4.現地調査
(1) お墓の撮影時刻は、夕刻になっていた。お墓は、私が最初にお墓参りをした10年程前の時には、一番上に初代の佐藤左馬介のお墓が1基、中段にその子孫のお墓、更にその下3段めに下男夫妻や子供のお墓と階段状になっていたが、今回は此の階段状の場所が崩壊しつつあるということで、下段のお墓を1段目に移動させたそうで写真のようになっていた。
大半が、寄せ墓の状態であり墓碑銘の判読が困難であった。事前に書き残された墓碑銘が残っていたので確定できた。その他にも確認できる墓碑銘もあるので再度、天候時刻を見計らって確認が必要だ。
この伏墓は、菩提寺の専想寺や同地区のお寺にもあるそうだが、厳しい詮索を受けた時代にどのようにして隠れ生活していたのであろうか、先祖のしたたかな暮らし振りが想像できる。
(3) 郷土史家長田宰氏のご紹介により、江戸時代村の大庄屋琴谷家を訪問、貴重な系図を見せて頂くことができ、先祖の名前が無いか捜した。
ア この系図の中に天正14年島津家久との「鶴が城合戦」における佐藤美作守の奮闘振りが、次の様に記述されている。
「其後天正十四歳(1586)嶋津中務佐家久十一月二十六日ニ河津佐山ヲ超テ豊後国三重郷出陣下十二月五日戸次之内利光鶴ヶ城ヘ打合利光伊予守佐藤美作守ハ勢三百余騎掛合大勢合戦ス佐藤モ討ト死ス。
鶴ヶ城難儀極落城スヘキ由大友義統公加勢トシテ仙石権兵衛長曾我部土佐守子息三郎兵衛信定父信親ト一所ニ合戦ス土佐守討死ス。」
この佐藤美作守は、後日調査した結果、天文11年(1542)緒方荘目志野名内西白寺に奉納され、現在熊本県上益城郡山都町指定文化財として西光寺釈迦堂に残されている鰐口に佐藤美作守藤原朝臣家信と銘があり、当方の先祖とは無関係であるのが判明した。
丹生郷の佐藤家を探求する上に重要な古文書がある。大永三年(1523年)3月7日から大永七年(1527年)にかけて3度ほど佐藤塩栗(丸)へ新左衛門拘分を佐藤塩栗(丸)に預けるという大友義鑑からの「佐藤塩栗領地之書」という知行宛行状があることが判明した。
古文書は、次のとおりである。
○ 佐藤家の先祖と思われる佐藤塩栗宛の某知行預状
有家臣佐藤塩栗丸領地之書
□□□のと□□□ □□□あつけつかわし候、ちきや□□□
大永三未年の十一月十三日
さとうしおくりとの
佐藤塩栗領地之書
□□□おこうちしんさえもん、かゝへふ□□□つけつかわし候、ちきやう候へく候、
大永六年十一月十二日
さとうしおくり
○ 3回目の知行預状
佐藤塩栗領地之書
四十たうの事、あつけつかわし候、心へあ□□□候
□いゑい七年八月廿六日
さとうしおくりとのへ
の知行預状があるので、おこうちしんさえもん跡地を得たのが、現在の一木の土地ではなかろうか?(一木村となったのは、慶長11年(1606)久所村の一部を分離して村組として創設)
この佐藤塩栗丸が佐藤美作守ではないか? 大友家が改易されるまで、現在の本家のある地区の領主ではなかったのか? そして、改易後、我が先祖の佐藤左馬介が、太田飛騨守に臣従して臼杵藩に入り領地を得たものではないか? 疑問が湧いてくる。
イ この系図の他に、大庄屋宅には略系図がある。その4代目の妻に佐藤五左衛門娘とある。この五左衛門は、時代から推定すると初代左馬介のひ孫と思われる。当時の結婚の家格からも相当したのであろうか? 当家に残された古文書に五左衛門の名が、頻出することからも五左衛門を歴代名乗ったのであろう。