薔薇のかたみ

LUNATIC GOLD 番外編4


 もとより、滅びゆく者なのだ──透はほろほろと思った。
 ふと──寂しさをおぼえた黄金色の神が、みずからの似姿を傍らにおきたくなった。その想いが現し世にかたちをなしたる者、それが紫の炎をもつ者のはじまりである。
 右眼がもたらした記憶は透にそう告げた。
 神の想いがおのずからかたちをなした紫の炎は、黄金色の神に似た無性体であった。神は全能であるがゆえに深く思い煩う性質はなく、紫の炎が子孫を為すことなど、はなから念頭になかった。紫の炎がつねに傍らにある──神にはそれだけで事足りた。
 時はめぐり、ヒトが生まれて、神は傍近く仕えるヒトに白き炎を与えた。白き炎のヒトは言の葉を編みあげ、あらゆるものに名をつけて、万の魂は個のうちに封じられた。
 いにしえの、神と紫の炎の世界に言の葉はなかった──ふたりは魂が奏でる炎の調べで情を交わし、世界を感じた。


 透はほろほろと奏でていたピアノの指をとめて、立ち上がった。
 無造作にテーブルに捨て置いたものが目に入る。
 先刻、およそ絵画を愛するとは思えぬ下卑た笑みをはりつかせた青年画商が透への贈り物として置いていったものだ。 強者に対する追従ばかりの、野心家の画商。この油彩画を見つけたときには心のうちで快哉の声をあげたに違いない。なぜなら、そこに描かれていたのは透の亡き母、薔子──透を産んですぐに亡くなった母──の微笑であった。そして、署名は茨木薔次郎──薔薇ばかりを好んで描くことで知られる夭折の画家──の号である。

 愚かな。愚かな画商。わたしにこれを贈るとは。
 透は絵画を抱えて自室を去った。

 外は雨。
 雨の匂い。鈍色の空。
 ぽつぽつと窓を弾く雨音。
 雨に打たれ花弁を散らす庭園の薔薇。
 あの男の記憶の襞に垣間見た白薔薇の似合う女。
 絵具と煙草と葡萄酒の匂い。銀のバングル。
 コルベットの心地よいエンジンの音。
 ハンドルに刻まれた白い腕の記憶。
 窓の外は──白薔薇を散らす雨。

 鈍色の空と飛沫をあげるアスファルトの境界さえ定まらぬ、驟雨。
 あの、境界の向こうへ行けるのなら。

 海岸線の埠頭近くで透はコルベットを停め、雨中にさ迷い出た。黒ひと色の透の長身が雨に滲む。瞬く間に髪はしとどに濡れ、重たくなった髪を潮の匂いの混じった海風が容赦なく弄ぶ。波の鼓動に悲鳴のような風の声が重なる。
 埠頭から見下ろすのは、白い波頭が泡立つ黒い海。
 黒川の名に相応しい葬送だと、透はうすい笑みをうかべた。

 足許にまで波が打ち寄せる埠頭の先で、透は母の肖像を風吹きすさぶ黒い海へと落とした。

 埠頭のコンクリートに砕ける波頭。
 ああ、母が呑まれる──思った、その時。
 ふわりと浮かび上がって、母の微笑は人の手に落ちた。
「だめだよ、透」
 鈍色の空。降りしきる嘆きの雨。白い波頭と黒い海。
 モノトーンの景色のなかに浮かぶ、ただひとつの鮮やかな色彩。
「……令」

 なぜ、こんな時にかぎって、君はあらわれるのだろう。
 透は恨めしく思った。きっと、いまの自分は酷く無様な貌をしているに違いない。
「透」
 名を呼ばれたが振り返ることはしない。
「透」
「……いらないんだ、そんなものは」
 そう呟くと、背中からふわりと抱きしめられた。あたたかな黄金色の炎に包み込まれる。それで、透は自分の身体がすっかり冷えきっていたのに気づいた。
「くだらない、美など解さぬ男の贈り物だ。……そもそも油彩は好かないんだ。油彩は一筆ごとに画家の想いを塗りこめる、封じの呪法だ。誰かの想いなど飾ってなんになる?」
 白薔薇に囲まれた母の微笑など。
 母の顔容など、茨木薔次郎の想いなど。
「……わたしは知らない」
 埠頭に打ち寄せる波の音。
 海辺特有の吹きあげる風。

 いつのまにか、令は耳許で詞のない歌を囁くようにうたっていた。 いにしえの、神の祝福──癒しの呪歌。呼応して、透の紫の炎が舞いあがる。
「酷い呪いだ」
 透は低く呟いた。
 否応なしに惹かれる。惹かれてしまう、神と同じ炎に。透の心を置き去りにして、紫の炎は歓喜の舞をおどる。心が引き裂かれる。
「やめてくれ……令くん」
 透の言葉で、令の歌が途切れた。
「透……?」
 不思議そうな令の声が耳をくすぐる。
 ああ、君はなにも知らない。自分が真に何者であるか、知ろうとしない。その無垢が愛しく、そして憎い。

「透のお父さんが描いた絵なんだろう?」
 波と雨と風に混じって、令の澄んだ声が聴こえる。
「彼を父と呼んだことなどない」
 茨木薔次郎──絵具と煙草と葡萄酒の匂いのする男。
 母が亡くなってすぐに黒川を出奔し、黒川の名を捨てた、逃亡者。


 時は初夏の夕暮れ。
「透か。おまえの声で、薔子は子を孕んでいるのを知ったんだ」
 黒川の薔薇の園にふらりと現れて、彼は十歳になったばかりの透にそう声をかけた。
 はじめて見た茨木薔次郎──黒川崇。彼と透は年齢こそ違えど、気味の悪いほど生き写しだった。夕闇に低く響く声が独白のようにつづける。
「三ヶ月でおまえは薔子を呼んだんだ、腹の中から。『お母さん』と」
 逢魔が時のゆらゆらと定まらぬ視界のなかで、すらりと丈高い男の影が透をじっと見つめている。
「やはりな、あれを植えつけられたか」
 黒ひと色の男の長い腕が伸びて、透の閉ざされた右眼に触れた。男の手首のバングル──銀の腕環が封印に反応して、男の指先を傷つけた。赤い血が滴り落ちる。
「黄神のすべてがわたしを拒む」
 茨木薔次郎の昏い想いが、否応なく透の意識に流れ込んでくる。想いを締め出すには、ふたりの血は近すぎた。燠火のように燻りつづける憎しみと僅かな憐憫。透の存在が彼の黄神としてのすべてを奪った。白の姫と呼ばれた妻も、黒川の嫡子としての彼の居場所も。彼には画家としての才はあったが、〈黒〉の宗家としては凡庸だった。だが、最愛の妻の命を喰らって生まれた息子は、黒川の昏い血の結晶ともいうべき化け物だった。
 右眼の封印がずきりと痛む。
「なにをしに来たのです、あなたは」
「おまえに贈り物をしに来たのだよ」
 落日に、彼の左手首のバングルが煌めく。〈黒〉の呪具。宗家の血の証。
「いらない。あなたのものなど、なにも」
 呪縛は右眼だけで充分なのだ。わたしが欲しいのは、欲しかったのは……黒川の名でも、魔性の眼でもなく。
 茨木薔次郎は嗤った。
「かまわんよ。おまえはついでだ。わたしは薔薇たちに逢いに来たのだから」
 夕陽に染まる薔薇の庭園は虚ろに赤い。それが、茨木薔次郎の意識を通して透が見た風景だった。妻を亡くした夜、白い薔薇を散らしつづける男の影が、透の脳裏をよぎる。なぜ、おまえたちだけが咲いているのかと狂い叫ぶ、夜。
 透は薔薇の庭園で嗤いつづける男を置いて、自室へ去った。
 数日後、茨木薔次郎の訃報が届いた。自死であったという。


「いらない。それをわたしに贈るはずだった男はもういない」
 あの日、バングルをはめていないほうの腕に彼は包みを抱えていた。見えていたのに、気づかずにいた彼の贈り物──透へと裏書きされた母の肖像。彼の、あの男の想いなど──いまさら受け取ってどうなるというのだろう。
「なら、透がもらわないで、お母さんにあげればいい」
 気づくと令が透の目の前で微笑んでいた。
「墓前に絵など飾ってどうする」
 透は令の視線を受けとめきれず、逸らした。
「違うよ。透の車、お母さんのだろう? ね、座席に飾ってあげたら?」
 透は令の顔を呆然と見つめた。
 母の形見に乗り続けていることだけでも相当気恥ずかしいのだ。その車に、あの男が描いた母の肖像画を飾れと、こともなげに令は言う。コルベットが母の形見だと令が知っていることについては、敢えてなにも言うまい。黄神令がなにを知っていても不思議はないのだから。
 なにより、先程までの陰鬱な気分が令のひとことで霧散してしまった。透は苦笑してため息を零した。
「まったく……君にはかなわないな」

 外は雨。
 雨の匂い。鈍色の空。
 ぽつぽつと窓を弾く雨音。
 雨に打たれ鮮やかに萌える新緑の木々。
 あの男の記憶の襞に垣間見た白薔薇の似合う女。
 絵具と煙草と葡萄酒の匂い。銀のバングル。
 コルベットの心地よいエンジンの音。
 ハンドルに刻まれた白い腕の記憶。
 窓の外は、大地を潤す恵みの雨。

 家路へ向かうコルベットの助手席で、令はふだんの姿にもどって寝息を立てている。
 母の肖像は後部座席にあえて伏せた。
 我知らず、透はうすい笑みを浮かべる。

 信号待ちの交差点で──透は令の唇にくちづけを落とした。
 すべては令、君の心のままに。  
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