母方のルーツを求めて

母方のルーツについての情報は、亡き姉が生前に過去帳から調べて残していた資料と除籍謄本だけである。それを頼りに調べることにした。

1.母がよく言っていたのは、曽祖父市太郎は、羅卒、その父親は与力であったと。母(明治43725日〜昭和52223日)の先祖は、除籍謄本と姉の資料から4代前の高祖父徳治までは判明していた。

曽祖父の死亡地は、高松市新塩屋町(現在はこの町名はない。)52番地とある。届出は、同居人荻田常太郎となっており、葬儀は本籍地の観音寺市内にある宗林寺で執り行ったと同寺の過去帳に残っている。過去帳に市太郎は、「市造」とあり通称名であろう。その後、祖父常太郎は、市太郎が大正104月没後、家督相続したが、大正122月和田浜から大分市の妻の実家へ、移転した。

2.調査の経過概要

(1)  「荻田一族」(志村平治著)を精読した。観音寺市役所生涯学習課に尋ねると史料としては、三豊郡史、豊浜町誌のほか、「新編丸亀市史第4史料編」に「丸亀藩分限帳」があると聞き、国立国会図書館で、天保と嘉永年間の丸亀藩主京極家の家臣団分限帳を調べて見たが、荻田の名前は、すべてに出てこなかった。

(2) 除籍謄本の保存期間が80年から150年に延長されたので、観音寺市役所に徳治の除籍謄本の確認電話を入れてみるとあるとの返事。早速、申請し、取り寄せると次のようなことが新たに判明した。4代前の高祖父徳治の除籍謄本に徳治は、荻田善祐次男(文政10614日〜明治3856日(78歳)とある。曽祖父市太郎「通称名:市造、安政2年513日〜大正10516日(66歳)」は、徳治次男である。

荻田善祐の本籍地は、愛媛県豊田郡花稲村、徳治は次男の故か、或いは、父親の死亡によってか、嘉永627日に豊田郡花稲村188番戸に分籍している。更に、市太郎も本籍地を花稲村から明治22123日付けで35歳の時、愛媛県豊田郡和田浜に分籍している。(因みに徳治の長男は、里治と言い、嘉永4214日生まれ、その子益穂となっている。里治は、長命で昭和1288歳で亡くなっており、過去帳には荻田佐太郎(喪主荻田サト)とある。この子孫が今調査中だが分からない。)

除籍謄本に明治3856日高祖父徳治死亡により、長男里治が家督を同年519日に相続した。里治の妻は、サトと言う。明治71221日生まれ、同村石川伴二次女とのこと、明治27420日入籍している。そして祖父常太郎の従兄弟の益穂が明治27716日に生まれた。この子孫が判明すれば、先祖探しももっと楽になるのだが、未だに不明だ。

(3) 次に、電話作戦に切り替え、観音寺市和田浜にお住まいの荻田氏数家に確認したところ多くの荻田氏が、大野原花稲から来たとのことであった。

そこで、花稲の荻田氏の電話番号を図書館で確認、電話すると“主人に聞けばわかると思いますのでとの事。私のHPをみてメールを下されば幸いである。”旨お願いした次第。

数日後荻田悟左衛門(仮名)氏からのメールで、次のような事が分かった。

 現在、大野原花稲近辺に生活している荻田の先祖は、長宗我部を逃れ、土佐から女性(新田姫)を護り、落ち延びて来たと聞いております。

近江付近の由来の武家で、一条家(?)ゆかりの流れと聞いておりますが明確な証拠はありません。また、後日、そちらの高祖父徳治様が嘉永6年に、「花稲村188番戸」に分家とありましたので当方の除籍謄本をとりました。

すると結果は、一部省略しますが、当方の曽祖父「種治」の除籍謄本の籍がなんと、1番戸違いの「愛媛県豊田郡花稲村189番戸」となっていました。

番戸が隣ということで、こちらの墓地の碑文を一通り、当たってみましたが、徳治、市太郎氏の名前は見つかりませんでした。188189番戸の地籍を特定する必要があるようです。目下の情報はここまでです。

とメールがあった。また、花稲荻田氏の菩提寺は盛福寺、家紋も同じ紋とのこと。このような情報を頂くとは、先祖調査にとって非常に有り難い限りであった。

(4) 過去帳から先祖を探すため、大分荻田家の菩提寺を大分荻田氏に聞くと観音寺市にある宗林寺がそうであると確認できた。宗林寺の過去帳によれば、市太郎と妻トミさん(市太郎で  はなく、「市造」の妻とあるそうだ。)の名が残っているそう    だ。しかし、それ以前には徳治の名はない。住職は、葬儀は観音寺か、盛福寺では行われたのではないかと言っておられた。花稲荻田氏に確認すると、盛福寺は今無住持となっており、過去帳はセコムが管理していると花稲本家の荻田治良右衛門氏(仮名)から連絡あった。

 幸いなことに、その本家が盛福寺の総代であった関係から過去帳を同じ宗派で同市内にある寺院に移管する手続きを取りますとのこと。また、同時に荻田氏の中で先祖探しを親の代から継続調査されている荻田秀五郎氏(仮名)が居られるのでそちらにバトンタッチしますとなり、以後急ピッチで先祖探しが進行したのであった。なお、盛福寺のご本尊様は、先祖の荻田某氏が寄進したものと伺っており、寄進者名と年代が分かれば、もっと荻田氏の由来が分かるものと思われ、観音寺市教育委員会文化財課に問い合わせたが調査はしていないとの返事であった。

(5) 荻田秀五郎氏(仮名)から、平成5年4月1日発行の郷土史大野原町開基350年記念誌、大野原の開拓」の中に、「戦国期に島津氏に敗れ、伊予に渡り、そこから一族郎党を伴って花稲に来て、今の中林東に砦を構えて住んだようである。古老の伝えるところではお城があったとも云う。また、荻田一族は関ヶ原合戦で亡命し、来住した。中林西で、当時はまだ松の木の大木が点在した中で居を構えたもので、そこには一族の新田神社が祀られている。」との言い伝えがあるそうだ。

(これらについて史実を「土佐物語」「西讃府志」等々の文献を調査したが、長文になるので割愛する。また、「花稲の両墓制、花稲には十カ所の墓地がある。そのうち三カ所は「取り墓」といって墓標のみで埋葬はしていない。これは、有力な一族が礼拝の便を考えて屋敷近くに設けたもので、中林の石川、荻田一族のものと、薬師堂墓地の三カ所がある。古いものは元禄、正徳年代から徳川末期に及んでいるが、明治以降のものはない。」などと、書かれています。』とあった。

その後、取り墓に刻まれた名前などについては、平成20年頃取り墓を撮影した写真がCDで送られて来た。その一部が下の写真である。

 


以下、続く