11 家紋について

(1) 我が家の家紋は、この「丸に抱き柊」である。400年前から使用されている。

             

(2)   佐藤氏には、信夫佐藤氏、阿波佐藤氏、置賜佐藤氏、 美濃佐藤氏、常陸佐藤氏、馬籠佐藤氏等々と呼ばれる佐藤氏が日本全国に存在している。佐藤氏の代表家紋は、「(上)下がり藤」か「源氏車」である。美濃仲清系佐藤家の家紋「三つ柏」、相模佐藤氏が「田字草」、下野佐藤氏は、「藤の丸の内佐文字」、尾張佐藤氏は、「丸に三本並び傘」、加賀佐藤氏は、「立ち沢潟」と「分銅紋」、御館流(藤原三代の館)佐藤氏は、「雪紋」、 阿波佐藤氏、「三つ連銭」、その他「並び矢」、「桜紋」(信夫庄司の佐藤元治、継信、忠信父子が使用か?)、「橘紋」(佐藤元治系)であると「家紋の辞典」等の家紋解説書にある。因みに、久土村の佐藤家は、「水車」で、関ヶ原合戦後、稲葉氏に臣従して臼杵藩に来た武士の家系であろうか。また、一木本家の隣家の佐藤氏は、「下がり藤」で同姓でも先祖が異なる。多分、大友氏が改易されたとき残ったのではないかと想像している。「丸に抱き柊」は、秀郷末裔佐藤伊賀守朝光から別れた伊賀氏の裔美濃稲葉氏家臣林氏も使用している。一時先祖は、この佐藤氏の系統ではないかと調べて見たが、違っていた。

(3) 佐藤一族で使われている家紋は、写真のとおり72家以上ある。中に我が「丸に抱き柊」も載っている。(一安心)

(4) 岐阜県一宮市光明寺霊園に、同紋の佐藤家のお墓があることを岐阜市の石材店のホームページで見付け、ある夏のお盆に日帰りで訪ねた。近くのお宅を二三軒訪ねて、同墓地の管理人さん宅を捜し当てた。管理人さんは頗る良いお方で“東京からよく来られましたね。残念ですが、そのお墓の所有者とは約30年以上連絡がとれず、住所は美濃○○方面だけしか分からない”とのことであった。お墓を訪ねたときに新しい缶コーヒーとお花が供えられていたので、その地方に居住していると思われる数軒の佐藤家に手紙を出したところ、お年を召されたと思われる女性から電話があり、“ご先祖様をお捜しですか? 御苦労さまです。私は、佐藤家にお嫁に来た者ですがすが、何かお役に立つことがあればお調べしますが、「丸に抱き柊」の紋は、どのようなものですか? お知らせ下さい。”と願ってもないお返事。早速、紋様を記したお手紙を出した。
 すると3日後、その息子と称する男性から気分が悪くなるような電話(内容は、割愛)があった。当然、こちらも直ぐ着信拒否にした。先祖捜しのため電話したり、手紙を出したりしたが、同じ佐藤氏でも色々なお方が居られるのも事実。

(5) ついでにもう一つ先祖捜しの負のエピソード。“そちらの佐藤様の家紋は何でしょうか?と尋ねた時、”家はカモンは有りません“との返事、私は ”エツ?・・そうですか。お墓や着物の紋付に付けてある紋ですが“ 。結果は、カモンは有りませんの一点張り、電話もガチャンと切られた。家紋が無い? 電話後、数時間熟慮せざるを得なかった。行政書士事務所を経営していた関係上、官報を毎週見ていたので、以前外国人が帰化し佐藤姓に替えた方がいたのを思い出した。帰化した家には家紋はないのか? 或いは家の門がないのか、そのどちらかだろうと我が高ぶった気持ちを無理に納得させた。

(6) 佐藤家の家紋の疑問点

ア CDで送って頂いた君山松平秀雲書とある佐藤家系図には、家紋は「車」と記されている。我が家に繋がる系図であれば、400年前にどうして「丸に抱き柊」になったのか?

イ 写真の若林氏(大友水軍で活躍した若林鎮興が有名)も同紋である。その中に佐藤氏もあるので大友氏家臣?かも知れないと思っていた。

   

ウ 先日、飯能市にお住まいの日本家紋研究会会長 高澤等先生宅を訪問させて頂き、上記2点の疑問点についてお尋ねした。アについて、私は家紋の移動について大友氏が改易されたとき、若林氏から奪取したのでは?と思っていたが、それは間違い。寧ろ副紋か替紋かで持っていたのを帰農した時に本紋にしたのではないか。との説明を受けた。また、イについては、佐藤氏が若林氏家臣ではなく、「丸に抱き柊」を使用している名前を記述してだけとのこと。
 これで大友氏改易と同時に当家が改易されたのではない事を確心した次第。これで大友氏改易後、太田飛騨守に臣従して臼杵藩に移住したものであることが確定できた。これですっきり美濃の善教寺佐藤氏の系図に仮冒でなく、接合できるものと愚考している。

(7) 曾祖父の母方の家紋

 曾祖父清三郎の妻の関係は後述するが、内田家の家紋については写真のように多くの紋があることが分かった。同家に残る系図には、平清盛家臣内田忠務太輔藤原則経の四世孫内田但馬守重郎が明徳元年(1390)庚午三月五日に大友修理大夫親世公家臣として肥後国三万貫を賜り、その嫡男内田但馬守秀経が豊後国丹生庄一木ノ原初代となり、応永九(1402)壬午十一月に一乗寺建立とある。その後、10代喜左衛門藤原経長が石垣原合戦で討死し、長男市五郎が帰農し、弁指となり、子孫は栄え、大庄屋子分格で明治維新を迎えている。詳細は、後述する。