3.現地調査

  過去帳が正楽寺に移管されたとの電話連絡があった。早速、荻田秀五郎氏と一緒に同寺に参詣、過去帳を確認すると徳治の名があった。菩提寺に間違いなしと判断、過去帳写真を二日間かけて撮影、また、盛福寺にもお参りし、荻田姓のお墓を確認し帰宅した。 

4.過去帳の整理と取り墓とからの分析

(1) 大分荻田家の徳治以前の菩提寺は、間違いなく盛福寺であろう。これを調べれば先祖がわかるのではと思い、過去帳から花稲荻田姓をピックアップ、それを年代順にPCに入力するとともに俗名と親子関係を表す文字が書かれていないか確認しながらデータベースを作成した。

数日後、同氏から過去帳と取り墓のデータベース化されたDVDが送られて来て不明であった筋目もはっきりしたのである。

(徳治の名は、最左端に見える。)

分析の方法としては、徳治から一代ずつ先祖を辿ることにした。徳治の戒名は、明治三十八年の条に「徳峯惠實信士四月三日、花稲荻田徳治事」とあり実在が確定できたのである。しかし、除籍謄本にある徳治妻イトの戒名は終に見つけることが出来なかった。

(2)  次に高祖父の父善祐であるが、過去帳にその名では出て来ない。そこで宗林寺さんのアドバイス「同時代に没した「善」という名の付く戒名があればそれがそうです。」ということを思い出した。

ア 善の一字でもある同時代に生きた人としては、過去帳にはなかったが、ある取り墓の正面に「穐峯良円信士圓室妙覚信女」、右面に「明治十二卯年旧八月十三日荻田皆八行年五十四歳善次長男也」、左面に「仝人室ナカ」とある。過去帳から同名の戒名を探すと、過去帳明治十二年の条に、「穐峯良円信士八月十三日花稲村荻田三七治事」とあり、荻田皆八は花稲村荻田三七治事であることが判明、父親は善次であることも確認できたのである

この皆八の父善次が善治の当て字であろうか? すると皆八が善治の長男であれば、除籍謄本に善祐の次男とある徳治は、三七治(穐峯良円信士)と徳治(徳峯惠實信士)と2歳違いの兄弟ではないか? 時代的にも戒名(共通名「峰」)からもその様に推定できる。しかし、善次と善治が同一人物かどうか、或いは別人か? の確認がいる。

 イ 別の取り正面に「大道宗徹信士、妙露童女、桂嶽妙月信女「妻コト」。)」、右面に「文政十三年庚寅三月五日」荻田善治行年  二十八歳」、左面に「桂天保七丙申七月二十四日同室名コト・・行年三十六、文政九丙戌十月朔日、同子名ブン年五歳」の墓がある。

   これによれば、大道宗徹信士は荻田善治とあり、コトはその妻であることが分る。過去帳にも天保七丙申年の条に、「桂嶽妙月信女、花稲彦造妻」とある。善治は、28歳で死亡したが、その時長男皆治は5歳と次男徳治2歳である。善治妻コトは、過去帳に彦造妻とあるので、彦造と再婚したのではと予測して調査継続。過去帳明治九子年の条に「心月道照信士、三月十日、花稲村、荻田彦造」とあるのが見付かったのである。この彦造と再婚したと考えても不思議ではない。また、コトは再婚6年後に死亡しており、彦造は、慶應四年の条に「寂室妙黙信女二月十五日、花稲村彦造ツマ」とある方を後妻に迎えたのであろう。このことから、この彦造が、善祐の通称名であり、善治を祐けるという意味から善祐と名乗ったのではなかろうか? 善祐は、善次=善治とすれば、皆治と徳治の継父ではないか? 

  ウ 序に善祐の父は誰? 善祐は、入り婿のようだが、その父を辿って見たい。

善祐父はどの筋目になるのか? この判断材料が、戒名である。戒名は、先祖の戒名を参考にするとある解説書にあった。善祐は、過去帳から俗名が彦造「心月道照信士」のものと思われることは前述した。私的には、取り墓のある津右衛門の子、初治の弟ではないかと愚考している。理由は、初治(慶応三年没)」の戒名「法道恵心信士」から推察したが、無理? 正解? 

 なお、津右衛門の名前のある取り墓も同じ墓地内にあり、近い親戚であったと思われる。ご両親は、安政ニ年八月、十月と相次いで亡くなっていることからもそのように判断した。

(3) 次に、善治(次)の父親は、過去帳:「文政十三庚寅年三月七日花稲村源右衛門の子大道宗徹信士」とある如く源右衛門である。源右衛門妻は、「同年正月十八日没の春惠祖光信女花稲村源右衛門の妻」とあり、この二人が善治の両親であると分かる。また、墓正面「雪惠祖立信士、春惠祖光信女、仙嶺儀桃信士」、右面「文政十丁亥十二月二日、荻田源左衛門行年五十七歳」、左面「文政十三庚寅正月十八日源左衛門妻・・以下略」とある夫婦のり墓もあるので明白だ。(過去帳には源右衛門とあり、墓碑銘源左衛門は源右衛門の間違いと確信している。)

  (4) 次に、源右衛門の一代前は?

過去帳文政二年の条に「寒巌祖梅信士源左衛門父幸右衛門事」及び過去帳文化十五年(文政)元年の条に「寛嶺智宥信女花稲幸右衛門妻」とあるのが分った。また、同様の墓碑銘のあるり墓にあることからも確認が容易にできたのである。(過去帳には源右衛門とあり、墓碑銘源左衛門は源右衛門の間違いと確信している。)

(5) 更に、幸右衛門の先祖を見つける作業を続けなければならない。

過去帳明和七寅の条に「十一月三日一陽宗心信士花稲村荻田源左衛門幸右衛門父也」、また「安永ニ年癸巳七月二十四日妙ァ信女花稲源左衛門妻幸右衛門母」とある。この墓は源左衛門ご夫妻、即ち、幸右衛門の両親である。同様に取り墓には正面「一陽宗心信士、妙ァ禅定尼」、右面「明和七寅十一月三日俗名荻田源右衛門幸右衛門父也」、左面「源右衛門幸右衛門父也」とある墓石がある。(過去帳には「花稲源左衛門」とあるので源右衛門は源左衛門の間違いだろう。)

以上、善次から更に先祖3代が判明したのである。

以下続く