5.郷土史料等の収集

  先祖捜しの必読書である姓氏家系大辞典、寛政重修諸家譜、日本系譜総覧、姓氏類別大観、日本紋章学等等の他、参考とした主な史料として、次の書籍を国立国会図書館、大分県立図書館、臼杵市立図書館において通読しコピーした。
(1) 豊後国に関する史料:白水朗(あま)(坂ノ市地区郷土史愛好会著)、丹生村史、稲葉藩政史料(古史捷)、桜翁雑禄、大分県市史、臼杵市史、臼杵藩士禄(臼杵史談会)
(2) 美濃国に関する史料:美濃明細記、養老郡史、飛州志備考、富加町史、岐阜県史、美濃加茂市史、尾張郡書系図
(3) その他関係史料:田原族譜、信長公記、總見公武鑑、佐藤一族(佐藤清隆著)、その他は割

6.当初、佐藤家は、大友能直に臣従して豊後国入りし、大友家家臣で活躍したのではないかと仮定し、調査をした(詳細は割愛)が、矢張り確証が得られなかったので、言伝えを重視して美濃・伊賀を中心に美作・近畿・中部地方の佐藤姓の武将を調べた結果を纏めてみた。

一木村は、稲葉貞通公が臼杵藩主として移封されて以来、明治維新まで臼杵藩政下であった。

(1)     従兄弟が佐藤家は、美濃か伊賀から来たのでは?と言っていたことから

臼杵市立図書館の文化財専門員菊田徹氏にお願いし、送って頂いた臼杵藩帰参家の佐藤氏系図によれば、この佐藤家は、関ヶ原合戦後、臼杵藩主になった稲葉一鉄嫡男美濃国曽根城主稲葉貞道の家臣で佐藤出羽守秀昌(文禄の役で戦死)から昌則、昌成、尚成(延宝6年没)、置昌、置記、秀長、秀壽と9代続く藩士であり、わが先祖とは別家だ。佐藤出羽守秀昌は、戦国美濃国人名辞典稲葉家臣団に載っている武将だが、佐藤伊賀守忠正とは別人であり、この系図は別家であった。大分県地方史料叢書()「県治概略Ⅳ」によれば、ご子孫は臼杵市内のお住まいのようだ。

(2) 更に一万石の城主だったと言うことについて、美濃・伊賀方面の城主を調べた。富加町史によると、佐藤姓の武将の名がある城は、次のとおりだ。

ア.    加治田城(佐藤紀伊守忠能)

イ.    鉈尾山城(別名:上有知城、岐阜秀信旗下「佐藤六左衛門才秀」信長記に斉藤一族云々)

ウ.    墨俣アジカ城(佐藤噴左衛門方秀)、

エ.    城田城(佐藤美濃守別当秀龍)の城主として佐藤姓の武将の名が、「美濃明細記」とある。

オ.    伊深城(佐藤三河守信則)

カ.    蜂屋城(佐藤彦八郎信連)

キ.    坂之東城(佐藤掃部秀澄)

富加町史には、上記各城主は、同族ではないかと記されている。

(3) 前項ア加茂郡加治田城主佐藤紀伊守(忠能)は、永録七年(1564)八月井ノ口城(稲葉山城)の落城によって尾張の織田信長が稲葉山城主になると、これに仕えたとする佐藤系図が、富加町史に載っている。この佐藤氏は、佐藤尾張守公郷の子清郷を祖にし、清郷―公広―有清―秀信―次信―信清―信孝―信実―政清―高清―義清―信康―康忠―忠能(紀伊守)だ。

  紀伊守忠能は、天正六年(1578)に同郡伊深村で病没し、子孫は河小牧村に移住して郷士として続いたとあり、現在もご子孫の方達は、近くにすんで居られる。佐藤紀伊守忠能の菩提寺にある位牌を完全デジタル化しておられ、お尋ねすると当方に関連する情報は、全く見付からないとのことであった。

 (4) 前(2)イの鉈尾山城(別名:上有知城、岐阜秀信旗下「佐藤六左衛門才秀」信長記に斉藤一族云々)とあるが、公清―季清―康清から17代目佐藤兵庫頭清兼(天文元年討死)が美濃に入り、清信(又は秀信六左衛門将監永禄13年死)-秀方(六左衛門隠岐守、萩原諏訪城主文禄3年卒)―方政(才次郎、絶家)とある。秀方の弟に信清があり、信濃に移り7代孫に信行(佐藤一斎と号(安政6年没))と名乗る幕末の儒者がいた。

序でながら、佐藤一斎が飛騨郡代小野朝右衛門に送った小傳によれば、清兼から方政(慶長5年加納戦死、一説大阪篭城戦死)までの筋目を伝えている。「萩原城代たりしは、当家の六左衛門秀方に無相違候、秀房は誤なり、但秀方萩原より上有知に帰り隠居して上有知に卒す、泰岑以安居士と云、永禄3年(1560)今川義元に従て尾州へ発向せし佐藤六左衛門は、浜松の住人佐藤六左衛門佐通なり、子孫今遠州浜松にあり、秀方と同名異人なり、且佐藤六左衛門佐通決して美濃に来ることなし、秀方は金森法印長近の婿なり、因って共に飛州へ入て萩原を守りしなり、今世尾州竹腰家にある佐藤氏は泉三郎忠衡の後にして、上有知の佐藤六左衛門秀方に仕えし佐藤二郎左衛門秀利の後也、同じ佐藤なれども家筋大に同じからず、此註文遠州浜松の佐藤六左衛門佐通と、上有知の佐藤六左衛門秀方、及び其家臣佐藤二郎左衛門秀利と三人を混じて一人のこととす。上有知の佐藤才次郎方政は六左衛門秀方の長子也、但其祖は、秀郷-千常-文修-文光-公光-公清-季清-康清と伝わり、康清より19代を六左衛門秀方と云、信夫庄司は公光の子師清の後也」(斐太後風土記)とあり美濃の佐藤家について明快に解説している。これにより、我が先祖は藤原三代からの筋目であるのが歴然としてきた。この忠衡の末裔につながる佐藤家の系図があれば、父の言っていたとおりの系譜になるのではないかと思い、忠衡の記載がある系図を探し求めていたところ、平成268月お盆前になり、ある大学に発表された論考からこの系図の所有者が見付かり、お願いしたところ系図をCDにしてお送り頂き、美濃迄の言伝えに該当する当方の系図が接合できたのである。詳細は後述するとして、先祖捜しの経緯をもう少し続ける。

(5) その他、有力な一万石の城主として、美濃多芸郡に大墳城がある。天正12年(1593)に秀吉から丸毛三郎兵衛兼利(安職)に直江城を守らしむとある直江城が大墳城である。丸毛氏は天正17年(1598)に安八郡福束城主になり、関ヶ原で西軍に属し敗退後、前田家に仕えた。

(6) 「佐藤一族」と「養老郡史」から次のことがわかった。

  大田飛騨守一吉一族が城主を代々継承した太田山城(石津郡松山村)のあった近くの海津郡南濃町志津の善教寺内に、文明初期(1469~ )に創建された佐藤館の館址があり佐藤親義という豪将の墓があると「佐藤一族」にある。更に、養老郡史にはこの武将の子孫は、その後一族をあげて多芸郡栗笠の郷に住み、土着帰農して富豪になったという。その佐藤五郎右衛門の家に、元亀元年(1570)五月、信長が浅井長政征伐を行ったとき参戦した徳川家康が、敗走し、危機を脱して逃げ帰る途中に宿泊した。近くの白山社は佐藤家の創建と伝えられ、農家佐藤某の家に文禄年中(159296)の古証状が蔵してある。と書かれているのを見つけた。

   早速、善教寺について、調べると、「大垣藩主戸田氏西(うじあき)が、志津方面へ鷹狩に度々来るうち、この地が気に入り、ここに自分の菩提寺を建てるよう遺言した。元禄3年(1690)建立され、志津山東向院善教寺と称して氏西の木像を祀る。境内には刀匠志津三郎兼氏の顕彰碑も建つ。」とある。電話して佐藤館があるのか聞いてみると、佐藤親義は将監で墓碑銘があり、それ以外の史料は何もないとのことであった。駅は養老線美濃津屋から徒歩20分かかるが、いつでも見られるとのでお出で下さいとのことである。また、佐藤将監について、養老郡史の中の「美濃国古代人物誌」に次のような記述がある。

「将監は、多芸郡志津山城に居す。山上八段城地也今の善教寺の上なり。永禄七年(1563)落城栗笠佐藤與三郎此末葉なり。」。また、「志津記」に「往古ノ領主佐藤氏ハ其先奥州ヨリ當国ニ移リ枝葉処々ニ蔓リ、上有知ノ城、伊深ノ郷ニモ別レ、志津ノ郷ニモ在テ、後ロニ城山アリ。近郷ヲ領シ微威ヲ奮フコト茲ニ年アリ。

文明二年(1470)寅四月佐藤友吉ヨリ同郡大墳ノ郷大菩薩ヘ奉納ノ神鏡アリ。神領ヲ属シテ年々糯米七斗ノ強飯ヲ獻シテ今大墳畑ノ字所残レリ。善教寺ハ佐藤氏代々香火ヘ道場ナリ云々。

藤原秀郷末葉佐藤左近文衡男親義織田家発向ノ道路ヲ遮リ一戦ニ及ビ朱傘ノ骨三本射折ル。剛気ノ大将即時ニ駆散サントアリシガ、軍師ノ諌ヲ用ヒ其儘ニテ打過グ。永禄七年(1563)當国平均ノ時親義再戦利ナク、終ニ同郡大墳ノ郷ヘ退キ、領主丸毛兵庫頭丸毛は丸茂とも書き、『舟田乱記』『信長公記』に多芸郡の強豪であったと記されている。清和源氏小笠原氏の一族で、小笠原信濃守長氏の子六郎兼頼がはじめて丸毛の家名を称し、美濃国多芸郡大塚城に拠った。)ニ寄寓ス。丸毛氏ハ小笠原長清ノ庶流ナリ。

従来小笠原氏ト佐藤氏ハ葭莩ノ信アリ。因テ丸毛氏ノ懇志殊ニ切ニシテ其後栗笠ノ郷ニ移リ、更ニ新屋敷ヲ開キ民間ニ在リトイエドモ一郷ニ長タリ。子孫綿々トシテ繁昌ス云々。元亀元年(1570)午五月神祖越前州朝倉義景ヲ退治トシテ御進発アリ、御帰路江州多賀ヨリ五增保月ノ間道経テ大墳ノ郷ニ至り、玅徳院現住長慶法印ニ台命アリテ御祈禱アリ。夫ヨリ栗笠郷ニ移リ親成(親義嫡子多門後五郎右衛門)ガ宅ヘ渡御アリ親成及西脇某ヲ頼ミ夜舟ニテ太田ヘ御着アリ。船中無恙供養シ親シキ上意ヲ蒙リ、且種々拝領ノ品アリ、今ニ伝来ス。尚證状ニ詳ナリ。親成嫡子親則嫡宣張(子孫今江都及在京師)祖先ノ宗門ヲ継テ大墳郷天台宗自立山玅徳院ニ葬ル親則弟親重(三四郎号雪操院)ニ至リテ無住ナリ。仍テ改宗シテ荘福寺ニ帰ス。元禄十二年(1688)己卯ノ春荘福方丈香炉ノ灰ヨリ火出テ仏像及道場一時ノ煙トナル。独大士ノ面貌ノミ光明祘燐トシテ爍灰燼ノ中ニ在リ。其夜親光(三四郎号桃源院)夢中ニ感得アリ驚テ之ヲ見ルニ宛モ符節ヲ合スルガ如シ。感涙肝ニ銘シ速ニ一宇ヲ建立ス云々。今年親義二百年ノ遠忌ナレバ往昔ノ因ヲ慕ヒ、善教寶地ニ一臺ノ石碑ヲ建立シ、且位牌ヲ納メント戸田候ノ廳ニ達シ、則許容アリテ数百年来中絶シテ当山ニ於テ香花ノ供養モ行ハザリシニ思ハザリキ幸アリテ、城山ノ峰及山林黄金等祠堂ニ寄付シ、賢誉上人ヲ導師トシテ追善供ス云々。天明五年(1785)乙巳三月晦日佐藤光敬謹記」とあり。大墳荘福寺現代住職佐藤健邦は将監の末裔なり。天明五年に建設せし将監の碑は善教寺山にあり。銘に「覚林院殿雲庵宗開大居士俗名佐藤将監親義天正十四年(1586)丙戌秋 八月晦日」と刻せり。

   佐藤館が建立されたのは文明初期(1469~ )である。上述した「文明二年(1470)寅四月佐藤友吉ヨリ同郡大墳ノ郷大菩薩ヘ奉納ノ神鏡アリ。」と一致する。多分友吉が、佐藤館を創建したのではないか?友吉とは誰か? この筋目を調べると、父親の言っていた「藤原三代が先祖である。」に該当する。通字「衡」を注目すれば、清衡―基衡―秀衡―忠衡―敏衡―親敏―忠之―親衡―正之―正房の筋目(加藤氏の系)及び田原族譜に清衡―清綱―俊衡―兼衡―助衡―行衡―通衡―景衡―満衡―信衡―勝衡―経衡―方衡(以下略)の2系があり。養老沿線の美濃津屋駅から近い善教寺にある碑の佐藤左近文衡男親義に繋がるのではないか? 加藤氏の系は、系図に拠れば忠衡妾が、熱田神宮に潜入して生まれた敏衡が、匿われて育ち、加藤氏祖になったとある。その他奥羽地方に忠衡子孫と称する家がある。三男助衡が関東に出て武蔵国で居を構え、源実朝に仕えた武蔵氏、二男は中野氏、長男は、久慈市の吉田権之助泰行と名乗ったらしい。(注:この佐藤将監親義から親成―親則の筋目の系図をCDで頂いたのは前述した。此の親義の父文衡の兄義成から我が佐藤家は、繋がっている。後述する。)

(7) 先祖が、大小名であったとの言伝えを信じたいが、「上有知ノ城、伊深ノ郷ニモ別レ、志津ノ郷ニモ在テ、後ニ城山アリ。」とあることから志津の後方の山にも城があったのではないかと思い、城を探すと、美濃明細記に「志津野城:武儀郡の山城。池田勝三郎信輝」とある。これは、関ヶ原合戦後に書かれたもので、佐藤将監親義が落城した城は、関ヶ原以前まではあったと推定できる。また更に、今は無住寺となっている荘福寺が大墳城と称していたとある。このことから先祖は、後ろの山に在った大墳城を丸毛氏が福束城主に移封後の城主或いは城代ではなかったのか? 一万石の小大名であったとの口伝及び、親義の祖父か曽祖父と思われる佐藤友吉が大墳郷の大菩薩に寄進した神鏡の故事から推定される。

(8) 美濃佐藤氏を調べると美濃国守護土岐氏家臣で、武儀郡八幡村(岐阜県関市武芸町八幡)に五千貫文(約一万石)を領した佐藤石見守公輝がいた。

  この佐藤石見守公輝については、佐藤一族には、公清―季清―公俊―公経―公広―公庸-公宣―公直―公輝―直勝―直重(佐藤彦左衛門)とあり、直勝は、佐藤藤内と言い、信長公記に土岐家臣として数々の軍功を挙げたが、元亀3年(1573)に起こった武田からの援軍3,000人と三方ヶ原の戦いで討死した。この武将は、仲清末裔の佐藤石見守で織田信長援軍に来たもので従兄弟の言っていた西行法師が親戚だと言う佐藤仲清筋である。時代的に忠正と合致するが、ご子孫の方のお話や菩提寺の調査結果から当方とは無関係だ。

(9) 次に、伊賀地方については、前述した総見公武鑑に「伊賀者奉行、是大事の役候て、若思慮もふかく人候へは、各壱人或い二人可被参事とある。名前は、

猪子兵助(イノシシ付タル黒升)

生駒勝介(ツナキ馬付タル浅黄升)(黒母衣衆)

中西権兵衛(三日月の黒升)

佐藤六兵衛(大キク黒クチトリヲ付タル升)

  加藤平左衛門(黒キトンボウカタ付タル黄ノホリ)」

 

 「伊賀者奉行・佐藤六兵衛」を佐藤伊賀守とすると、その子左馬介は、幼少の頃には、同じく美濃か伊賀に居住していたのだろうか更に、調査が必要だ。

(10)  石田三成の側近であったと言う言伝えを基に愚考を続ける。

美濃国太田城主太田一吉が慶長2年、臼杵城主に転封されてきたとき、石田三成側近であった佐藤左馬介が臣従したのが、言い伝えになっていることは前述した。太田氏も石田三成の贔屓侍であった。

    その後、関が原合戦があるが、太田飛騨守は、甥の太田政成を東軍に、息子の一成を西軍に参加させ、自身は病と称して居城の臼杵城に立て籠もっていた。しかし、その態度は、一吉が西軍に与していると見なされ、東軍に与した黒田如水と中川秀成に攻められ降伏した。我が先祖は、東西軍の何れかに属したのであろうか?その後庄屋として明治を迎えているので、多分東軍に属していたが、太田改易により豊後一木村炭床に隠塞して、豊後佐藤の祖になったのではないかと従兄弟は言っていた。
 更に、石田三成について調べると、秀吉から三成が美濃国不破郡の代官に任ぜられとき三成は居益(現在の関ヶ原町今須)を領地していた。しかし、三成は今須に入らずに神戸村に居て、当地にあった今須城の城代として左馬介が配置されていたのではと思われる一次資料が、岐阜県史から見付かった。内容は、濃州居益内の妙応寺の山屋敷を御意(三成の了解)を得て、妙応寺に従来どおりに使っても宜しいというもので佐藤(左馬介の諱)花押と有り、天正20年2月16日の日付になっている。この日付は、朝鮮の役の2か月前で三成が後顧の憂いなく、寄進状を書かせたものと思料される。左馬介の諱は、臼杵藩の古史捷にあり朝鮮の役で改易された大友の跡地を検地したときの玄番帳及び太田飛騨守の検地に従事し作成した飛騨帳を、左馬介が帰農したときも大事に保存していたと書かれているので言伝えは正しいと愚考している。諱については信憑性を確認するために関係者に資料を送って確認中。多分間違いないものと信じているが・・。
(11)わ
が先祖が美濃から太田飛騨守に臣従して臼杵城に入ったのが、間違いなければ、琴屋系図にある佐藤美作守(佐藤源内)は、天正14年豊薩合戦で戦死した美作佐藤氏の系図にある義国の子であろう。しかし、大友家臣団には、その名がない。矢張り領地は、給地として所領していたものと思われ、大友家改易で領地は没収された。左馬介が太田飛騨守に臣従して入ったとき、当跡地を領地として預けられたのではないか。

7 美作佐藤氏ついて

(1) 従兄弟の書き残した中に、祖神を高天原時代の天児屋根命と云々とあるので我が遠祖は、美作佐藤氏と同じ藤原氏だ。

これは細川高国が、足利義晴を将軍の座に就けたときに細川家臣として武勲のあった義国が出ている美作佐藤系図だ。この系図は、筋目が極めて難解な系図だ。精査すると、「本朝元始国主天児屋根尊十九代孫中臣御食子卿長男也氏祖大冠織鎌足から秀郷―不比等―房前と続き、師治―元治―治清を経て、十五代目の義国に繋がっている。義国の条に、「佐藤塩栗領地之書」の大友義鑑知行宛行状と同内容と思われる事歴が書かれているのを発見した。これは、時代的に塩栗丸に該当する。これで塩栗が預けられた知行地を表す古文書が、佐藤家に繋がる訳だ。塩栗(45歳か?)は、幼少のため丹生庄に行かず、給地的な知行地だけを得ていたのだろう。伊賀守忠正(六兵衛)も伊賀者奉行として信長に仕え、大友氏改易後に左馬介が、太田飛騨守一吉に臣従して臼杵に入ったときに丹生庄に居を構えたのではないかと愚考している。なお、天正15年秀吉の九州平定において肥後表第7隊太田一吉の軍に参陣したと思われる。

(2) 一方、総見公武鑑に伊賀者奉行が佐藤六兵衛の名があるのは前述した。美作守は、鶴賀城合戦記に佐藤源内とあるので、源内と六兵衛は、別人だ。寧ろ豊薩合戦で美作守が討死した跡を継いだ美作守嫡男佐藤市三郎?は、大友家改易により土地を没収された可能性が高い。改易後、直ぐに大田飛騨守と共に臼杵藩に入った左馬介が、美作守、市三郎と続いた土地に入ったと考える方が、当時の改易後の様子から正しいと判断される。太田氏改易時は、美濃から稲葉貞通が入るが、左馬介は、其のまま残置されたものと聞かされている。

一方伊賀守は、伊賀者奉行として伊賀に長男左馬介を伴って赴任したものと思われるがその後、大友改易により臼杵へ移動するときは、時代的に父伊賀守は既に亡く、長男左馬介の家族だけだったと思われる。

(3)   この美作大系図を更に、調べると、「佐藤源内」、「佐藤六兵衛」のほかに、「角違一揆の条に出て来る佐藤主計入道」と同一人物?と思われる名がある。美作佐藤氏の系図は、義国で絶家となったのか、他藩に移動したのか分からないが、途切れている。美作佐藤氏の家紋は、「八つ柄杓車/竹笹丸に三つ星」であるので別家ではないか?とも思われる。義国が高間(現在の奈良県御所市)に帰還したとあるので美作守は、豊薩合戦応援で、豊後に行ったと仮定すれば筋目は、美作佐藤氏の筋目とほぼ合致することになる。

わが先祖が美濃から太田飛騨守に臣従して臼杵城に入ったのが、間違いなければ、琴屋系図にある佐藤美作守(佐藤源内)は、別人であろう。 

鰐口を寄贈した佐藤美作守藤原朝臣家信(伝右衛門?)が源内であるならば、豊薩合戦で美作守が討死した跡を継いだ美作守嫡男佐藤某が、大友家改易により土地を没収された可能性が高い。寧ろ美作守が藤原家信であれば、佐藤忠信系の信字を「○信」とする角違一揆の藤原千信の筋目ではないか?

改易後、太閤検地が行われ、文禄三年大田飛騨守と共に臼杵藩に入った左馬介が、美作守嫡男佐藤某と続いた土地に入ったと考える方が、当時の改易後の様子から正しいと判断される。太田氏改易時は、美濃から稲葉貞通が入るが、左馬介は、二君に仕えずと其のまま帰農したものと思われる。

「丸に抱き柊」の家紋の彫った佐藤家のお墓も一宮市木曽川町光明寺霊園内にあるので、やはり伊賀守に繋がる遠祖は、どの筋目か依然不明だが、確率からすると、矢張り伊賀者奉行佐藤六兵衛へと繋がる筋目が一番だ。