父方のルーツ探し

1.   はじめに

私の、ルーツ探しは、今から10数年前のある日、後に述べる当時77歳になっていた従兄弟が我が家を訪ね来て、“今先祖捜しをしているが、年をとったので、後は政敏さんにお願いしたい。”と言われ、いろいろな話をされて帰られた。当時私も定年後で時間的に余裕もあり、且つ、社会保険労務士と行政書士の事務所を経営していた関係から、戸籍謄本等の資料収集はプロ、簡単に引き受けてしまった。

 一念発起、先祖捜しの本「家系図を作って先祖を1000年たどる技術(丸山学著)」等の先祖捜しのノウハウ本を購入、それに基づき調査を開始したのである。途中、古文書解読講座を数か所掛け持ちしながらの先祖捜しも終局を迎え自分的には、焼失した家系図を復元できたものと独断し纏めた。

以下、先祖捜し中の方々の一助になればと思い、調査概要を時系列にHPに順次アップすることにしたのでご笑覧いただければ幸いであります。

2.焼失した家系図

佐藤家の家系図は、昭和10521日に焼失した。翌日の大分新聞に次のような記事が載っている。(国立国会図書館マイクロフィルムより)

“見出しが「丹生村の火事 火根に疑い」、内容は、二十一日午前一時頃、北海部郡丹生村大字市木農佐藤定雄氏方裏側より発火同家を焼失二時半鎮火したが隣家の佐藤武男氏が起き出た時は、厠より発火し、本屋に延焼したものと云い火根に疑いあり、鶴崎署より居塚刑事出張取調中である。”とある。

  系図がなければ、菩提寺には過去帳が有るのではと思い、大分市森町専想寺を尋ねた。結果は残念ながら、昭和18年の水害で流失し、過去帳もないと和尚さんのお言葉、先祖探しも、大きな壁に突き当たった。

その後、止む無く、佐藤家に伝わる先祖の言い伝えや残された資料を懸命に探した。電話作戦で本家の方々ほか、多くの方々のご支援を得て以下の通り、資料が集められたので先祖探しの概要を記して、子孫に残し、また新たな資料が見付れば修正されることを期待し、記録して残すことにした。

3.現地調査等で確認できた資料や言伝え等

(1) 先祖 (写真はこのHP左側「九州旅行」参照)

400年以前の一木初代佐藤家の祖であるが、墓碑名がしっかり判別できる。佐藤伊賀守長男佐藤左馬介、慶長十八癸丑年八月十五日六十八歳没、明光院玉山道秋禅定門」「佐藤左馬介の妻、元和二年丙辰年正月十六六十六歳没、妙清院長楽知海禅定尼とある。その他にも多数の先祖墓が並んでいた。墓碑銘のしっかりした墓や消えかかっている墓も多くあった。初代は、墓碑銘からすると、当時当地に有った一乗寺で葬儀が、行われたようだ。

(2)    佐藤家系図   

これは昭和10年の火災後、すぐに総本家の方が墓碑銘と記憶を基に書き残したもので、現在の墓地権者佐藤宗吾氏のご厚意でコピーさせて頂いた。
順序は、年代順ではないので一部のみアップする。

  

(3)    佐藤文書   

佐藤文書は、大正12年生まれで第二次世界大戦に従軍し、戦車隊見習士官で復員した従兄弟故佐藤昭夫氏が、先祖について長い間、調べていたものである。その全文を記すと、

「佐藤の家は、慶長年間、豊後の国丹生村一木郷に居を構えて代々庄屋として一木郷を治め、明治開花に至った苗字帯刀の家柄である。

祖は藤原鎌足であり、藤原不比等から別れ、美濃或いは伊賀の郷を領地とする小大名であったらしい。元来、藤原氏は、天皇直系ではなく、祖神を高天原時代の天児屋根命とされている。戦国時代、小城主の去就は、微妙なものであったろう。慶長五年(1600年)関が原の合戦に敗れ、豊後の国に隠棲してから、徳川幕府、江戸時代264年間、稲葉五万石領下の穀倉地帯に庄屋として存続した。先祖墓は、一木の丘にあり佐藤伊賀守忠正(父の言)が一子左馬介、慶長18年(1613年)没となっている。居所は、古文書にあるとおり、豊後の国稲葉藩一木村炭床である。 

その後、廃藩置県により大分県北海部郡丹生村となり、太平洋戦争前、三村合併して坂の市町に、更に、現在は大分市に併合編入された。

一木の丘には「歳の神」が祭祀され、樹齢200年に及ぶ夫婦松があった。  

この樹は何代か前の祖、五左衛門が植樹したため五左衛門松と名付けられ親しまれたが、別名「影の木」と称し、この松影が海面に映ると凪で、大漁となると言い伝えられ、三佐の猟師は、出漁の準備をしたと言う。この松も昭和初期に一本枯れ、永い間一本松であったが、昭和30年代になって、大分市の新産都市化が進み、県の買収もあり土地は,荒廃し折角の名木も枯れてしまった。

佐藤家300年にわたる年譜は詳かでない。古文書に多い五左衛門は、おそらく何代か襲名されたものと判断される。古文書の整理にあたり、我が家系の一部を記し残すものである。(原文のまま、昭和50年(1975年)8月)

 (4) 除籍謄本

 曽祖父佐藤清三郎(生年月日不詳天保初期?〜明治28年)(妻内田キソ天保6年〜大正4年、内田家系図には、市郎治長女佐藤清之丞ニ嫁入ス。とある。)からである。清三郎には、長男兼吉(戸籍名:兼治郎)(嘉永5年〜昭和11年)と弟小十郎(安政5年生〜明治40年)の兄弟がいた。小十郎が、私の祖父である。

(5) 旧土地台帳の取得

  清三郎と小十郎の名のある旧土地台帳を大分法務局から取得した結果、炭床周辺の清三郎の土地を相続したのは兼治郎で小十郎分についても、それに近い土地を有していたのが判明した。

(6) 言伝え

ア 父からの言い伝え 

父は、生前、若い時に家系図を見ており、藤原三代が先祖であると度々言っていた。

昭和25年、中尊寺で藤原三代の遺骨発掘調査が行われたときに、その調査状況写真が掲載されていた毎日グラフを父が購入して来て、これが佐藤の先祖だと私の姉弟妹に言い聞かせるように話してくれていたので良く覚えている。

イ 生前の従兄弟からの言い伝え

() 一万石の大名であった。

左馬介は、石田三成の贔屓侍として、豊後へ入ったものである。関ヶ原合戦に敗れ、臼杵藩主太田飛騨守が改易になったとき丹生郷に残置され、一木に居住した。美濃か伊賀から来たのだと思われるが、分からないということであった。

() 佐藤義清(西行法師)は、親類筋である。

() 庄屋関係の古文書が多くあったが終戦後、紙不足時代に落とし紙として使用したのを覚えている。今も襖の裏張りから見付り、約200ページなるものを頂いた。内容は、宗門人別帳と年貢割付帳であろう。

   

 上記の中、清之丞は曾祖父清三郎の事である。

 (7) その他の収集資料

   豊後では石垣原の戦いがあったが、先祖も参戦したのではないかと調べた。石垣原の合戦は、野津原の手永郷士が、大友家再興を願って興したものであり、総大将佐藤信隆のご子孫からその系図のコピーを頂いたが、大友家の家臣とあり、当方とは無関係であった。また、豊後の佐藤氏の系図は、東大史料編纂所にも残されておりコピーしたが、無関係であった。

(8)  次に、先祖が丹生の一木に住んでいるのは何故か?について、解決しなければならない。これを証明するに足る古文書として、大友義鑑から佐藤塩栗丸が、大永年間(1521から1527)に軍忠により丹生庄(現在の本家周辺)に領地を得たとある。詳細は、他の論考に譲るが ある武将の系図に大分県史料の大友家文書録の中にある大友義鑑から佐藤塩栗丸に宛てた知行状と同文の事暦がある。それは細川高国の家臣の佐藤義国だ。この佐藤氏は美作佐藤氏と言われ矢張り藤原秀郷を祖としている。この系図の詳細は、後述する。