8 豊後佐藤氏の調査
美濃佐藤氏については、すでに述べたので、ここでは豊後に来た佐藤氏について大分県史料、「佐藤一族」(佐藤清隆著)等の文献を調べた結果をまとめた。
(1) 佐藤氏に関する調査文献のバイブルである「佐藤一族」に、「建久5年(1194)年、源頼朝は、相模国大友郷の名族大友能直を九州探題として豊前・豊後二国の守護職を授けた。大友能直は大友・波多野荘の在住郷士を従え、豊後国立石の国衙に営し、土豪大神一族の抵抗を排して国内を統治した。このとき相模国河村から河村義秀の一男時秀が奉供した。時秀は本姓に復し佐藤伊豆守と称し、家禄八十八貫文を給し大分郡栗ケ畑(大野郡犬飼村栗ケ畑)に居館を構えたと言う。関係があるのではないかと思われる佐藤氏が(8)にも記述してあるので合わせて一読を。(現地に今も居住する佐藤家の話によれば、山奥に城跡らしきものがあるが、中々現地に入れないそうだ。犬飼町教育委員会専門員によれば、武将に沓懸氏の名はあるが、佐藤氏は全く歴史上出て来ないとのこと。)
(2) 二番目に豊後に来た佐藤氏は、正治元年(1199年)8月に佐藤出羽庄司が奥州より下着し、豊後国由布岳の西麓に在居した。とある。(ここは、繁美城のあった野津原太田に近いので調査した結果、福宗の佐藤寿一氏が継承する系図と一致した。家紋は「下り藤で向かい雀」)
系図によると
藤原秀郷―千常―14代略―重儁(佐藤伊豆守)−初代繁美城主秀儁(佐藤治部大夫)―以下略―24代佐藤信隆(慶長五年の石垣原合戦で討死)
この初代から24代後に佐藤信隆が現れ、石垣原合戦の総大将として討死。
初代から各代に事歴が付記されている。初代、二代について、次のような事歴が記されているので紹介したい。
初代 秀儁
佐藤治部大夫ト号父佐藤重儁泉三郎忠衡源義経ニ味方シテ奥州秀衡ノ館ニテ討死ノ砌ハ若年ノ際ニ而味方軍議最中義経忠衡ヨリ豊後国司緒方三郎惟義ニ没後預越ノ書翰ヲ被渡豊後国大分郡府内エ落着国司緒方殿エ義経忠衡両将ヨリノ書翰ヲ差上ゲタトコロ同郡稙田庄司ニ被附置太田繁美城ヲ賜り老躯ニ及家督ヲ嫡子佐藤一郎右衛門ニ譲リ繁美入道秀香ト号一宇開建シ繁美山吉祥寺ト開号仏法ニ立入傳者トナリ年月ヲ送リ居ニ建仁元年1201)十一月十日病死法名吉祥寺殿繁美山秀香大禅定門ト号
2代 儁行
佐藤一郎右衛門ト号シ、国司惟義上野国沼田ニ流罪ノ後豊前豊後両国之守護代大友左近将監能直殿ニ宣下アリ建久七年(1196)下向ニ付附属被仰付親跡太田繁美城ヲ賜リ居城貞應三年(1224)七月病死大泉護殿繁美山儁行大禅定門ト号
その後、ご子孫は24代佐藤信隆が石垣原合戦時の大友軍總大将として討死するまで、歴代繁美城主として大友家に仕えた。石垣原合戦後、ご子孫は、細川三斎公から庄屋を命じられ、明治維新を迎えている。
宝篋印塔
(3) 三番目の佐藤氏は、文永の役(1274年)後に国崎半島の浜辺に五騎の鎧武者が漂着したという。五騎の一人は佐藤次信の孫公義と名乗り、同地にある古墓には木乃伊の棺があるそうだ。これは国崎半島に多く存在する佐藤家だろう。
電話でこの付近の佐藤家の家紋を聞いたが、桜紋とのこと。これは継信系であるので興味をそそられる。
(4)その他、『仁治2(1241)年落書以下の「奇恠」を現した科により,評定衆を除かれ鎮西に配流されたが、寛元元(1243)年には赦され,鎌倉に帰参した。』とある佐藤業時の子孫が九州各地に散じて子孫が繋がったらしい。この子孫は、その数代後、四国の香西家臣となっているそうだ。
(5) 東鏡には、その他、佐藤兵衛尉憲清(西行法師)、佐藤新左衛門尉祐重、佐藤民部次郎業連など見える。また、正嘉元年(1257)の条に評定衆引付奉行人佐藤右京進の記載があるが、大友能直に奉供した佐藤伊豆守時秀より後なので別家であろう。
(6) 太平記巻十にも「鎌倉方の大将、佐藤左衛門入道」とあり、同じ名前で鎌倉幕府滅亡時の正慶2年(1333)の幕臣名録にも出て来る。家紋は見聞諸家紋に田字草とあり別家だろうと判断される。後に、これは佐藤左衛門入道妙性であることが分かった。
(7) 速見郡史に、佐藤氏は、奥州佐藤氏の出身で佐藤忠信の曽孫「縫殿助忠直」建治2年(1276)、豊後に下り大友親時に仕え、大神郷の久保に住んでいた。譫井佐藤はその末裔だとある。電話でこの付近の佐藤家の家紋を聞いたが、源氏車紋と藤紋だった。
(8) 東大史料編纂所にある大分県下毛郡の佐藤家の「藤原氏佐藤一流」とかかれた系図がある。これによれば
天児屋根命十七世大織冠鎌足から不比等―北家房前―千常―公光―公俊(佐藤元祖)−経秀―秀遠−佐藤筑前守遠義と続いた佐藤系図がある。波多野系のようだ。
この遠義から河村秀高―義秀―佐藤時秀と続く。この時秀が(1)で前述した佐藤伊豆守時秀である。この一統の家紋は、「糸輪抱き柊」紋であることから、当初我が佐藤家は、家紋から推測すればこの筋目の何処かで分かれ、丹生に移住したのではないかと調査したが、解明には程遠く、真偽は未だに不明だが、言伝えとは程遠い。家紋からだけで系図は、出来ない。家紋については次回に譲る。
9.その他の豊後佐藤氏
(1) 大分歴史辞典及び丹生村史によれば、建武3年(1336)2月、京都に居た足利尊氏は、北からの北畠勢に押され、大友千代松丸ら豊後勢と共に九州に敗走した後、4月には反転攻勢に転じ京へ攻め登った。この時、大友軍として結成されたのが角違一揆であるという。大分県史料によれば、契約によって一揆に加わった中に、御旗役人の佐藤主計入道と佐藤主計允藤原千信がいる。
また、この一揆には日田衆は参加していないとある。
(2) ネットで調べると、「武将系譜辞典」の「大友家家臣団」の中に、佐藤主計入道の名前がある。
佐藤主計入道「角違一揆」
永信出雲、鑑直
鎮眞鑑直弟、長治伊賀
儁行市右衛門
加賀
信隆
山城
主膳
四郎右衛門
縫殿
上記の武将名を見たとき佐藤主計入道「角違一揆」よりも「長治伊賀」とある武将に目を奪われた。我が先祖の墓碑銘にある左馬介の父佐藤伊賀守忠正ではないか? と一瞬考えてしまった。
そこで伊賀長治の名を国立国会図書館に行き、大分県史料等から捜した結果、佐藤四郎右衛門長治の名を見付けた。日田市教育委員に電話すると、この件については、詳しい郷土史家野田高巳氏を紹介された。早速連絡をして日田市の現地調査に出掛けた。お尋ねすると、長治は、佐藤山城守鎮眞の子で佐藤四郎右衛門と言い「守」の名乗りはないとのこと。明治維新まで佐藤家は、日田市小竹村庄屋であったが、今は直系のご子孫は、居られないとのことであった。
野田氏から頂いた系図によれば
初代 佐藤四郎右衛門長治(寛永十六巳卯年三月六日)
二代 佐藤喜太郎則生(寛文七丁未年八月廿四日)
三代 佐藤惣右衛門成正(天和三癸亥年二月廿日)
以下略、十五代までのお方のお名前が記載されていた。同氏はご高齢にも関わらず暑い中、日田駅までお車でお見送り頂き恐縮した次第。
(3) 山城、主膳、縫殿は、文禄の役に参加した義統公高麗陣着到の条の日田衆の侍として名が残っている。主膳は、戦死者の中に名前があり、主膳作主水(統直)佐藤弥平允とあるので日田衆からの参陣と思われ完全に別人であることが判明した。
(4) 次の儁行市右衛門、加賀、信隆は、後述する現地調査の結果、繁美城主であることが判明し、この儁行市右衛門と信隆は、佐藤某氏の系図に記載されているのは前に触れた。以上で(2)の佐藤氏は、全て別家であろう。
(5) 大分県の郷土史家佐藤満洋氏の論考「筑後国田尻氏の豊後府内参府」がある。この中に天文16年(1547)11月2日から19日までの参府日記中に贈答が確認できる大友家臣に佐藤姓の武士名がある。
ア「佐藤宮内殿」
イ「佐藤刑部殿
ウ「佐藤左京進及び息(中村殿内)」、(注:下畑村、東鏡の右京進の末裔か?)
エ「臼杵殿よりのさとう」、(注:奥畑村、徳丸因幡守跡の佐藤七郎か?)
オ「城備さとうの小者」は、足軽侍であろう。これらの佐藤氏も繋がりはない。
(6)
大友宗麟公の墓所臼杵宝岸寺の過去帳に見える佐藤姓は、次のとおりである。
ア 佐藤備後子 天正六戊寅十一月十二日
イ 佐藤姪 天正十五亥四月一日
ウ 佐藤備後息紀三郎 天正十五丁亥七月廿四日
エ 佐藤四郎右衛門母 慶長十四巳酉ニ月廿二日
このエの佐藤四郎右衛門の母とあるのは、時代から推測すると前に述べた長治伊賀の母親だろうか? 余計なことまで考えてしまった。
オ 天正十四年(1586)三月、大友宗麟が島津氏の圧迫を避けるため秀吉に援軍の派遣を要請に行った時、護衛に同行させた佐藤新介入道については、全く不明だ。
カ 『九州治乱記』によると、永禄二年(1559)、筑紫右馬頭が二千の兵をもって博多を襲撃し、大友氏の代官を殺害した謀反に対し、大友義鎮は、真光寺佐藤刑部丞を大将に筑前・筑後・肥前の軍兵一万余をもって惟門の拠る天判山城を攻撃したとき、筑紫氏の伏兵の鉄砲乱射によって総大将佐藤刑部丞が討死したとある。この佐藤刑部丞は、上記(5)の佐藤刑部殿であろう。
キ 永享八年(1436)の姫嶽合戦着到状に大野郡から三陣した佐藤勘解由、明応三年(1496)大友親治家臣交名にある佐藤主馬允等々佐藤姓の侍名があるが、当家とは無関係であった。
ク 文禄元年(1592)の朝鮮の役に丹生郷から参陣した多くの佐藤姓の侍名が、義統公高麗陣着到に見えるが、矢張り当家とは無関係であった。
(7) 「姓氏家系大辞典」の豊後佐藤氏の中に、延岡藩の「社家世代録」に「寒田村佐藤(藤)、木上村佐藤(藤)、津守村佐藤(藤)、田野村、小野村佐藤(藤)、谷村佐藤(藤)」と見ゆ。北海部郡大在村の佐藤氏は名族と聞ゆ。
とある。大在村は一木村と隣接しており、当方の佐藤氏ではないかと思っているが・・・。