10 旧土地台帳の取得と古文書からの分析 

   旧土地台帳を大分法務局から取得した。現在居住地番の佐藤は勿論、一木炭床の佐藤姓のものは、全て取得した。総本家を含め47通になった。

 

この地番から現在一木にお住まいの佐藤姓の筋目が明治初期名から類推できる。当時の佐藤家は、お互いに次の屋号で呼んでいたと従兄弟から聞いている。
 一木炭床の佐藤家には、7つの屋号、「奥」、「上」、「下」、「門」、「油屋」、「向井」、「新屋敷」があったそうである。この屋号が現在の佐藤氏のどの佐藤氏かは、旧土地台帳からだけでは判明できない。 

(1)  この台帳から少し。色々分析して見たい。それぞれの土地(田、山林、畑、宅地、藪、竹林全てを合算)の持高を所有者毎に比較すると次の通りである.
      宗次郎名義   合計 約7,400
      兼治郎名義   合計 約4,400
      小十郎名義   合計 約2,800
      その他佐藤名義1 合計 約1,100
      その他佐藤名義2 合計 約1,100
      その他佐藤名義3 合計 約950

  矢張り、歴代佐藤氏の墓地を継承されている現在佐藤氏の曾祖父宗次郎名義の土地保有 高が一番。当方の兼治郎、小十郎兄弟を合わせた程。これを基に曾祖父清三郎の父を確 定したい。 

(1)   安永年間から大正初期までの総本家の系譜は、以下のとおりである。
    ア 五左衛門(?〜明和31766
  イ 五左衛門(?〜天明31783
  ウ 五左衛門(寛延31750〜文政6年1823 
  エ 五左衛門(?〜天保2年1831)
  オ 悟左衛門(寛政
121800〜文久21862
  カ 悟市  (天保41834〜明治131880
  キ 宗次郎 (文久21862〜大正61917) 

悟市(除籍謄本は五市)の嫡男は宗次郎一人であった。明治3年の宗門改め帳(写真)参照。

 

 宗次郎は、悟市の跡を相続。2代目の丹生村長になり、村に多大の貢献をしたと丹生公民 館に佐藤宗次郎君功績碑がある。年貢割付帳には、悟市の父悟左衛門の名がある。この時 代は、悟左衛門と五左衛門は、同一人物であることは、私の曾祖父清之丞(後に清三郎と 改名した。)の名が悟左衛門と五左衛門の両方にあることから歴然と分かる。

 

 この年貢割付帳は、享和四亥年、文化三寅年、文化七午年、万延元申年の年号があるが所  々が不明になっている。

(3) 曾祖父清三郎の父の名は? 
   同じ文書の中に同時に、悟左衛門と清之丞が同記されている。当初、清三郎は悟市と兄弟で悟左衛門が父ではないかと、仮定して先祖調査をしたが、この年貢割付帳から判断する限り、間違いであろう。
(1)の土地保有の状況から兼治郎と小十郎の土地を合わせた程の土地を宗次郎が保有していることから、清三郎と悟市が兄弟であるならば、家督相続では兄が相続する時代に、長男、次男が家督相続で等分するとは考えられない。更に、更に年代を遡る必然性がありそうだ。
 (4)  除籍謄本の最終先祖清三郎は、天保初期に生まれたと推定される。これから一代づつ先祖を遡るには、どうすれば良いのか苦悩の日々が続いたとき、再度郷土の丹生村史に頻出する文献を見なければとの思いで読み直した。「古史捷」という稲葉藩政史料があることに気附いた。この文献の所在場所は、唯一臼杵市立図書館にしか無いことが判明。兼ねてからご指導を得ていた臼杵市立図書館の専門員に確かめると同書は、ボリュームがあるので余裕ある計画で御出で下さいとのこと。
  年金生活者には厳しい御託宣。数カ月後、34日で臼杵まで遠征、一木村の関係個所のみ約250ページを写真撮影してきた。
  帰宅後、「古史捷」の解読約
1カ月を要した。これにより先祖の筋目が、収集した資料から出来たのである。