夢想中毒

 最後に天使と会った時、わたしは老いた者の姿をしていた。
 高層ビルの谷間にひっそりと息づいた公園の、古びたベンチに腰掛けて、光化学スモッグに煙る白っぽい空を眺めていた。蒼い空はここには要らない──そう天使に告げたのはいつのことだったろう。鮮やかな色彩は滅びゆく者の微睡みに似つかわしくないと。
 老いた者らしく、目に映る輪郭はぼんやりとしていたが、木々が黄色く色づいているのを見ると季節は秋なのだろう。それにしては、頬に触れる外気がぬるく感じられるのは天使の演出なのかもしれない。
 ふと、隣に目を移すと、これまでと同じようになんの前触れもなく、天使の姿があった。
「現れたのだね」
「いつも傍らにいます。あなたが気づかないだけで」
 そう、天使は遍在する。それは同時にどこにも存在しないのと同義だ。天使を黙殺する──そうすることで、ずっと天使を殺し続けてきたのだ。
「どうぞ」
 天使は言って、湯気の立つ白いティーカップを差し出した。
「おやおや、君にしては唐突な演出だな」
 わたしは微笑って甘い香りが淡くたちこめるカップに口をつけた。足許で落ち葉が乾いた音を立てる。
「後悔しておいでではないのですか」
 天使は哀しげな貌をして、自らの若木のようにほっそりとした肢体を抱きしめた。じっと堪えるように。仄かに蒼みを帯びた滑らかな白い肌、鮮やかな緑色の瞳。その瞳をじっと見つめて、わたしは言った。
「あちらの世界を見せてくれないか」
 それが、答えだった。
 ジェンダーを持たない天使のしなやかな腕が、枯木のように痩せさらばえたわたしの躯をふわりと抱きしめる。ひんやりとした涼やかな感触。目蓋を閉じると、哀しいほど、よい匂いがした。天使が見せるヴィジョンは、果てることなき草原と遙か遠くに深い森。動物たちは草を食み、鳥たちは囀る。時に戦い、時に愛を交わし。聴こえるのはただ生き物たちの声と吹く風のみの、言葉も音楽もない世界。
 人々は遠くの森の木々の根元に眠っている。
 目覚めることのない永遠の微睡み。緑の瞳の天使がつくる夢を見ながら、ゆるやかに滅びてゆくのだ。緑色の静謐な世界に人は要らない。
  わたしが創造した生体コンピュータは、はじめから植物と接続することだけを想定していた。植物の根のネットワークを介して、彼らは進化する。彼らの根に採りこまれた人の躯は急激な進化のための糧となり、やがてその役目を終える。
 新しい世界に人は要らない。
 わたしは目を開けて、もう一度だけ天使の貌を眺めた。あの人によく似た面差し。天使が見せる夢は美しくも残酷だ。わたしの望みを違えることなく具象化する。
「逢いたいかたはいらっしゃいませんか」
 天使の問いかけに、小さくかぶりを振った。
 あれらはわたしの静謐で透明な夢が狂っていると耳障りな声で叫ぶだけだ──人が世界の穢れだとも識らずして。
「刻がきました」
 最後の喇叭の代わりにそう告げて、天使はぽろぽろと涙を零した。それさえもわたしの望みなのかと思うと辛くなった。
 瞬く間に高層ビルや公園の木々が次第に色を失い、うっすらと霞んでゆく。すぐ目の前にある皺を刻んだわたしの手さえも。崩れ落ちる砂のさらさらという音が聴こえるような気がした。
 天使がスローモーションのように立ち上がり、優雅な挙措でお辞儀をした。
 そして──ひとつの夢がゆるやかに終息する。
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