射干玉の鎧

ぬばたまのよろい
 東の国のとある山中に名を秘された古き社があった。
 神代の昔、天津神に封土を逐われ怨霊となり果てた国津神を祀りし社なり、と縁起は伝えている。
 ある時、この古き社の御神体が何者かに盗まれた。
 社の神官は父を病で喪い、代替わりをすませたばかりの青年であった。うら若き神官は盗まれた御神体を捜して旅に出た。御神体なき社など虚ろな器でしかなかったゆえ。人々の噂で、御神体を盗みしは鹿角(かづぬ )と呼ばれる夜盗の首領であることが知れた。
 二年の月日が流れ、神官は漸く誰そ彼の色濃き山道で、鹿角その人とあいまみえた。

 鹿角は奇怪な鎧をつけていた。
 ぬらぬらと黒光りする般若の如き面覆いのついた鎧である。
「鹿角殿、わが社に祀りし御神体を返してもらいに参りました」
 神官の白き衣は破れ、うら若き貌も泥に汚れてはいたが、その声は磨き上げられた鏡の如く澄んだ色をしていた。
「御神体というは、この鎧のことであろう」
 対する鹿角の声は、びょうびょうと吹き荒ぶ木枯らしの如く寒々しき色であった。
「この鎧は呪われしもの。俺には外すことが叶わぬのだ。神官殿が外す手だてを知っておるならば、今すぐにでも返しましょうぞ」
 鎧が鹿角の総身を隙間なく覆っているゆえ、神官にはその貌を見ることは出来ぬ 。されど怖ろしき面覆いの向こうで夜盗は啜り泣いているようであった。
「それには先ず、御身がその鎧を如何にして手に入れたのか知らねばなりませぬ」
 神官がそう答えたので鹿角は話しはじめた。


 鹿角は貧しい百姓の五男であった。
 されど、百姓仕事は鹿角にとって苦痛でしかなかった。戦が起こり兵役に駆り出され、功為り名を揚げて武士となるのを唯一の望みとしていた。
 さりとて、待てど暮らせど戦は起こらず、鹿角は水呑百姓のままであった。
 鹿角が十八の齢を数えた頃、同じ村に住むやえという娘に懸想した。しばらくやえの家のあたりを彷徨いたりもしていたが、もとより娘は器量 よしで知られていたゆえ、村の中でも殊に貧しい五男坊の鹿角のもとへなど嫁ぐわけもなかった。
 やがて、やえに庄屋の息子との縁談話が持ち上がり、落胆した鹿角は郷里を出奔した。
 百姓の出奔は許されておらず、鹿角は無宿者となり、やがて夜盗の仲間に加わり近隣の村々を荒らすお尋ね者になった。
 夜盗の暮らしは気儘にして放逸であり、鹿角もそれを愉しんだが、すぐに飽いた。生娘を陵辱し村に火を放とうとも、夜盗の首領を闇討ちしその座を奪いとろうとも、いかほどの昂ぶりも覚えぬ ようになった。
 その頃、領主がようよう重い腰をあげ、鹿角一党の討伐の命を下した。討伐隊は鹿角一党を一網打尽にしたが、ただ一人、首領の鹿角のみは逃げおおせた。

 夜盗の首領は腹に深手を負って、うら寂しい山中の社に潜んだ。
 夥しい血が流れ、氷のごとき寒気が鹿角の躰に忍び寄ってきた。さしもの鹿角も最早これまでと薄れゆく意識の裡に観念した。
 と、その時、鹿角の意識に呼びかける声があった。
 ──鹿角よ、鹿角。
「誰だ、俺の名を呼ぶのは」
 鹿角は最早声を出す気力さえ失せていたゆえ、心の中でのみ答えた。
 ──儂よ、射干玉(ぬばたま)の鎧よ。
 射干玉の鎧と名乗ったその声の主には、声に出さずとも鹿角の心の声が聞こえるらしい。死に逝く前の夢と、夜盗は興を覚えた。
「鎧か、鎧などがなにゆえ俺に話しかける」
 鎧は吠えるがごとく呵々と嗤った。
 ──そなた、そのまま死ぬる気か。
「それよりほかあるまい」
 ──誰よりも強くなる夢は如何した。
 それは鹿角が遠き童子の頃の夢である。
「所詮、百姓の倅には叶わぬ夢だ」
 ──嘗ての儂は猛き神の身をも包んだ神器であった。この儂ならば、そなたの望みを叶えてやれるやも知れぬぞ。
 最早、鹿角には夢も望みも涸れ果てていた。鎧の言葉に胸躍ることもない。
 されど、このまま死ぬのは業腹だという想いは常に、この男の澱んだ諦念の底に燠火の如く燻っていた。それゆえ鎧に答えて言った。
「それが出来るものならば叶えてみろ」
 ──されば、心の中で唱えよ。我こそは射干玉の鎧の主なり、と。
 鹿角は言われるがままに唱えた。
「我こそは射干玉の鎧の主なり」
 凄まじき光が雷鳴の如く鹿角の意識に轟いた。

 気づいた時、鹿角の総身は黒く光る奇怪な鎧に覆い尽くされていた。
 傷の痛みは失せていた。痛みのない冴えた意識で鹿角は鎧に欺かれたことを識った。
 ぬらぬらと光る鎧は隙間なく鹿角の躰を覆っており、継ぎ目は何処にも見あたらぬ 。兜や小手を外してみようと試みたがびくとも動かぬ。
 鹿角は射干玉の鎧に封じ込められてしまったのである。呪われた鎧の中で鹿角は身を捩り、歯軋りし、怒号を上げた。
 そうこうするうちに、鹿角討伐の兵が彼を見つけた。怪しき鎧の男を見て、兵達は次々に鹿角に撃ちかかったが、太刀ではこの奇怪な鎧を貫くことは出来ぬ のが分かったのみであった。鹿角は雑兵の太刀を奪い、凄まじき勢いで兵達を屠った。疲れは知らず、かえって兵ひとりを屠るごとに力が漲ってゆくようであった。
 数多の兵の命を奪った頃には、みしみしと音をたてて鎧の姿が変化した。悪行の限りを尽くした夜盗の鹿角さえ総毛立った。射干玉の鎧は人の命を糧にして生きているのだと気づいたゆえ。
 鹿角は逃げた。この奇怪な姿では山中の夜盗に紛れることも出来ぬ。逃げるうちに耐え難いほどの喉の乾きを覚えた。川辺に下りて水を飲もうとしたが、面 覆いの口の部分にさえ穴はない。鹿角は喉の辺りを鎧の上から掻きむしったがどうにもならぬ 。兜ごと頭を水につけてみることさえした。何処からか、水が沁みいるのではないかと一縷の望みを持って。
 その時、背後で声がした。
「鹿角様」
 懐かしい声であった。鹿角は振り返り声の主を見た。
 それは、やえであった。少しばかり、とうが立ってはいたものの鹿角が見違えるはずもない。やえは怯えていたが変わらず美しかった。
「鹿角様ではありませぬか」
 ふたたび、やえが問うた。
「そのような名は知らぬ」
 鹿角は答えた。斯くまで堕ちた身を己と知られたくなかったのである。
「されど、その声は」
 やえの美しく白き貌を見ているうちに鹿角は気づいた。今覚えている乾きを癒す術を。されど、それだけはしたくなかった。それゆえ、川に飛び込んだ。やえの叫ぶ声がすぐに遠ざかり、鹿角はひさかたぶりに心安らいだ。
 鹿角は川を流されてゆきながら目を閉じた。轟々と唸る滝壺の音を聴いて、心の底より終われることを望んだ。


「されど、鎧は死ぬることを赦してはくれなかった。気づいた時には俺は川辺に打ち上げられていた。以来、この身は鎧の奴隷であった。呪われし鎧が心の赴くままに人を斬り獣を屠り、鎧は力を得、姿を変えてゆくのだ。いっそう怖ろしくおぞましき姿に」
 今や鹿角は天を衝く黒き塊であった。手足にのたうつ毒蛇を巻きつかせ、腹の辺りにも二つ目の鬼面 の生えた──異形と化していた。
「その成り行きでは、最早その鎧を外すことは出来ませぬ」
 神官は哀しげな貌で告げた。
「その姿は、鹿角殿、あなたの望んだもの。あなたは世を拗ね、すべてを諦めて仕舞われた。諦め、ただ闇に身を委ねることを選んだのは外ならぬ あなた自身。望まぬものを手にすることは叶いませぬ。救いを望んでおらぬ者を助けることは誰にも出来ませぬ」
 それを聞いた鹿角は面覆いの裡で声をあげて哭いた。面覆いの般若は嗤ったままであったが。そうして哭き声が啜り泣きに変じた頃、鹿角は神官に向かい、びょうびょうと木枯らしの吹くがごとき寒々しい声で言った。
「赦せ、神官殿。俺は……喉が乾いておるのだ」
 そう言うやいなや、腹の鬼面の口がくわっとひらき今にも神官を呑み込まんとした。
 と、その時、神官は懐から御札と何か小さなものを鬼面のぽっかり空いた闇の顎に向かって投げ入れた。鹿角の動きがぴたりと止まった。
「これは、どうしたことか」
 鹿角は身じろぎも出来ぬまま弱々しく呻いた。
「これでおそらく、あなたは死ぬることが出来ましょう、鹿角様」
 若き神官は鹿角の面覆いをじっと見つめて、はらはらと涙を流していた。青年が袖で涙を拭うと、泥で汚れていた美しい貌が露わになった。
「おまえは──やえか」
 鹿角の声はふるえていた。
「はい。旅の神官様にあなたのことを伺い、装(なり)を変え、ここまで連れてきていただきました」
 やえは哀しげに鹿角を仰いで唇をふるわせた。
「童子の頃よりずっと鹿角様をお慕い申し上げておりました。わたくしは未だどなたにも嫁いではおりませぬ 。あの時、鹿角様がわたくしにお心を告げて下さっていたならば、すべては変わっておりましたでしょうに」
 鹿角は慟哭した。身じろぎも出来ぬまま。
 諦めしか抱いておらなかった己を悔い、過去の罪業のすべてを悔いた。
 鹿角の哭く声は一年あまりも続き、天を衝くその姿はだんだんと小さく縮んでいった。山道を行く旅人は、はじめは奇怪な鎧の化生を怖れていたものの、これが動けず害を為せぬ のを知ると、太刀で傷つけんと試みる者さえあったが、すべて徒労に終わった。
 鎧が人の子の大きさにまで縮んだ頃、鹿角の哭く声が止み、鎧の黒き面からはぬ らぬらとした異様な光が消え失せた。
 斯くして異形の夜盗は黄泉路へと旅立ち、呪われし鎧は鎮まったかに思われた。

 とある月の美しき夕べ、小さき声をあげて鎧に亀裂が入った。その隙間から一本の淡きみどりの蔓草がゆらゆらとのびた。日を重ね夜を重ねて、たよりなき蔓草はしだいに瓜に似た葉を繁らせるようになった。
 蔓草に悪戯をせんと試みる者もあったが、山道の近くの庵に住まう、神官の姿をした美しい女が必死に止めるので、蔓草を傷つけるには至らなかった。この女は鎧の化生を退治した力ある巫女であり、気がふれているとも言われていた。
 そうして、鎧から伸びた蔓草は唯ひとつの大きな蕾をつけ、大輪の朝顔に似た白い花を咲かせ、やがて萎んだ。後には小さな実が残された。
 実が真桑瓜ほどの大きさになった頃、巫女は実をもいで大切そうに胸元へ仕舞った。
 庵にて共に暮らしていた若き神官が鎧を担ぎ、巫女を伴い郷里の社に戻ってからは、山道近くの村々は昔通 りの静かな土地に還ったという。その後、鎧にまつわる異変はなかった。

 東の国の名を秘された古き社の境内には、枯れることなき瓜の木があるという。その木は年ごと、真桑瓜によく似た甘い実をたわわにつけ、社に参る人々の舌を楽しませたと今に伝える。
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