6 本家筋

(1)  高知の荻田秀五郎氏が平成27320日親族の花稲荻田某家を訪れたとき、初代清右衛門、六代平六、七代幸治、八代佐市(嘉永三年没)とある位牌とともに、二代太郎右衛門、四代忠兵衛の板碑が仏壇内にあるのを発見した。これは、前5で触れた「平六筋」と思われる。
(2)平成28年お盆前になってから、嘉太郎のお墓に何か書かれているのを見つけ拓本を採った結果、嘉太郎は佐平長男とあったのである。佐平の父は、佐七郎、そしてその一代前が平六であることからこれにより、5(1)アの平六筋に繋がり、現在、花稲でお墓をお守りしている本家筋が明確となり、初代清右衛門まで繋がったのである。

   

 

元祖清右衛門の位牌裏書には、次のような事が書かれている。

于時寛文拾三癸丑十一月十一日

此先祖、寛文貳壬寅歳(1662)此処に住ス田畠興立者也

当屋敷開地也来世迄此ノ子孫伝香華可手向

元禄拾二己卯八月一三日 とある。

子孫はご先祖様の苦労を片時も忘れてはてはいけない。心すべしであろう。

このことは七代に与八と幸治の兄弟が居たことを物語っていることに私は注目している。また、これを継承しているお家は、本家と親戚であるが、どうしてそこに位牌が継承されているかは、不明でその解明が待たれる。

 (2) この筋目を核に一覧表を作り、色々な評価要素を加え時代的に並べ、かつ、5で掲げた推定系図を簡略化したのが、次の推定系図だ。

先に見た幸右衛門筋から幸右衛門に兄弟がいたことは確かだろう。過去帳には、源左衛門筋とあるので源左衛門も他の筋から分かれたと考えなければならない。それは平六筋にある平六の弟と仮定して推定を進める。

 (3) 初代清右衛門、5代・6代平六、7代幸治、8代佐市には位牌が残っている。2代太郎右衛門(清右衛門の弟)、3代忠兵衛は取り墓、4代忠兵衛は板碑、そして源左衛門、幸右衛門、源右衛門、善治、皆治には、取り墓がある。他筋のどこの筋にも取り墓がないので源左衛門は、平六の弟と推定した次第。これで源左衛門は、平六筋の4代目(後)忠兵衛の子として筋目ができることになった。

また、源左衛門の一代前を探す時、参考になるのが除籍謄本の番戸だ。今の本家筋が189番戸、高祖父の除籍謄本によれば隣地の188番戸に住んでいたことが分かっており、平六と源左衛門が兄弟であると仮定したことに異論はないのではないだろうか?これで花稲本家筋に接合できたと推定され、分家を繰り返しながら来たと愚考している。

7.新田姫?
(1) 観音寺市花稲の荻田家には、除籍謄本から確認できる筋目の最古のお方は、嘉太郎(明治六年没)でその子孫である三右衛門氏が、花稲にお住まいである。その荻田一族が、今も新田姫を祭神とする新田(太)神社及び朝日大明神を守護している。祭神新田姫の由緒書でもあればいいのだが、いくら調べてみても分からない。

言い伝えでは、長宗我部を逃れ、土佐から一条家(?)ゆかり新田姫を護り、落ち延びて来た近江付近の由来の武家が荻田氏であるとする説と荻田一族は、関ヶ原合戦後亡命し来住したとある説の2系があるのではないだろうか。

   もし、荻田一族が関ヶ原合戦後の慶長6年(1600)に越後から來住したとすれば、荻田家の先祖は、有名な荻田長繁の子孫であると思われるが、新田(太)姫を護衛して土佐から来た荻田家と関ヶ原合戦後、亡命し移住した荻田家とは別系統と考えた方が論理的だ。
最近になって言い伝えが、少し意味が違っていたようだと電話があった。これは後述する。

花稲村に新田姫を祭る新田神社と朝日大明神があり荻田一族が、大切に守護している。土佐から護衛してきた新田姫が御神体と言われているが、荻田家が來住した中林西は、当時は松林だったとあり、新田を開墾する必要から安全と祈願成就を祈って新田神社と朝日大明神を創造したのではないか?なお、新田神社は新太神社とも書かれている。

更に敷衍すれば、荻田一族の取り墓の地に、昔大楠があり大人六人で抱える程の大きなものと伝わっているが、開墾の妨げになったのであろう六人で切り倒したそうだ。その切り口から流血があり、其後六人は次々と死亡した。村人は、木に宿って居た神の祟りを畏れ、六人を哀れみ、その人達の霊を祀り、今に六基の五輪が、三代目の楠の下にあり楠さんと呼んでいる。(写真参照)この話しは、新田開発が犠牲者を出す程、困難を極めたのではないか? それは上述した楠さんのお話と清右衛門の位牌からも窺える。その開墾工事の安全を祈って、新田造りの守り神として想像上の朝日大明神・新田姫の祠を建て、無事に開墾が成就したのではと推理しているが信憑性は読者にお任せしたい。 

以下、続く。