8.与力?

(1) 母が言っていた徳治が与力であったというのは、私の聞き間違いで荻田家ではなく、市太郎の妻トミの父親安藤家のことではないかと思われる。

除籍謄本に「明治十二年八月二日愛媛県豊田郡花稲村安藤秀吉妹亡父安藤鴛造長女トミ入籍」とある。これは、寛永16年(1639)生駒家家臣分限帳に千石与力安藤蔵人とある侍が鴛造の筋目に当るのではないか?また、安藤蔵人と安藤左源太という安藤姓二人の侍が、生駒騒動の責任を負って切腹させられたことも三豊郡史にある。生駒騒動時に安藤姓の残りの三人は、松山藩を頼って落ち延びたか、他藩で浪人になったとある。

安藤鴛造の子寅太郎は、松山市大字三番町に住み、市太郎の三男菊一を安藤家の養子に迎えていることから、縁者と思われるので調べた。

(2) 松山史談会の「幕末松山藩御役録(安政5年)」によれば、御要人330石安藤九郎左衛門、その子節之進、奥平次郎太夫組五番七十俵安藤忠五郎、隠居安藤閑斎の名がある。与力と考えられるのは、安藤忠五郎が該当する。この筋目は、「松山藩役録」及び「松山藩歴俸略記」に、貞享2年(1685)安藤茂右衛門が生駒藩から備前藩に移り浪人した後、松山藩に50俵で留守居番に仕官し、松山初代となり、二代貞右衛門、三代茂左衛門、四代茂次郎、五代弁次郎、六代次郎とある。幕末に俸禄70俵の忠五郎が、禄高から安藤茂右衛門の一統ではと愚考しており、安藤忠五郎が時代的に鴛造であると推定され、与力であったということではないかと推察している。(詳細は、長文になるので割愛。)

(3) 俸禄米を「俵」表示で受ける武家を蔵米取りと言うが、多分初代は、越後騒動により伊予松山藩に配流されていた時代だろうか? 俸禄70俵の価値について、現在価格に換算すると、幾らになるか考えてみた。100石取りの武士では、四公六民の計算で手取り40石になる。1石は2.5俵で、1俵は56kgで計算すると70俵では28石となる。年間3920 kgである。現在の米価10kg­4000円とすると年収156.8万円となり、矢張り内職でもしなければいけなかったのだろう。

 (4) 除籍謄本に市太郎妻トミ大正7828日午後8時和田浜において死亡、翌日29日町役場へ届出とある。豊浜町誌によると大正7828日前後の豊浜町の状況は、次のように書かれている。

   ア  814日夕刻から翌朝にかけて高松市内で米騒動発生
     イ  15日夜も高松市内,栗林村・東浜村・鷺田村でも米騒動発生
     ウ 829日 暴風雨.県下の被害は死者23・不明3・傷者3・全壊家屋375戸・船破壊33・堤防決壊116か所
   エ 市太郎妻トミ大正7828日午後8時和田浜において死亡、お通夜は、暴風雨の中で大変だったのではないだろうか?

9    新たな除籍謄本入手 
  荻田秀五郎氏が、平成28年春お彼岸に帰省された折りに位牌継承者宅に寄って、予ねてお願いしていた除籍謄本を頂いて
  きたのがメールされて来た。
  それによると才市の長男品造が伯父と書かれていた先祖名があった。品造は、位牌継承者の伯父の筋に当たり、
  除籍最終者の祖父になるお方。他の史料と擦り合わせた結果、過去帳や位牌にある佐市と同一人物であることが判明した次第した。
  この結果、初代清右衛門から現在まで連綿と続き、当代は12代であることが分かった。
  また、この結果、佐市が善祐ではないかとも思われていたことが、別人と確認でき、我が方の母方先祖は、
  宗林寺説であるとの確信を深めた。 
10 最近になって、言伝えが若干違っていたのではと言うことが判明した。(平成30年7月修正))
  (1) 即ち、秀吉の四国征伐を恐れた長曾我部元親が合戦に備え讃岐・伊予等に土佐の兵力を分散させた。
  その時、「新田姫を護衛して荻田氏は花稲に来た。」というものである。これは以前の言い伝え、
  「長曾我部に追われて新田姫を護衛して花稲に来住」とは、時代的には数年前になり、且つ、
  もう一つの言伝え「関ヶ原敗戦後花稲に移住」との二つにも関連性があり、この言い伝えを信ずる方が信頼性がある。
  では、事前配備された城は、どこか? 興味が湧いて来た。調べてみると現在の大野原花稲周辺には、藤目城、高丸城、
  不二見城、獅子の鼻城の四城が該当する。秀吉の四国征伐時、合戦も落城していない不二見城に先祖は、
  関ヶ原合戦まで在城し、合戦に長曾我部軍に参陣したが、敗戦により大野原に移住してきたのではと愚考している。
  そのように仮定すれば、花稲初代清右衛門が寛文2年に花稲に来て開墾し現在があるのではないか?
     その他にも、花稲荻田氏は、糸魚川から来たとの言い伝えもあるが、荻田三代の菩提寺(糸魚川市の龍光寺)の荻田氏に
  繋がりそうな一次資料と推定できる古地図も見つかった。
 (2) 清右衛門の位牌には「此先祖、寛文貳壬寅歳此処に住ス田畠興立者也当屋敷開地也」と書かれており。寛文弐年に花稲の開墾地に入り屋敷を建て、田畑を興した。
  寛文弐年には、清右衛門は30歳前後の歳で没しているのではないかと妻の没年、弟太郎右衛門の没年及び子の忠兵衛の没年から推定できる。
   また、寛文弐年は、丸亀藩主京極高和の没した年でもあり、帰農したのではないか? 
 「三豊郡史によれば、正保元年(1644)には、唐井出その他、大小の用水路の新設・修築を開始した。各地より開田希望の者、雲の如くに集まり、殊に伊予方面から
  多くの人入り来たれり。現今大野原村に存する、福田・石川・尾藤・細川・守谷・野村・合田等の諸氏は皆この前後に移住せしものなり」とある。
  この時に近江からも町人、浪人が来ており、その名前も古文書に記載がある。正保弐年(1645)の「大野原新田開墾略図」によれば、花稲がまだ未開地の時代であった。
  清右衛門は10歳代の幼年であるから、まだこの時期には花稲に来ていないと思われる。荻田姓の何方かが関ヶ原合戦後に慶長六年(1606)に来住したのであろう。
  清右衛門は、京極高和家臣として万治元年(1658)に丸亀藩に臣従して来たと思われ、寛文弐年藩主が没したのを機会に郷士のまま開墾したのではないか? 
  当時は、開墾すればその田畑等は自分の領分になったからである。
     「西讃府志」によると、天保10年1839のデータが残されている。
  これによりますと
   (1) 花稲村  170戸 人口889人 米225石  田畝70町
   (2) 大野原村 1115戸 人口5711人 米436石  田畝311町 
   (3) 中姫村 265戸 人口1142人 米351石  田畝105町
   (4) 和田浜村 480戸  人口2301人 米155石 田畝51町

 と記載があります。「350年誌」のは寛永17年1640年の讃州惣村高467石とありますので、天保10年の讃州惣村高がわかりませんが、寛永17年に比べ200年後のコメの生産高は 、飛躍的に伸びているのが分かります。矢張り寛文2年1645頃の花稲村は、松林の多い村で有ったと想像できます。

(3) 清右衛門の父の名は? 調査中。どうやら越後の荻田長繁を先祖とする筋目が、朧気乍ら見えて来た。独断と偏見で近日中にアップできそうだ。

 11 最後に、現地調査でのご支援を頂いた花稲の荻田三右衛門氏、荻田庄右衛門氏並びに高知市にお住まいの荻田秀五郎氏には、大変お世話にな りました。
   皆様にはお会いしてお礼を申上げるべきところですが、このホームページ上をお借りして、御礼を申し上げる非礼をお許し下さい。

また、愛媛県官吏履歴・卒調帳等の史料をご提供頂きました行政書士丸山学氏、その他関係行政機関の文化財担当者等々の皆様の御蔭を持ちまして、荻田家推定系図相成りました。

本当に長い間、先祖捜しにご協力頂き有難うございました。今後とも宜しくお願い申上げ、「母方先祖捜し」を終わりと致します。

なお、修正すべき史料が新たに発見されれば、この推定系図は、変更されますことご承知置き下さい。「完」

平成28年4月吉日(平成30年8月吉日修正)