12 纏めに入る前の古文書調査

(1)  稲葉藩政史料「古史捷」の調査

   平成27.7.19から21まで臼杵市立図書館に行き「古史捷」を調査、一木村関係部分を撮影。「古史捷」は、全巻で57部も有り、一通り目を通すのに丸二日間も要したが、成果は丹生村史以上のものが見付かり嬉しい限りである。大庄屋、小庄屋、百姓等の名前もあり、下に掲げるように曽祖父清之丞が農業出精に付ご褒美としてお殿様が御上下の際、御船場にて送迎するよう仰付けられているのが安政ニ年の条にあった。

ここに出ている一木村梅五郎、弥四郎、熊五郎、清之丞は、年貢割付帳にも記載があり,古史捷にも弥四郎父市左衛門とある。何姓か不明であり先祖捜し中の者にとって苗字が分からないのは、残念至極である。

(2) 大庄屋家の略系譜を入手現在、大庄屋家の直ぐ傍に居住されている郷土史家長田宰氏に「古史捷」の読解(一木村関係分)をお送りした処、一木村大庄屋琴谷氏の略系譜を頂いた。これによると4代実久吉左衛門の妻一木村佐藤五左衛門娘とある。この五左衛門娘は、初代佐藤左馬介のひ孫のようであることは前に触れた。

 (3) 清三郎に嫁入りした内田市郎治長女を調べれば何か分かるのではないかと、一木周辺の内田家を捜した結果、系図をお持ちの内田靖氏から内田系図のコピーが頂けた。その系図には、内田市郎治の長女(タノ)が佐藤清之丞に嫁入したとあるのが確認できた。除籍謄本では長女キソとあるので別人とも考えたが市郎治長女とあるので間違いない。年貢割付帳にある清之丞は、清三郎であること判明した結果、更に先祖を遡ることが出来たのである。

 

 この内田系図によると、慶長5年(1600)の石垣原合戦において別府で討死した十代目内田喜左衛門藤原経長には、市五郎、光三郎、與三郎の三兄弟が夫々一木村中尾に屋敷を構えたとあり、その子孫が代々喜左衛門を名乗り、一木村小庄屋として今に繋がっている。

系図に書かれている一乗寺は、廃寺となったが石堂や墓も同宅地内にある。義理の高祖父に当たる拾二代市郎治は、宮河内村椎原から婿養子として内田姓を継承している。この市郎治の義父喜左衛門は、丹生村史に記述のある「嘉永三年冬に藩主から凶作の救済として金穀を賜ったが僅少にして飢えを凌ぐに不足を慨し、強訴を図る計画が事前に露見して主謀者として入牢中牢舎の柱にて自ら頭を砕き憤死した。」とある義侠心の強い小庄屋であった。(他の者は所払いとなり、近郷村に預けられた後、明治維新で釈放された。喜左衛門の孫卯傳治は、大正13年から昭和3年まで丹生村長に就任した。)

この件は、丹生村史に一木村農民小揆として後世に伝えられている。また、「古史捷」にも詳細が記載されている。

「古史捷」・「丹生村史」によれば、翌年三月には、この事件に拘わらず、年貢正米を早期に皆済したとして藩主より、喜左衛門家が大庄屋子分格になっている。同時に丹生郷の全庄屋(佐藤五左衛門も含む。)も苗字御免となっている。この2ヵ月後に喜左衛門の孫(市郎治長女キソ)が清三郎に嫁いで来たのである。なお、維新後、所払いを赦免された同志が建立したとされる喜左衛門の功績碑は、内田家の墓地内にあるそうだ。

13.まとめ(系図の復元)

 以上、色々と述べて来たが、これだけでは藤原鎌足に繋がることにはならない。接合されるべき証拠の提示が必要だ。これについてある程度の独断と偏見を許して頂き、愚考に愚考を重ねた結果を基に系図復元することにした。

(1) 藤原鎌足から左馬介への接合

ア 前述した佐藤一斎が飛騨郡代小野朝右衛門に送った小傳にあるように「今世尾州竹腰家にある佐藤氏は泉三郎忠衡の後にして、上有知の佐藤六左衛門秀方に仕えし佐藤二郎左衛門秀利の後也」は、言伝えから焼失した我が系図の筋目の武将だ。武功夜話に、佐藤二郎左衛門秀利は、秀吉配下として安土城築城の際、山羽久蔵と二人、伊香保郡の「人足出し係」に任命され、同郡で人足総勢2600人を集めたそうだ。この秀利が、伊賀守忠正の兄弟ではないかと仮定して文献を探した結果は、総見公武鑑にある伊賀者奉行の佐藤六兵衛に行き着いたのは前述した。

イ 栗笠系図には、次のようなことが、書かれている。経衡(初来美濃住居)―義成(才次郎、濃州上有知 才次郎秀政先祖)とある。私は、義成から嫡男秀正(政)を経て、秀利・忠正(政)兄弟へと繋がる筋目を示しているのではないか? と善意に解釈したので接合できたと前述した。

ウ 栗笠系図の末裔ではないかと思われる栗笠近郊にお住いの佐藤某氏に電話してみると、先祖については全く不明であると言う。家紋は「丸に剣カタバミ」と言っておられた。

 (2) 年貢割付帳からの先祖推定
  清之丞の先祖名を明らかにしたい。年貢割付帳に同時期、同列に名前があれば、それは親子ではないと推定される。この前提に基づき話を進める。従兄弟が収集していた古文書(人別宗門改め帳、年貢割付帳)は、全部でB5100枚以上ある。
  古史捷については、
A4200枚以上ある。全容を掲載できれば分かり易いが、残念ながら割愛しての説明になり分かり難いと思われるが、重要な箇所だけ箇条書きにして進める。

 ア 庄田静左衛門・広瀬彦蔵代官所の年貢割付帳から判断して、清之丞の年貢を納めた時期を推定した。

「桜翁雑禄(天明21782〜安政元年1854)の晩年の撰録」に、代官庄田静左衛門名は、その世倅新蔵が新中小姓格になったと記述がある。また、古史捷の天保4年(1833)の条にも代官庄田静左衛門の名がある。すると清之丞が生れた時代は、文政末期か天保初期の頃であろう。

 イ 年貢割付帳の清之丞の書き順位置を一覧にしたのが次表だ。これから悟左衛門と同時に清之丞の名があるのでこれは親子ではないと判断される。  

年代等

五人組

嘉永4年?

悟左衛門 藤右衛門 祐右衛門 清之丞

儀兵衛

安政2年?

五左衛門 藤右衛門 祐右衛門 清之丞

儀兵衛

万延元年?

五左衛門 与右衛門 祐右衛門 清之丞

初右衛門

(永納代)

 

 

勇右衛門 清之丞

 

なお、上表の五(悟)左衛門、祐(勇)右衛門、清之丞は、佐藤姓であるのが分か っている。その他の苗字は現段階では不明だ。

ウ 更に清之丞の父を探さなければならない。内田系図に清之丞の義父内田市郎治の義父喜左衛門妻に一木村炭床佐藤菊治伯母が入嫁とある。菊治の名は、年貢割付帳等には一切出てこないことから五左衛門(天保2年1831没)の弟ではないかと想像される。

 理由として、内田家との繋がりが濃密であるからだ。分かっているだけで、喜左衛門に入嫁した佐藤菊治伯母マサ、その長女チセの子タノ(戸籍名キソ)が清之丞に嫁ぎ、清之丞の嫡男兼吉(戸籍名兼治郎)の四女ヤチが内田市郎治の三女の子小次郎に嫁 いでいることが除籍謄本にあるからである。当時の結婚は、庄屋、組頭、百姓代と両家との承諾のもとに行われ家格を重んじる風潮にあったことから両家とも小庄屋であり、婚姻によって繋がりを深めたのであろう。これで清之丞の名が、菊治の嫡男であれば、悟左衛門と年貢割付帳と同一の条に記載されていても不思議はない。年貢は、村単位で年貢割付が代官から示されると庄屋は、各戸に割り付けるので清之丞も父菊治から家督相続し一家を成していたのであろう。
 清之丞は、安政
2年(1855)に、お殿様御上下の節御船場に見送り出迎えを命じられているのは前に触れたが没年から判断して清之丞は、菊治の子として文政末期か天保初期に生まれではないか?     

14 現在家系研究会等で正しいものとされる奥州御館系図を参照して復元した。もし、後世に於いて新たな古文書でも発見された時は、速やかに修正されるべきものであることをお断りして置きたい。

※ 復元した推定系図の一部

15 最後に、藁をも掴む思いで先祖捜しを始めた段階から長年にわたり、種々ご指導とご教示を頂いた坂ノ市地区郷土史愛好会の長田宰氏、臼杵藩士佐藤家系図をご送付いただき、また、臼杵藩に関する関係文献等についての調査要領等について詳細にご教示を頂いた臼杵市立図書館専門員(現在臼杵市歴史資料館長)菊田徹氏、更には、先祖捜しの一挙解決となった栗笠系図をCDにしてお送り下さった徳田誠志氏、内田系図のコピーを頂いた内田靖氏、焼失した伝来の系図復元史料の墓碑銘を頂いた総本家佐藤宗吾氏,従兄弟の故佐藤昭夫氏が長年収集した古文書を提供して下さった佐藤真弓氏には、大変お世話になりました。皆様にはお会いしてお礼を申上げるべきところですが、このホームページ上をお借りして、御礼を申し上げる非礼をお許し下さい。

また、直接お会いして頂きご指導して下さった高澤等氏、色々先祖捜しのノウハウを提供して下さいました丸山学氏、その他関係行政機関の文化財担当者等々の皆様の御蔭を持ちまして、佐藤家推定系図の復元相成りました。

本当に長い間、先祖捜しにご協力頂き有難うございました。今後とも宜しくお願い申上げ、「父方先祖捜し」を終わりと致します。

以上 平成28114日(筆者の誕生日)記