映った自分の姿を眺めていた。
 変身因子は、やはり有効だったのか。
 綾瀬は自分の白く輝くオーラを見つめた。
 ……ともかく、このことは誰にも知られてはまずい。
 頭の切り替えが早いこの男は、いつまでもぐずぐずしてはいなかった。
 すぐに目を閉じて高城の姿を思い浮かべる。術者に依頼して〈変化〉する時、いつもそうするように指示されたのを想い出して、である。
 だが、ちょうどその時。
 何者かが、室内にテレポートしてくる気配を綾瀬は感じた──。

 コンサート会場の敷地内に綺麗なモザイクタイルを敷き詰めた広場があった。
 ベンチなどもしつらえられたこの広場は、コンサートが始まる前までは待ち合わせなどによく利用されていて人の姿も多い。だが、コンサートの終わったこの時間になると、入口から奥まった位置にあるこの場所を訪れる者はめったにいない。
 そのベンチのひとつに、赤里はぽつんと座っていた。ルナからここでウォルターランドのチケットを渡されたあと、その場を離れられずにいたのである。
 まだ、哲也に戻りたくなかった。
 初夏の夜気はぼうっと熱を帯びていて、ときおり吹く風が長い髪をさらってひんやりと心地よい。
 ばさっ。
 ふいに、なにかが羽ばたく音が聞こえた。ふつうの鳥にしては大きな──。
 赤里は音のするほうへ顔をあげた。
「……遊人」
 闇に光る赤い瞳を認めて、赤里は呟くようにその名を口にした。鴉のような黒い翼を背にした男が目の前にふわりと舞い降りる。
「なんだ? その格好は」
 赤里の、夜闇に浮かび上がる真っ白なワンピース姿を眺めて、遊人は鼻で笑った。遊人自身の地上に降り立った姿は、いつのまに変化したのか、すらりとした長身の青年で、翼は目立たぬよう背中で小さく折りたたまれている。
「……時々、女にならなきゃいけないだろう?」
「それにしては、ずいぶんと洒落てるじゃないか?」
 揶揄うような相手の口調に、赤里はきゅっと唇をかんだ。
「……見ていたくせに、白々しい」
 遊人はくすりと笑って赤里の細い腰に腕をまわし、ふいに舞い上がった。白いスカートの裾がふわりと揺れる。
「そう、見ていたよ。哲也……いや、その格好なら赤里と呼ぶべきかな」
 みるみるうちに、地上が遠ざかる。
「脅かそうとしても無駄だ」
 平然と赤里が言う。
「そうかな? おまえは獣になる術は知らないはずだ。ここから落ちれば即死だろう? いかにすぐれた〈治癒者〉のおまえでも」
 高層ビルをはるかに見おろす高みで遊人は笑った。眼下に夜の街が遠く煌めいている。
 赤津遊人と哲也の兄弟は〈赤〉の長老の後継候補であった。〈魔霊使い〉──ソウルマスターと〈治癒者〉──ヒーラーとして秀でたふたりを長老は養子とし、競わせていたのである。〈赤〉の長の後継候補であるふたりは下僕の〈臣獣〉と区別され、獣になる術は教えられていなかった。
「〈中央本家〉となにを話していた? 赤里?」
 遊人は鳥が喉を鳴らすようにくくくっと笑う。
「あんたには関係ないだろう?」
「そうかな? 例のオーディションの時、わたしが誰と一緒にいたかは知っているんだろう?」
 遊人が黄金色のオーラを持つ謎の男・黄河とともに現れたことは、赤里の耳にも入っていた。だが、赤里はなにも応えず、遊人に鋭い視線を向けただけだった。
「こわいねぇ。だが、あれは、わたしの独断じゃない」
 言って、遊人は赤里のあごをひょいと持ち上げ、うっすらと微笑んだ。赤里の瞳が訝しげに細められる。その耳元へ、遊人は睦言でも交わすように囁いた。その言葉を耳にしたとたん、赤里の身体がびくりと震えた。
「まさか……長老が……?」
「おまえも〈赤〉の宗家に恩のある身だろう? ならば、ルナティック・ゴールドと関わらないことだ」
「義父上は、黄河を〈中央本家〉として立てるおつもりか」
「……そのようだな」
 そして、〈中央本家〉黄河を擁して、黄神大老にとって替わる──〈赤〉の一族の悲願──。
 ルナと、本当の敵同士になる……なってしまう。
 いつのまにか遊人は、赤里の住むマンションの屋上に降り立っていた。彼は自身の想いに沈み込む赤里を見おろした。口の端に酷薄な笑みを浮かべ。
 赤里はまだ知らずにいた。
 黄河が、敵となるはずの黄神大老の孫、黒川透その人であることを──。

「綾瀬?」
 控室にテレポートしてきた人物、海棠青野は思わず声をあげた。青野は、まさに綾瀬から高城隼人の姿に変わろうとしている場面を目の当たりにしてしまったのである。
 高城隼人への変化は、さきほどよりずっとスムーズだった。あの厭な感覚に悩まされることもなく、あっという間に綾瀬は高城になっていた。
「簡単すぎて嫌になるな」
 ぼそりと言って高城の姿の綾瀬は顔をあげ、呆気にとられたままの幼なじみに剣呑な視線をおくる。
「まったく、間の悪い」
「おっ、おい。綾瀬……おめぇ、いつのまに変身……」
 綾瀬は視線で青野の言葉を遮った。
「秘密にして欲しいんですがね」
「いいけどよ。おめぇ、それって〈白〉の場合、すっげーまずいんじゃねーの?」
 青野は鼻に皺を寄せながら、綾瀬の肩に手をやって顔をのぞきこんだ。
「でしょうね」
「でしようね、って……おめぇ、少しは慌てろ……」
 言いさして、青野は気づいた。この天の邪鬼がこういう態度を見せる時は、本当はかなり慌てているに違いないのだ。それで、まったく別のことを言った。
「……あーっと、こんな時にマヌケだが、黄河の情報、こっちのほうはさっぱりだ」
「ああ、やっぱりね」
 綾瀬はうなずいた。
「ぼくのほうにもまったく入ってきませんよ。あのオーディション以来、足跡がぱったりと途絶えている」
「しばらく、大人しくしててくれるんじゃねーの?」
「だと、いいんですがね」
 それを聞いて、青野はふんと鼻を鳴らした。
「ただいまァ」
 ノーテンキな声が控室に響く。
「あれ? 青野も来てたんだ」
 むろん、それはテレポートしてきた黄金色のオーラの持ち主、ルナティック・ゴールドこと高見沢令である。
「……どこに行ってたんだ?」
 何事もなかったように、いかにも高城らしいムードで綾瀬が訊いた。
 令としては本意ではないが、一応、敵対していることになっている〈赤〉の女の子と逢って、しかもデートの約束をとりつけていたとは、ちょっと言えない。
「えっえっえっ? ちょこっと、トイレ」
「ふうん……」
 いかにも疑わしいというように、綾瀬が令を見る。
「ここのトイレにはいなかったようだけどね?」
 透視能力者に言い逃れをするのはなかなか大変だ。
「だ、だーってさァ、ルナがトイレに行くとこなんて、あんま、かっこよくないじゃん。だから、ちょっと遠くまで行ってたんだ」
そう言って、令はへらりと笑った。
「おいっ! ルナティック・ゴールドっ! 美貌のヴォーカリストがへらへら笑うな!」
 思わず、青野が怒鳴った。ついさっきまで、このマヌケの歌をうっとり聴いていたかと思うと、なんだか脱力してしまう。
「で、美貌のヴォーカリスト君。結界(バリア)張ってなにしてたの?」
 相変わらずのマイペースで綾瀬が訊いた。
 あの妙な感じはバリアのそれだと彼は踏んでいたのである。
「へっ? バリア? なにそれ?」
 令はステージ衣装を部屋の隅でこそこそ着替えながら、すっとぼけた。良心がちくちくと痛む。
 ごめん、綾瀬。
 "高城隼人"の透視能力の限界を、令はおおよそ掴んでいた。だから、綾瀬の動きを確認しながら、コンサート会場の外へ赤里を呼び出した。バリアこそ張ってはいなかったけれど、隠し事をしているのに変わりはない。
 ……でも、〈赤〉のことになると、なぜか綾瀬や青野は神経質になるから──赤里ちゃんのことは、まだ話せない。ごめん、綾瀬。
「ルーナちゃん?」
 自分と視線を合わせようとしない令に綾瀬は追及の手を伸ばそうと、黄金色の頭をぐいっと引き寄せた。
「オレに隠れて、なにかしてたの?」
 そう言って、にっこり笑いながら令の目をじっとのぞき込む。
「おい、あやちゃん。こいつ、またなんかやらかしたのか?」
 青野もニヤニヤしながら加わってくる。
 このふたりに左右から責められては本当に困ってしまう。
 でも、やっぱ、言えないよぉ。
「だ、だからさ、オレ……」
 令がどつぼにはまりかけたその時、綾瀬の表情が唐突に硬直した。視線は令の向こう、ドアの外を凝視しているようである。
「どしたの?」
 きょとんと、令が言った。一拍おいて、控室をノックする音がした。
「……誰だ?」
 はあーっとため息を吐いて、綾瀬が誰何する。もちろん、訪問者が誰なのかは見えている。
「わたし。後白河ましろ」
 コンサート会場に妹が来ていることは、透視するまでもなく、綾瀬も知っていた。だが、控室を訪ねてくることは何故か予想もしていなかった。
 助かった、とばかりに、令がスキップしながらドアを開ける。
「コンサート成功おめでとう! とっても、よかったよぉ!」
 ましろは大きな大きな花束を抱えたまま令に飛びついた。
「ありがとう、ましろちゃん」
 視線を感じて、令がましろの後ろを見ると、ちょっと離れて、スタッフやバンドのメンバーたちがぞろぞろついてきていた。
「これから打ち上げ?」
 ましろが令を見上げて言った。
「うん」
「ね、一緒に行ってもいい?」
 遠巻きにしているスタッフたちが、そわそわとこちらをうかがっているのがわかる。
 さては、連中、ましろちゃんを誘ったな。
「うん。行こ行こ」
 令が軽く応えたその時、低気圧をしょって"高城隼人"が口をひらいた。
「ダメです。帰りなさい」
「えーっ!」
 ましろとスタッフたちが一斉に声をあげた。高城の後ろで青野がニヤニヤ笑っている。
「あなた、誰?」
 ましろが高城に向きなおった。
「以前にお逢いしていませんでしたか? 高城隼人。ルナのゼネラルマネージャーです」
 にっこりと笑って高城が応える。だが、ましろも負けてはいない。
「あなた、〈白〉でしょ。〈本家〉がいいって言ってるのにダメなの?」
「常識の問題だろうね? あなたはまだ高校生のお嬢さんだ。一族のパーティでもない、男性ばかりの酒の席に顔を出せる年齢じゃないでしょう」
「カタブツ!」
 ましろは言って、あっかんべーをした。高城が眉を顰める。
「いいもん。わたしの身柄は〈本家〉が守ってくれるから。そーだよね、ルナ?」
 そう言って、ましろは令の腕をぐいっと抱えた。
「……うっ、うん? いいじゃんか、高城さん。ちょっとだけなら。オレがちゃんと見てるからさ」
 高城らしくもなく、片方の眉が神経質そうにつり上がった。
「……いいだろう」
 素っ気なく高城が言ったとたん、スタッフから歓声があがった。女っけの極端に少ない酒の席に、ましろのような可愛い女の子が入るだけで野郎どもはうれしかったのだ。
 高城はなにごともなかったように、後かたづけの指示をはじめた。この場の全権を取り仕切るゼネラルマネージャーの彼がする仕事ではなかったが。

 まさか、こんな席に平気で顔を出すような子だとは思わなかった。
 打ち上げパーティのどんちゃん騒ぎの中、綾瀬はルナの隣で男たちにちやほやされている妹を遠くからちらりと見やる。いつもは、ルナの隣が自分の指定席なのだが、今夜はとてもそんな気分にはなれなかった。
 〈変化〉──へんげ、か……。
 綾瀬は自分の全身から立ち昇る真白いオーラを見つめた。
 変身因子──ファクター666。
 ファクター・オブ・ピースト──獣の因子と呼ばれるそれは、〈赤〉特有の因子である。他の黄神もみな、これによく似た組成を持っているが、それが変異したのが、この666因子だと黄神の研究者たちは言う。〈赤〉だけが持つはずの因子。それを──。
 それをぼくは持っている。それだけなら、隠し通せるかとも思ったが。
 変身能力まで覚醒してしまった。あんなに、呆気なく。余人はともかく、黒川の目をごまかしきれるかどうか。十中八九、無理だろう。もしも、これが発覚すれば……。
 ──よくて、廃嫡か。
 綾瀬にしては珍しく手にしていたグラスの氷が、カランと鳴った。グラスはほとんど空になっている。だが、少しも酔ってはいない。酔えないのだ。宗家や力を持った黄神一族はみな、幼少より酒に酔わない体質に改善するのである。酒に酔って、オーラコントロールを狂わさないための予防策なのだ。酒に酔えない──そんな些細なことが、今夜は少しだけ哀しい。
「よォ、高城さん。暗くなんなよ」
 そう言いながら、青野が新しい水割りを差し出した。綾瀬のために、わざわざ取りに行ってくれたらしい。綾瀬は眉根を寄せて、それを受け取った。
『まァな、〈白〉は特別そーゆーのにうるさいかんな。令には言っちまったほうがいーんでないの?』
 自分はビールを口にしながら青野がテレパシーで言った。こちらもまったく酔っていない。
『よしたほうがいいでしょう。ふだんの令の意識は、誰かさんに筒抜けでしょうから』
『ああ、そーゆーこと』
 青野は納得した。
 〈白〉の一族は、黄神の中でもとりわけ血統の正しさを重んじる。他の黄神に比べると〈白〉のオーラの女性の出生率は僅かに高いので、〈白〉同士の婚姻が可能だったからである。〈白〉の宗家は、〈赤〉の娘を嫁取りする必要がなく、代々、〈白〉のオーラ同士での婚姻を繰り返してきた。
 数ある黄神の名家のなかでも、〈白〉の宗家だけが、純血を守りつづけていると言われている。事実、綾瀬は青野のような試験管ベビーではなく、後白河の両親のあいだに自然分娩で生まれた一粒種なのである。
 その、〈白〉の宗家の嫡子が、〈赤〉特有の因子を持つなど言語道断なのだ。
 後白河家は従兄弟の誰かを養子にとるしかないだろう──ましろは直系ではないから。
 綾瀬はちらりとましろを見た。気づけば、隣にいたはずの青野がいつのまにか令の近くでなにやら話をしているのが目に入る。グラスの酒を飲んだ。ごくりと喉が鳴る。彼にしては少々品が悪い。
 まったく、あの子は。こんなところに来るのに、あんな短いスカートなんかはいて。男がどんな目で自分を見ているのか全然わかっていない。
 まあ、仕方がないか。令のことが好きな一心なんだろう。ともかく、ましろの選んだのが黒川でなくてよかった。あれを義弟と呼ぶかと思っただけでぞっとする。
 そんなことを思いながら、二杯目のグラスを空けた時、思いがけなく声をかけられた。
「高城さん?」
 目の前のましろを見て、綾瀬はむせた。ほんのちょっと目を離したすきに、こちらへ来ていたらしい。
「なっ? まし……」
「なに、格好つけてるの?」
「は?」
「はすに構えて、水割りなんか、こう、眉間にたて皺よせて飲んじゃって」
 言って、ましろは思いきり顔をしかめて見せる。綾瀬本人にそういう意識はなかったので、ひどく不本意な言われようだった。
「あのねー……〈白〉のお嬢さん」
「やーだ、この人、お嬢さんだって」
 ましろはくすくす笑った。
 いったい、なにがおかしいのかわからない。綾瀬は頭が痛くなってきた。女の子の考えていることはわからない。特にわが妹の考えていることは。
「いいから、早くあっちへ帰りなさい。ルナが心配するよ」
 そう言って、しっしっと追い払うような仕草をする。
「いいの。もう、帰るって言ってきたから。高城さん、家まで送って」
 ましろはにこっと笑った。
「は? オレが?」
 一瞬、目が点になる。
「ルナはメインだもん。席はずせないでしょ。だから、送って」
 なんつー、ワガママな。こんな妹に育てた覚えはないぞ。
 綾瀬は額に手をあて、がっくりとうつむいた。かと言って、令以外の男に送らせるのも嫌だった。綾瀬は観念したように力無くため息をこぼした。
「わかった……」

「行き先は?」
 訊きながら、後部座席のドアを開ける。
「えーっ、うしろ?」
 恨めしそうにましろが綾瀬の顔を見上げた。
「わかったわかった。オレもガキには興味ないから」
 実は同い年なのだが、綾瀬はしれっと言って助手席のドアを開けた。ましろが、ムッとふくれる。
 そんな表情したって、ガキのところを妹に言い換えれば同じなんだから、どうだっていいだろうが。
 綾瀬は心の中で独りごちた。
 ……ま、血はつながってないけどね。
「前に乗るんなら、ちゃんとシートベルトを締めろ」
 自分もカチリとベルトを締めながら、綾瀬がましろに命ずる。
「ねっねっ、免許証、見せて」
「はいはい」
 綾瀬は麻のジャケットの内ポケットから、カードをさっと取りだしてましろに放った。裏から手を回して高城隼人の戸籍を手に入れた時、運転免許証の手配も済ませてあったのだ。無論、運転技術に問題はない。
「へーっ、高城さんって二十三才なんだ」
 言って、綾瀬の顔をじっと見上げる。
「なんだ?」
「もっと、おじさんかと思った」
「……あっ、そ」
 それきり、綾瀬は無言のまま車を発進させた。
 養女に来たときは素直で可愛かったのに、いつのまに、こんなこまっしゃくれた娘になったんだ。
 ふと、後白河家に来たときのましろの姿が浮かんだ。肩口で切りそろえた鮮やかな黒髪。ほんのりと輝くやわらかなオーラ。黒目がちの大きな瞳がまっすぐにこちらを見ていた──。
「……ねぇ、高城さん」
 ましろの声で、綾瀬の追憶は途切れた。
「ん?」
「今日、なにかなかった?」
 綾瀬はぎくりとした。ましろは〈見者〉──予知能力者なのである。綾瀬などより、勘はずっといい。
「……別に」
「そっか。さっき、なんだか変な感じがしたんだけどな」
 変な感じ、か。綾瀬はその響きに、なにかひっかかりを覚えた、が。
 勘のいい子だからな。下手に追及するとこっちが危ない。
 そう思ってちらりとましろに目をやったとたん、しっかり目と目があってしまった。
 ……えっ?
 綾瀬は慌てて目を逸らした。
 ずっと……見ていたのか?

 後白河の屋敷の前で、綾瀬は車を停めた。
「着いたよ」
「高城さんも降りて」
「は? オレが?」
「もう、母に見えてるもん。たぶん、お茶の用意して待ってるはずよ」
 ……たしかに。あの母には見えているはず、だ。オーラの色でぼくだとバレてなきゃいいんだが。まあ、バレたらバレたで構わなかったんだが。ただ、いまは、ちょっと事情が変わってきたしな。なんとなく敷居が高い。
「遠慮しておく。打ち上げに戻らなきゃならないし」
「あっ、それ、大丈夫」
 ましろはにこっと笑った。
「青野が高見沢に言ってたもん。高城さん、疲れてるみたいだから、先に帰したほうがいいって」
 ……あいつ、そんなことを言いにいってたのか。
「なら、このまま、帰って寝たほうがいいかな」
 綾瀬はしれっと言った。
「ダメっ。さっきだって、なにも食べてなかったじゃない。うちのケーキ、美味しいんだよ」
 そう言って、綾瀬のちょろりと垂らした髪をくいっと引っ張った。
「あのねー……」
 大きなくりっとした瞳が綾瀬を見上げている。
「ね、ちょっとだけ」
「……わかった」
 いったい、自分はなにしてるんだか。
 何度くぐったがわからない玄関を、よく見知った使用人たちに「いらっしゃいませ」と歓迎されながら、綾瀬は天井を仰いだ。奥から、よく知っている女性がにっこり微笑みながらやって来る。
「ましろを送っていただいてありがとうございました、さ、奥へどうぞ」
 〈白〉のオーラの美しい、綾瀬によく似た顔立ちの女性、後白河夫人だった。
「いえ、わたくしはここで失礼させていただきます。〈白〉の末席を汚すに過ぎない身でございますので」
 〈白〉の宗家の後継者はそう言って頭をさげた。
「とんでもない。美しいオーラをお持ちですわ」
 夫人は微笑んだ。黄神一族において出世するには、生まれがよいか、オーラがよいかのふたつにひとつである。高城隼人という男が実在するとすれば、当然、後者の資格がある。
 なにげなく、つらつらとそんなことを考えていた時、ましろが口を開いた。
「ね、お母さま。高城さん、綺麗なオーラでしょ? 〈中央本家〉の側近として働いているかたなの」
 側近、ねぇ? お守りといったほうが正しいような気がするが。
 高城の綾瀬は首をひねった。
「おつきあいしてもいい?」
「……は?」
 綾瀬としたことが、一瞬、意味をつかみそこねた。思わずましろの顔に目を向けると、彼女はこちらを見てにこっと笑った。
 …………おつきあい? 高城隼人とましろが?
「じょっ、じょっ、冗談だろうっ!?」
 数秒、間をおいて、まったくらしくもなく綾瀬は叫んだ。
 この、なにを考えているかわからない義妹は、本当になにを考えているんだ? 高城隼人とつきあいたい、だと? ……高城と!
「失礼します」
「あっ、待って」
 ましろが止めるのもきかず、くるりと踵を返して、綾瀬は足早に後白河邸をあとにした。
 冗談じゃない。なんで、ましろが高城を──。令はどうしたんだ? よりによって、なんで、高城なんだ?
 綾瀬は、力任せに音も高らかに車のドアを閉め、急発進した。
「あらあら。あれじゃ、すぐに車がこわれちゃうわ。やっぱり、あの年頃の男の子は乱暴ね」
 後白河夫人はドアの向こうに視線を向けて、さして驚いた様子もなく言った。そして、しゅんとしているましろの髪をそっと優しく撫でた。
「困ったお兄さんね。せっかく、あの子の好きなケーキの用意をしていたのに」
「……お母さま、知ってたの?」
 驚いたましろが義母を見上げる。
「もともとが女顔だから、ちょっと男っぽい顔立ちになってみたかったのねぇ」
 綾瀬の女顔の原型となった後白河雪乃はくすくす笑ってから、すぐに心配そうな表情になった。
「でも……あやちゃんにしては、なんだか様子がおかしかったわね」
 ──照れるというより、荒れているような。
 そんな義母を、不安げにましろが見上げた。気づいて、彼女はふふっと微笑んだ。
「大丈夫よ。あやちゃんはしっかり者ですもの。さ、奥でお茶でも飲みながら、照れ屋のマネージャーさんのお話でもしましょう」

 同じ頃、高城とましろの抜けた打ち上げパーティはルナティック・ゴールドと海棠の御曹司のカラオケ独壇場と化していた。お馴染みのヒットソングをルナは次々とノンストップで歌い上げる。ルナのスタミナにさしもの青野もついてゆけず、とうとう音をあげた。
「もォ……はーっ、はーっ……おめぇひとりで歌ってろってんだ」
 ぜーぜーと、青野は肩で息をしている。
「いやぁ、海棠さん、頑張ってましたねー」
 スタッフのひとりがビールを差し出しながら声をかける。
「あー? だってよ、あんたら、全然歌わねーんだもん。オレが歌うっきゃないだろーが」
 それを聞いたスタッフは、みな脱力した。
 ふつう、あのルナと一緒じゃ平気で歌えないよな。
 誰もが共通した意見がこれだった。そのうえ、あの〈海棠〉の御曹司相手に誰も面と向かって言えずにいたが、青野の歌はちょっと個性的だった。下手、というわけではない。音程やリズム感はしっかりしている。ルックスも、あの鬼ひげがついスカウトしてしまうほど、男っぽいハンサムである。ただ、哀しいかな、青野の場合、なにを歌おうとこぶしがコロコロ回り、おまけに派手なビブラートまでついてしまうのだ。本人はロック系の曲を好んで歌うが、それが妙な演歌にしか聴こえない。彼らは青野が歌っているあいだ、ずっと笑いをこらえていたのである。
「凄いな、ルナ。ノリノリじゃんか」
「ステージのあとだぜ? あの声量がよく保つよ」
「恋人でもできたんじゃねーの?」
「にしても、海棠の坊ちゃんて……見場は悪くないんだけどなァ……ぷぷぷっ」
 青野たちとは違うテーブルで、バンドのメンバーたちが囁きあう。その、貸し切りのはずの店内に、ふらり、と長身の男が入ってきた。
「おい……あれ、誰だ?」
「さァ?」
 シルクのシャツにゆったりとしたパンツを身にまとった黒ひと色の男は、音楽に乗るようにしなやかな足取りでルナのほうへ歩いてゆく。
「やけに格好いいな。モデルかね」
 髪の両サイドに紫色のメッシュを入れた男に、令と青野が気づいて手を振った。
「あれ、透じゃねーか。よく、ここがわかったな」
「透ーっ! こっちこっち」
 無邪気にぶんぶんと手を振る令の姿を見て、透は微笑んだ。
「今夜はいい出来だったな」
 声をかけながら、黄色の薔薇を一輪、令の白いジャケットの胸に差し入れた。
「へっ? コンサートのこと?」
「今夜、それ以外になにかあるのか?」
 実は令には今夜ゴキゲンになる原因の"いい出来"がもうひとつあったのだが、それは透にも言えなかった。
「でっ、でもさ、透。せっかくチケット回したのに、会場に来てくれなかったじゃないか」
 令がつい拗ねるように言った。
「君の歌は、少しくらい離れていても、わたしにはよく聴こえるんだよ」
「……ふうん?」
 予約していた曲のイントロがはじまる。ルナのオリジナルだ。スタッフたちから歓声があがる。
「邪魔をしたようだな。わたしは下で聴いて……」
 透にみなまで言わせず、令はその腕をぐっと取ってカラオケ用の小さな舞台にあげた。
「透ーっ、一緒に歌おうよォ。オレ、こーんなにノリノリなのに、もうだーれも一緒に歌ってくれないんだぜ」
 令は舞台の下で、雁首並べて観客になりきっているバンドやスタッフの面々を指さして言った。
「そりゃ、当たり前だろーっ」
 彼らが一斉に抗議の声をあげる。
「イジワルーっ」
「オレは一緒に歌ってやったじゃねーか」
 不服そうに青野が叫んだ。
「でもーっ、青野のは演歌じゃんかーっ」
 そう返しながら、令は透の腕をしっかり掴んで離そうとしない。透は無言で微笑みながら、令からマイクを受け取った。

 今夜、わたしがしたことを君が知ったら──。

 リズミカルなイントロダクションのなか、透の脳裏を複雑な想いが掠めた。瞳のなかで、黄金色の光が踊りはじめる。

 ──君はわたしを許さないだろうな。

 透はルナの動きにあわせて、影のようにステップを踏む。ほんの少しだけ、動きを遅らせて。それが危うく、絶妙な間だった。
 バンドのメンバーがひゅっと口笛を吹いた。
 光と影のようなダンスのあと、ふたりは歌いはじめた。
 ルナの主旋律を透の対旋律が追い、絡め取り、調和する。声にあわせて、黄金と紫のオーラが絡まりあい、螺旋を描く。
 ただ、透ははじめて令と演奏したあの日──ホテルでの二の舞にならないよう、オーラを抑えていた。ゴキゲンの令はひたすら突っ走るばかりである。
 本当は、わたしも抑えたくないのだけれど。右眼の封印を破ってしまったからには、そうもいかない。
 あの日には、戻れない。

 ──令くん。今夜、わたしはふたりの人間にほんの少しだけ、接触した。赤津遊人と後白河綾瀬に。
 ふたりは妙な感じを受けた。それだけのことだ。だが、ただそれだけで、人は勝手に踊りはじめる。後白河は君の行方と自分自身に不審を抱き、そして、赤津遊人は──。
 それ以上、なにかしたなら、君や後白河にはわかったしまうだろうからね。わたしはきっかけを与えただけだよ、令くん。
 これが、力の使い方だ。
 透は令を見つめた。束の間、視線が絡み合う。令が透に向かって悪戯っぽくウィンクした。

 君は知らない。この力の使い方をなにも。
 それでも、君は、きっと、
 わたしを許さないだろう。

 透は踊った。傍らに黄金色のオーラを感じながら。

 ──でもね、令。
 わたしを踊らせているのは、
 なにも気づかない、君なんだ……。

 黄金と紫のオーラが踊るように舞い上がり、螺旋を描く。店内の小さな魔霊が声なき悲鳴をあげて散華した。 

 


第5話 End
To be continued

2005.7.11 rewrited

Written by Mai. Shizaka


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